煙突の上の酔っぱらい

日野 哲太郎

第1話



               一九八X年 八月初旬 日没後。

               東北地方の盆地に開けているS市。

               その繁華街から遠く西の外れにある?の上の話。


「なるほど。パスカルの言葉はほんとうだわい。たしかに事物の実在が、俺を中心にした無限の球体に見えるぞ!」

 自称詩人アルファは、雲に乗った孫悟空のような気分になって奇妙な天地の様相に感心していたが、その意味するところはどちらかというとはったりに近く、その言葉は位置エネルギーがもたらしている緊張感を和らげるために、思わず飛び出してきた言葉なのであった。

 パスカルの言葉を正確に述べると「事物の実在は、いたるところがその中心であり、どこにも周辺のない無限の球体である」というのであるが、そんなことはどうでもよかった。とにかく眩暈を一刀両断にする強い言葉が必要なだけであった。彼は即興的に「いたるところ」を「俺」に集約し、「どこにも周辺のない」という一句を省いて、暗闇に吸い込まれていきそうになる自分を辛くも認識していたのである。

 鉄筋コンクリートが風にゆれるという事実に、彼ははじめて直面していた。途中で二度三度地面を見下ろしたけれども、中間を越えた地点からは見慣れているはずの風景が暗闇と重なって別世界のように感じられ、生きた心地がしなかった。空気の印象までがちがうのである。夜風が直接身体にぶつかるせいもあったけれども、登れば登るほど気分が清らかである半面、亡霊に背筋をなでられているような妙な気がした。ところが不思議なことに、あたりを見回さなくなったものの、引き返そうなどという理性は働かず、満点の星を仰ぎながら時間の重圧に耐えて、天辺まで登ってしまったのである。

 左足を深い空洞に突っこみ、コンクリートに馬乗りの形になってからも気をぬく余裕はなかった。円周が意外に小さな空洞であることに驚き、全体が木のように揺れているのには血の気が引いた。自分の重量が倍も重くなったような軽くなったような気がした。それは、転落した場合と風に飛ばされた場合の二つを危惧してのことであった。ここは、地上三十米はある煙突の天辺なのである。


 普段から死にたいと口癖のようにつぶやいている者でも、自力で煙突に登る作業をやらせれば、途中で気を失って転落する者は別として、こんな莫迦なことをやる意欲があるかぎりは、何か他にやるべきことがあるのだという確信にダイレクトに到達する。彼はあまりに単純に絶対死ぬものかという言葉を繰り返している自分を発見して気恥ずかしくなった。が、下を見おろした途端、その気恥ずかしさは消えた。生きている自分だけが認識されて、死の空想がいかに脆弱なものであるかが判明した。たしかに死の空想は、生の強壮剤にすぎぬものなのである。


 煙突の天辺に到達してしまったとき、コンクリートに埋め込まれている鉄梯子がはなはだしく錆付いていたことが思い出されて絶望的な気分におちいったが、一旦開き直ってしまうとそれはそれで腹が据わり、死の恐怖までが想像力が描いたつまらぬ戯画であるかのように思われてきた。置かれている立場があまりにもrealすぎてとてもromanticな気分にはなれなかったが、諸々の取り越し苦労が払いのけられた結果、それはそれでそれなりの快さが感じられていた。

 断っておくが、彼は自殺のためにここに登ってきたのではない。哲学的な瞑想に耽る高慢な気取りのためでもない。あるいは、熱病に冒されて気が狂れたわけでもない。理由はいたって他愛ないことである。つまりそれは、花火を見物するためなのであった。


 自称詩人アルファはおよそ二十分ほど前、自宅の二階の屋根に登りウ井スキーをちびりちびりやりながら花火を見物していたのだが、前方の石立山が邪魔をして大輪の花火が半円にしか見えない。それでは名画を半分しか見られないのと同じでつまらない。が、かといって、四キロほど離れた街中の打ち上げ場である市営球場へ単車を飛ばして行く気もしなかった。彼はお祭気分は好きであったが、人波に呑まれてたがいに押し合うのは苦手であった。人混みはいやだが大輪は見たい。そこで普通ならば、人混みを離れた見やすい場所を探そうとするはずであるが、彼は短絡的に屋根よりも高いところと考えた。理由は簡単である。莫迦は高いところが好きだというが、彼はその高いところが好きだったからである。

 彼は屋根の上からあたりを見わたした。

 裏山に登るには時間がかかりすぎる。杉の木では枝が邪魔をする。

 そうこう考えているうちにふと目にとまった物があった。百米ほど離れた川向こうの硝子工場には、煙突が突っ立っていたのである。

 工場には五本の煙突があるが、そのうち四本は操業中で黒煙を吐いている。炭になるのは御免だ。しかし見よ! 一本だけ、塵焼却用の煙突は、他の煙突と同じ高さで工場の脇に屹立しているものの、煙を吐いてはいない。実際その煙突は、滅多に使用されることはなかったのである。

 そう考えただけで彼は居ても立ってもいられなくなり、ウ井スキーを肩掛け用の頭陀袋に入れて「花火を見に出かけるの?」とたずねた妹に「そうさ」と答え、「連れてってよ」の申し出に「危ないからよしなさい」と言い残して、この空地にやってきたのである。そして、昼夜を問わずに操業している工場員の目を盗んで、けなげにも煙突に登りはじめたのであった。


