枯葉
最近、妻の様子がおかしい。
普段とは違って俺に対する口調が優しい。
それに、夕食はどうする?だとか、お風呂先入るね、なんて些細な会話すらなかったのに、やけに会話をしたがるようだ。
俺たちはもうお終いなんだよ。
今更新婚気取りなんて反吐が出る。お互いいい年なんだし、止めてほしい。
だが、それだけならまだ我慢できた。
一番大きな問題はそこじゃない。
「私たちも子供がいればもっと違ってたかもしれないわね。」
うるさいよ、と思っているが口にはすまい。昔、魔が差して一度だけ過ちを犯したときから、妻には強く言えなかった。
俺たちには子供はいないが、俺にはいる。
過ちから生まれた息子とは一度も会ったことはないが、妻をひどく傷つけたことは間違いない。心から反省もしている。
だが、もう過ぎたことだ。
近頃、家内は子供の話を何度も挙げる。俺にとってこんなに辛いことはない。
だって言えないじゃないか。俺はもうお前を愛していないんだよなんて。
頼むから事故か病気で適当に消えてくれないか。
最近、夫の様子がおかしい。
立ってる時も、座ってる時も貧乏ゆすりをしてばかり。
会社で辛いことでもあったのかしら、と考えたりもするけれど、仕事の相談なんてただの一度もしたことはなかった。
だから私もあの人の気持ちを汲んで深く聞きはしなかったわ。
それでも心配だったのよ。
夫の様子が日に日に悪化していくのを黙って見てるなんていられなかった。
「あなた、今日はあなたの好きなキノコの天ぷらを作ってみたの。味見してみて?」
「おはよう、あなた。今コーヒー入れるわね。隣の奥さんから良い香りの豆をいただいたのよ。」
できる限りのことはしてみたつもりだったけれど、灰皿のたばこが余計に増えただけだった。
あなたのことが心配なの。私にできることがあるならなんでもするわ。
うまく伝えられないけれど、これが私の本心よ。
私だけはあなたのそばにずっといてあげるから。
「課長、だいぶお疲れですね。まだ休んでても良かったんじゃないですか。」
「そういう訳にもいかんだろう。契約もノルマに足りてないんだし、人員に余裕がある訳じゃないんだから。」
「あんまり無理しないでくださいね。僕で良ければ仕事を引き継ぎますから。」
「ああ、辛くなったらそうさせて貰うよ。」
妻が死んでもう一週間になる。先週まで俺が望んでいた結末だった。
先週の火曜日、いつものように自宅に帰ると家の電気は消えていた。
この時はまだ、心配よりも苛立ちの方が大きかった。
「陽子、いないのか。ったく、疲れてんだから余計な手間かけさせんなよな。」
おぼつく手元で壁を触りながら、部屋のライトのスイッチを撫で押した。
急な光に目が追いつかないが、薄目で周囲に目を配ると大きな影が一つ見えた。
「陽子…!?おい、陽子っ!?」
ひとめでただ事ではないと分かった。
LED灯に照らされ、陽子が姿を見せた。もっとも、自分の意思ではないだろうが。
陽子は首を吊って死んでいた。うなだれた顔から表情は伺えない。
頭が真っ白になった。何でだ?何でこんなことに。
そうだ、とり、とりあえず救急車!!
