04 ドン!
放課後の、漫研部の部室。
大好きなものに囲まれたこの空間はいつだって私を癒してくれる、居心地の良いところだ。
右を見ても左を見ても、漫画本。机の上には誰かしらがちょっとずつ持ち込んだフィギュア(主に美少女たち)。
そして、この部室に集うのは、こういった空間を一切否定しない人たち。つまり同士。
オタク趣味というのは今でこそ広く認知されたけれど、それでもまだ白い目で見られることが多い。漫画を読むことはそこまで言われなくても、自分で描くとなると「良い趣味ですね」とはなかなか言われないだろう。
この部室のフィギュアたちも、「自分の部屋に飾ると掃除に入った親に何を言われるかわからないから……」と言って先輩たちが持ち込んだのを知っている。
でも、この部室内ではどんな漫画を読んでも、描いても、フィギュアを飾っても、誰も何も言わないどころか、ある程度のことは共有して楽しむことができる。
だからここは、私にとってホームだ。居心地の良い、私が私になれる場所。
その居心地の良い場所を今、自分で殺伐とさせてしまっているのだけれど……
「筋肉……筋肉……きん、にく……二人のぶつかりあう、筋肉……」
ネームを切りながら、サナがうわ言のように何かを呟いていた。プロットを見せてもらったかぎりでは、サナの推しカップリングが些細なことで喧嘩をして、何故か裸になって殴り合って、最後は熱い抱擁を交わして仲直りするという筋書きになっていたから、今はたぶん山場である喧嘩シーンを描いているのだろう。
サナの悪いくせは、萌えるシーンはとことん引き伸ばしてしまうことだ。だからあと少ししたら止めてやらないといけない。そうでないときっと、「殴りすぎ! 死んじゃうから!」という展開になってしまう。
「……はぁ、決まらない」
サナの場合はいい。甘々イチャイチャが始まるまでの、良い意味での定番と呼べる流れを自分の中に持っているから。
問題は、私。萌えるシチュエーション、描きたいシーンは山ほどあるのだけれど、それに至るまでの流れがなかなか思いつかないのだ。
毎度毎度、産みの苦しみ。こうして悩むたび、自分には才能がないんじゃないかって悲しくなる。でも、やっぱり描きたいから、苦しくても悲しくても手は止めない。そうしたら、出来上がったときの喜びはひとしおだから。
あの喜びを知ってしまったら、もうやめられない。二次でも一次でも、曲作りでも。
「神よ……! 降りてきて!」
私は雨を願う敬虔な人々のように、目を閉じて何かがアイディアをもたらしてくれるのを待った。
「部長さん、何だか姫川と真田の様子がおかしいんですけど」
「締め切り近いからね」
「締め切り?」
「そう。もうすぐ同人イベントがあって、それに本を出すためには間に合うように印刷所に原稿を提出しなきゃいけないんだよ」
「ああ、本の締め切りなんですね」
「そう。それで二人は煮詰まってて……あんまり何を呟いているかは聞かないであげて。というより、聞かない方がいいよ。特にサナさんのは。また腐海の毒にあてられて熱が出たらいけないからね」
「……はい」
今日も北大路は部室に来ていた。そして原稿に取りかかった途端に様子がおかしくなった私たちを目にして
おかしくなっているのは自覚があるけれど、まだ良い方だ。特にサナ。彼女のいよいよ追い詰められた姿というのは、見慣れない人間にはきっと刺激が強いだろう。
「北大路、部室にひっついて来てるとこ悪いけど、こんな感じで入稿できるまで余裕ないから、曲のほうはまだできないよ」
「別に構わん。俺は心が広い男だからな」
「そう」
北大路はどうやら漫画を読みに来たみたいだ。
ショック発熱事件のあと、成人向けの過激な同人誌は部長が責任持って自宅へと持ち帰ったらしい。そのおかげで、今の部室には禁書・悪書の類いはない。だから北大路が勝手に本棚を漁っても、悲鳴をあげる心配も熱を出す心配もなくなったのだ。
あんなに衝撃的なものを目にしたのに、北大路はめげずに漫研の部室にやってくる。そして漫画を読んでいる。それが少し意外だった。
北大路みたいなモテるリア充は漫画なんてヒット作しか読まないし、オタクのことも道端の石ころ以下だと馬鹿にしているのだろうと思っていた。
でも、北大路は私たちのことをオタクだと馬鹿にすることはなかったし、漫研部に馴染みはじめてすらいる。
馴染むなよ、と言いたい。ここは私の日常だ。
まぁ、一曲作ってやれば納得して、もう私には関わらなくなるだろうけれど。
「なぁ、姫川はどんな漫画を描いてるんだ?」