 天辺に到達したあとで、べっとりと汗ばんだ手の平をジーパンに擦りつけながら、彼は我ながら行為の大人気なさに呆れたが、たしかに花火はよく見えた。腹を空かしてまでも読みたい本を買う奴だっている。危険を冒してまでも未踏の岩壁にいどむ奴だっている。目的は違ってもそれと同じ行為だとアルファは考えていた。花火を見るために煙突に登って転落死などというのは、かっこ悪い以上に笑い話だが、人間は多かれ少なかれそのような愚行に身を投じている。考えてもみるがいい。たった一瞬のために何千万円というお金を浪費するあの花火のことを。何百万円の借金を返せずに自殺する人もいることを思えば、なんと豪華な一瞬だろう。それを見るために死んだとしても、それはそれで贅沢な話である。悔いはない。俺が命懸けで登った分だけ、花火はより美しく見えるのだ。それはそれでいいじゃないか。彼はそう決めこんでいた。

(もしも死んだら両親が悲しむ。もしも死んだら人生が終わる。そのようなことを考えて臆していれば、芸術も、冒険も、進歩も、夢も、喪失してしまうことだろう。もしも死んだらなどということを考えて逡巡すれば、自動車にも飛行機にも乗れないはずだ。かといって、安全に部屋に閉じ籠っていても、癌にかからぬとはかぎらぬし、火災や地震で家が壊れないともかぎらない。老衰で墓場に入るのを考えずとも、人間はいずれにせよ死と隣り合わせに生きているのである。死の意識が人間の活力を高めるものであるならば、死の確率など問題ではないではないか。・・後略)

 だが、正直いって無鉄砲な彼も煙突に登ってすぐに花火の美しさに心を奪われたけれども、それを一杯気分で見物する気にはならなかった。位置エネルギーは、彼の精神と肉体とを極度にこわばらせていたのである。天辺の円周上に馬乗りになっていた彼ではあったが、両足が緊張感にふるえている。避雷針にふれてみると意外なほどに薄っぺらなブリキのようで、形ばかりが槍の尖端のようにとがっている。コンクリートも鉄格子もどこか不確実な頼りない存在であった。パスカルの言葉を思い出したのはこのような状況下においてであった。彼は、自分の中心点を見つけようとして必死になっていた。でなければバランスが崩れて、深い闇のなかに落ち込んでしまいそうな気がしていたからである。


 アルファはパスカルの言葉にも飽きると、煙草を取り出して口にくわえ燐寸で火をつけようとした。ところが風が強くて炎が吹き消されてしまう。一本、二本、三本、・・七本目の燐寸でようやく火がついた。

 煙を大きく吸いこむと、自分が煙突の上にいることが摩訶不思議なことに思われてかすかに頬がゆるんだ。そこで星空を見上げて煙突のかわりに口から煙を吐きだした。

 ある種の人間に特有の快感が込みあげてきて、彼はほがらかになった。何がおもしろいのか判然としないけれども、そもそも人間の心などというものがどことなくおもしろいものなのであろう。

 ウ井スキーの角瓶を五分の一ほど空けてから登りはじめたはずであったが、酔いはすっかりさめていた。残りのウ井スキーを頭陀袋に入れて持ってきたこと自体が、じつに愚かなことに思われた。どんな阿呆でもこんな煙突の天辺で一杯やる気にはなるまい。持ってきたからには飲む気であったのだろうが、いかに理性に乏しい彼とはいえ、やはり飲むのはためらわれた。

 煙草を吸い終えるとそれをコンクリートに押しつけてもみ消した。火の粉が風に流されて闇に消えてゆく。吸殻は空洞に投げ入れたが、墜ちてゆく音は聞こえなかった。かわりにかすかな爆音が耳に忍びこんできた。


 大輪の花火が、揉み消した火の粉のように夜空に消えていく。川の音、風に震える古木と電線の響きが、淡い伴奏音となって眼下に漂う。花火の豪華さが、暗いキャンバスにいっそうの果敢無さを描いている。

 アルファは溜息をついた。

「命を、あの花火のように散らすことができたら、うれしいだろうな」

 彼はそう思いながら、懐かしい故郷の夜景に見入っていた。


 東側には城下町であったS市の街の灯が、石立山の山陰を除いて一望できた。花火は街の灯を飾るように明滅を繰り返している。夜景であることと視点がいつもと違う事から、見慣れているはずの風景がまるで夢の世界のように感じられたが、星明かりと花火と瞬くような街の灯を頼りにこんもりとした木々の合間を縫うようにして、あれはポール工場、あれは某中学校、あれは国道四号線、あれは牛乳山、あれは製紙工場、あれは何々、あれは何々と、次々に頭の中にある地図帳とながめている地形とを符合させてゆくと、それにつれられて印象的だった思い出の一つ一つが、ぼんやりと照らされている風景の一つ一つと接続しはじめた。 

 それがはじまると視界は単なる物質世界ではなくなる。現在の時間が心を媒介にして思い出のなかにある過去の時間と重なり合い、眼前の空間が変わらぬ地形を支点として過去の空間と重なり合う。彼は思い出に酔うにはあまりにも若かったし、あの頃は良かったとか悲しかったとか溜息まじりにしんみりとするような回顧趣味は持ち合わせてはいなかったが、あたりを見回すという作業がいわゆる観察の範囲に留まっていなかったことだけは確かである。それは人の蠢く絵巻物であり、鬼がおり、罪もあるが、ところどころに天使も住まう少年時代の小さなお伽の世界であった。


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