こうして俺と妻の15年に及ぶ夫婦生活は幕を閉じた。
俺にしては長続きした方だったと感じているが、周りの目が怖くて口になんてできやしない。
「課長、そろそろ僕も帰りますね。」
「ん?お、おう。お疲れ。お前はカミさん大事にしてやれよ。」
「え?ああ、ありがとうございます。お先に失礼します。」
時刻は21時を過ぎた頃。デスクに向かってため息をつく俺を除いて人はない。
通夜も葬儀も無事終えて今日から出社したはいいが、やはりもう少し長く休んでおくべきだったな。
陽子の親族からは夫婦仲のことや、陽子が悩んでいたかなど、うざったいくらいに聞かれたが、そんなこと俺が知るか。
結局、陽子がなぜ自殺を選んだかは謎のまま一週間を迎えてしまった。
陽子死んでいた家で俺はまだ生活を続けている。
皮肉なもんだ。この間まで願っていたことが現実で起きたっていうのに、今では陽子との写真を眺める時間が増えてきた。
「くそ、なんだってんだよ。なんで勝手に死んでんだよ。」
もはやキーボードを打つ気力もない。今日はここまでか。
そそくさと荷物を纏め会社を後にする。
今の俺の理性を保たせてくれるのは仕事だけだ。
家への帰り道。そういえばあそこも2人で歩いたな、とか、この店でよく2人おんなじパスタを一緒に食べたっけかなんていつの間にか考えている自分がいる。
認めたくないが俺はきっと、今でも陽子を愛していたんだな。
やっと気づけたってのにお前がいないなんてな。俺はほんとバカだったよ。
陽子が死んでから11日が経った。少しづつ気持ちの整理がつき始め、仕事にも身が入るようになってきた。陽子のいない時間が流れていくことで、その環境に慣れてしまっている自分が憎らしい。
「課長、お電話です。何でも奥さんのお知り合いだとか。」
会社に一本の電話が掛かってきた。正直、私用の電話に出てるほどの余裕はないが、妻の知り合いならばと電話を替わった。
「はい。北村です。失礼ですがどちら様ですか。」
「こんにちは北村さん。一度お話しがしたかったんですよ。」
「どうして私のことを?あなた一体誰ですか。」
「ああ、ごめんなさい。まだ名乗っていませんでしたね。私は陽子の叔父で孝夫といいます。昔1度だけ会ったこと覚えてませんか?」
そういえばそんなことあったような気がするが、覚えていない。
でもどこかで聞き覚えのある声だった。
俺が覚えていないだけで、陽子を知っているならきっとそうなんだろう。
「その叔父さんが一体なんのご用ですか。」
「北村さんね、陽子がなぜ亡くなったか知りたくありませんか。」
どうしてそんなことを?と思った。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか陽子の叔父は語り出した。
「陽子ね、実は最近よく私に電話をかけてきたんですよ。あなたのことが心配だけれど、何もできなくて悔しいって。」
「陽子が…?でもあいつ、そんな様子全然見せてくれなかったのに…。」
「そうですね。まあそれはさておいて。あなたも仕事中で忙しいと思うから、結論だけ言わせて貰いますね。」
ま、待ってくれ、気持ちの整理が…。
「陽子、あなたを殺そうとしてたんですよ。」
え?今なんて…?
「私の力じゃあなたを救うことができないって。だったら解放してあげることがあなたのためになるんじゃないかって。」
「バカみたいでしょ?でも、あの子本気だったんですよ。」
息が詰まる。何だ、何だこの感情は。いや、感覚か?よくわからない。
なんて言ったらいいんだ?殺されなくて良かった、か?俺が代わりに死んでいれば、か?いや、そもそもこんな時に気の利いた言葉なんて存在するのか。
「でも陽子、ぎりぎりのところでどうしても殺せなかったみたいです。やっぱりあなたを愛していたんだと思います。」
でも、じゃあ、なんで陽子は自殺を?
「じゃあどうして自殺なんかしたんですか?」
そのまま声に出た。
「陽子言ってました。一度でもあなたを殺そうとした自分が許せないって。あなたの幸せを願っていたんですよ。」
「そんな、そんなことで。」
俺だって何度も死んでくれと願ったことがある。お互い様だったはずだ。
「長電話しちゃってすみません。そろそろ切りますね。」
「あ、あの!もう少し話を…!」
「北村さん、最後に一つだけ。」
「え?なんですか?」
「…殺してやる。」
ガチャッ
そこで電話が途切れた。
最後の言葉は陽子の叔父が言ったのか、はたまた陽子が叔父越しに言ったのか分からない。
でもおかげで気持ちがすっきりした。
たとえ殺されたとしても、俺は恨みはしないだろう。
陽子、15年間ありがとうな。迷惑ばっかかけたけど、これが最後だ。
もうじき俺もそっちへ行くよ。
しかし、俺はそれから10年経っても死ぬことはなかった。
そして、こうして手記を残しているときに一つ気づいたことがある。
あのとき、もし電話に出ていなければ俺はもっと早くに死んでいただろう。
また、あとで分かったことだが、俺の過ちの末生まれた息子とその母は、妻が死んでから2週間ほど経ったころに、交通事故で死んでいたそうだ。
何か因果関係があるのかもしれないが、今となってはどうだっていい。
あとは目の前の縄に体を委ねるだけなのだから。
殺してやる。
おかげで気づけたよ。
殺してやる。
やっぱりおまえだったんだな。
殺してやる。
お前はいつも俺の帰る時間を知っていたもんな。
殺してやる。
今、俺が死ねば完全犯罪なんだろうな。まあいいさ。お前に助けられた部分もあったしな。
殺してやる。
会社に居場所がなくなった今、俺の理性は崩れ去った。
殺してやるよ。
お前はもう必要ない。
うるさいな。お前に殺されたなんてみっともなくて情けないから、自分で死なせて貰うさ。
締まりのない口角を広げながら、俺は静かに椅子を蹴った。
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