「教えないよ」
離れたところに座っているけれど、北大路が首を伸ばす仕草をしたから私はとっさに描いていた漫画を両腕で隠した。それを見て、やつは訝るような顔をする。
「まさかお前もびぃ……」
「メーちゃんは腐ってないよ。メーちゃんは描くのは男女カプだけなの」
「まあね。男同士もおいしくいただけるけど、あれは才能いるからね。私にはうまく描けない」
「愛し合う気持ちは男女も男同士も基本は変わらないはずだよ?」
「そうよね……でもさ、男同士ならではの切なさとか儚さみたいなのがあるでしょ? あの境地に私はまだ達してないわけ!」
「わかるー! だって想像するしかないもん!でも……」
「だから萌える!」
「イェスッ!」
北大路そっちのけで、私とサナはガシッと握手を交わした。ふたりとも自己投影型の萌えの消費の仕方をしないから、ああだこうだと盛り上がることができる。
世の中にはサナのような男同士の恋愛に萌える腐女子という人種のほかに、自分を作中のキャラに見立てたり自分が感情移入するためのキャラを登場させたりしてヒロイン気分を楽しむ夢女子という種類のオタクの人もいる。
そういった人とはネットとかで同じ作品が好きだということで交流を始めても、公式ヒロインの扱いが微妙だったり、男キャラ同士の話題にも気を使わなくてはならなかったりする。どちらが左か右かなんて話は間違ってもできないし、私のように公式カップリング至上主義の人間は、その気がなくても夢女子さんにとっての地雷をばらまいてしまっている。
ヒロインも含めその作品が好きな私は、サナのようにヒロイン容認派の腐女子さんとのほうが気が合うことが多いのだ。
「……部長さん」
「だから、あまり触れないほうがいいって言ったでしょ」
いつの間にか私とサナで盛り上がってしまい、またもや北大路は部長に泣きついた。普段の光景なのだけれど、慣れない人間には恐ろしかろう。気持ち悪かろう。
でも、できればドン引きしてそのまま帰って欲しい。ここはリア充の来るべき場所じゃないの。
そうやって紳士然とした部長だって、他に男子部員がいるときは萌え談義に興じているのだから。まあ、私たちのように盛り上がりすぎて声が大きくなることは滅多にないけれど。
「あー……ときめき……ときめきが足りないんだなあ」
ネームに煮詰まって、私は誰に言うともなしに呟いた。自分の部屋で作業をしていても独り言なんて言わないけれど、こうして誰かが聞いていてくれる環境にいると、つい声に出してしまう。
「ときめきかぁ……あ! ねぇ、キスしていいと思うー?」
「いいと思う! キス、大事!」
「……え⁉︎」
再びガシッと握手を交わすサナと私の発言に、北大路が驚いた顔をする。それに対して部長が、なだめるように肩を叩いていた。
「ああ、二次元の話だから気にしなくていいよ」
「…………」
ノリノリになったサナは、喧嘩のあとにほっぺにキスをすることを推奨するあの童謡を歌いはじめた。いや、君の描くものはそんな可愛いものじゃないでしょと思いつつ、楽しそうだからそっとしておく。
「姫川たち、かなり熱が入ってるんだな」
感心したように北大路が言った。
「まぁね。本当は東京で開催される夏の大きなイベントに出たかったんだけど、地方組の悲しいところで、遠征費とか諸々考えるとリアルじゃないのよ。その悔しさをバネに夏休みはバイトして、そのお金で臨む地方イベントだから、やっぱり気合入るでしょ」
「そういうわけだったのか」
納得したのか、北大路はうんうん頷いていた。でも、何か思いついたのか、ポンっと手を打った。
「そうだ! 頑張っている姫川を俺が労ってやろう! 前、テレビで見たんだ。今、女性の間で人気っていうのを」
ほらほらと言って北大路は私を立たせると、ずいずいと壁際に行くよう促した。テレビで見た女性に人気のものって、マッサージか何かだろうか。
そんな呑気なことを考えていた次の瞬間、北大路は私が背中を預けている壁に手をついた。
壁を、ドン。
そう、それはいわゆる壁ドンってやつ。
「確か、こういう台詞を言うといいんだろう? 『俺じゃダメか?』」
「やめろぉぉぉぉぉいっ!」
北大路がセリフを言い終わるか終わらないかのタイミングで、私は高速でやつの両脇を挟み込むようにチョップを食らわせた。
「はぅわっ!」
痛みのあまり変な声をあげながら、北大路はしゃがみこんだ。おかげで私はこいつと距離をとることができる。
(俺じゃダメか? ってダメに決まってるだろー馬鹿野郎! 二次元になって出直して来い!)
