ソメイヨシノ

遠山李衣

プロローグ

 どうして、あなたが死ななければならなかったのだろう。

 どうして、今ここに立っているのはあなたではなく、私なのだろう。

 コンクリートに遺る、すっかり黒ずんだ手の跡。右手を重ね、かつてあなたと並んで座ったように、ソメイヨシノが大きく描かれた冷たい壁に寄りかかる。見上げると、ちょうどトタンが剥がれた部分から、円い月が顔を覗かせていた。

「今夜も月が綺麗だよ、櫻さん」

 応えるように風が吹き、私の前より少し伸びた髪を撫でる。風の悪戯か、とっくに終わったはずの桜の花弁が何処からともなく入り込み、唇を奪った。

「私に逢いに来てくれたの…?」

 あなたの通り名と同じというだけで、都合よく解釈してしまいそうになる自分に苦笑を洩らす。

「一緒にお酒飲もっか」

 気を取り直すように、今夜のために作っておいた前割り焼酎を取り出し、ふたり分のお猪口に注ぐ。仄かに芋の香りが広がり、月明かりを受けてキラキラ光る。

 ほんとうは、あなたの愛用していた黒千代香も持ってきたかったのだけれど。

 夜は永い。一度お猪口を目の辺りまで持ち上げると、そっと口をつけた。

 

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