本当は、そうやって突っ込んでやりたかった。でも、怒りのあまり私は声を出すことができずにきた。
「キンヤくん、メディアに踊らされたらダメだよー。壁ドンってまあ、ある一定の支持は受けてるだろうけど、絶対無理って人もいるから。特にメーちゃんは高圧的な男性が嫌いだからね」
「……そうだったのか」
そうだよ。二次元でもあんまり萌えないのだ。それを三次元でやられたら、苛立ちしかない。女の子の逃げ場を奪って、そんなシチュエーションで自分の思いをぶつけるなんて言語道断だと思うのだ。
支配されたい、強引に迫られたい――そういった願望はわからないでもないけれど、壁ドンは、怖い。女性としての脆さや弱さを思いきり脅かされるような気がするのだ。だから読んでいても萌えない。
自分がされるとなると本当に嫌だった。
だから、最近オタクだけでなく一般人の間でも知られるようになった顎クイや股ドンなんかも嫌いだ。されることはきっとないだろうけれど、NHK(二の腕引っ張って突然キス)も嫌だ。後ろからハグも怖い。
ちなみに見る分には、肩ズン、おでこコツン、袖クル、あたりが好きだ。
「ごめん……姫川。不快な思いをさせてしまって」
「……いいよ」
私はてっきり「俺に壁ドンをされて嫌がる女がいるなんて信じられない」なんて言い出すのかと思っていた。それなのに素直に謝罪されて、拍子抜けしてしまう。どうやら脇にチョップはこたえたようだし、私が怒ったこともきちんと理解してくれたらしい。
でも、そうやってきちんと謝られても荒れた気持ちはなかなかすぐに元には戻らない。
たぶん、今の私は手負いの獣か何かに見えるに違いない。そのくらい、殺気じみたものを放っている自覚はあった。
「あ、キンヤくん。あれあれ、あれをやればメーさんは」
「ああ!」
微妙な感じになってしまった部室内の空気をどうにかすべく、部長が何かを北大路に入れ知恵した。部長が詳しく説明しなくても何事かを理解したらしい北大路は、咳払いをひとつしたあと、唐突に歌いはじめた。
そう、私が泣いてしまうあの歌を。
「やめてぇぇぇ」
私の絶叫も虚しく、耳に届く北大路の歌声。
この歌は、本当に私の涙腺崩壊ポイントだ。何度聴いても泣いてしまう。それがたとえ北大路の歌声だったとしても。いや、北大路の歌声だからかもしれない。これが部長やサナが歌ったのだとしたら、ウルッとはしても泣くまではなかっただろう。北大路の声は、ものすごくこの曲に合うのだ。
「どういう仕組みになってるんだろうね、これ」
えぐえぐとしゃくりあげて泣く私を、部長は珍獣でも見るような目で見ている。手負いの獣から、珍獣にクラスチェンジだ。
私だって、どうなっているのか知りたい。
どうしてだかわからないけれど、この歌を聴くとどんなに心がささくれだっていても浄化されるのだ。
柄にもなく神に祈り、星に願いたくなるのだ。
明日から良い人間になりますと、誰かに誓いたくなるのだ。
涙でぼんやりした視界で見ると、大好きなキャラが歌ってくれているような錯覚を起こしそうになる。
歌っているのは北大路だってわかっているのに。
悔しくて、私はギュッと目を閉じた。
そうすると、歌声だけが耳に届く。
歌声に神経を集中させてしまってから、私は重大なことに気づいた。
こいつの歌声が、ものすごく好みだってことに……!
(声だけ! いいのは声だけ! 好みなのも、声だけ! 落ち着け! 歌ってるのは、三次元の俺様ナルシスト!)
うっかりときめいてしまいそうになって、私は必死になって心の中で自分に言い聞かせた。
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