02 ようこそ異世界へ

 壁一面を覆う本棚。そこにびっしりと詰まった、歴代の部員が持ち込んで置いていった新旧様々な漫画本。

 部屋の中央には向かい合わせの長机、その上にはパソコンと画材とフィギュアたち。

 ここは、漫研部の部室だ。

 元々地学準備室だった場所のため、手狭ではあるけれど居心地の良い空間になっている。

 どこに目をやっても、二次元素敵なものたち。なんて素晴らしい空間。

 私は日々、放課後はこの素晴らしい空間で過ごしている。


「部長、今日は他の人たちは?」

「べっちは歯医者で、むらもっちゃんはあとから来るって。……ところでメーさん、そこの人は誰? この部活の顔面偏差値を上げにきた入部希望者?」


 メーさん、というのはこの部活での私の呼び名だ。苗字も下の名前も好きではないけれど、名前由来のこのあだ名が私は気に入っている。

 窓際の席でアニメ雑誌を広げている部長は、困った顔をして私の背後を指差している。何が見えているんだろう。部長はもしかして霊感でもあるのだろうか。


「部長、大丈夫ですか? ここは漫研部の部室で、部員の私たち以外いませんよ?」


 やだ怖い、と付け加えると部長はますます困った顔をして「メーさん、冗談よして」と言った。


「無視するな、姫川」


 私の目にも無駄に容姿の良い男の幻が見えている気がするけれど、無視しておく。こういったものが助けを求めて彷徨さまよう、なんて話は聞くけれど、声が聞こえたとしても「私はあなたの助けにはなれませんので、どうか他を当たってください」と念じるのがいいらしい。


「おい、何が『ナンマンダナンマンダ』だよ! 無視するなよ! 姫川!」

「……部長、塩ありますか? 清めの塩」

「何で人を悪霊みたいな扱いしてんだよ! いじめかよ、姫川」

「……うるさいな、北大路」


 昨日の経験から、この男には無視がある程度有効であると学んだ。だから、教室にいる間はまるで見えていないかのように扱い、それで休み時間をやりすごせば良かった。

 休み時間いっぱい私の耳元でがなりたて、チャイムが鳴れば自分の席に帰って行ってくれるから。でも、放課後になればそうもいかないらしい。

 というより、めげずに騒ぎ続けるこいつに私が疲れた。まさか、部室までついてくるなんて思わなかった。


「昨日も断ったけど、私はあんたに曲を作りません! あとね、ここは部室なの。部外者は帰って」

「お前が無視するから悪いんだろう。メッセージも無視するし。既読すらつかないなんて、初めての経験だ。でも、まぁ部外者が出て行けというのはわかった……何時に終わるんだ?」

「待つ気か⁉︎」


 無視すればうるさすぎて疲れる。相手にしても話が通じなくて疲れる。どうすればいいんだろう。

 昨日、帰宅してから送られてきたメッセージをすべてスルーしたことで、さすがにあきらめてくれるだろうと思っていたのに。

 北大路はとにかく、めげないし、あきらめない。さすが、俺様ナルシストだ。

 「どうだ、俺、カッコイイだろ?」と言いたげなオーラを常時発しているなんてどういうメンタルの強さなんだろうと不思議だったのだけれど、つまりはこんな感じなんだろう。強い。とにかく強い。


「まぁまぁ、メーちゃん。待ってもらったら? 帰りながら話するくらいならいいじゃない。今日はあたしもいるし」

「……サナ」


 手際良く人数分のお茶を淹れてくれたサナは、あろうことか北大路にもカップを差し出していた。「ありがとう」と言ってカップを受け取った北大路は、「漫画でも読んで待ってたら?」というサナの言葉に素直に頷いた。


「……まぁ、サナがそういうなら良いけど。にしても北大路、ムカつく。総受け本描いてやるぞ」

「何言ってるの、メーちゃん。メーちゃんはBLは読むだけで描かないじゃん」

「まぁ、そうだけど」


 私の言っている言葉の意味がわからないらしく、北大路はきょとんとした顔をしていた。「総受け? びーえる?」と困った顔で呟く彼に、さらに困った顔をした部長が「ああっ! ……わからないなら、そんな言葉は口にしちゃダメだ! ふ、腐海に飲まれるよ!」と叫んでいた。

 北大路の反応に、私は文化圏の違いを感じていた。言語の壁? カルチャーショック?とにかく、そんな感じのものを。

 ちょっとでも“こっち側”に足を踏み入れている人間であれば、「総受け本を描いてやる」はかなりの脅し文句だとわかるはずなのだから。

 人の部屋に勝手に入るうるさい兄に言ってやると、「嫌だ! 怖い! 辞めてくれ! お嫁に行けなくなる!」と大騒ぎするくらいの効力はある。

 でも、北大路にはそれがカケラも通じない。

 わかっていたことだけれど、別世界の人なんだなあと思う。

 それなのにその別世界人は、私を待つためにどっかり椅子に腰かけて漫画を読みはじめた。「これ、面白いからオススメ」と気を利かせて見繕った漫画を持って行ってくれる部長に、「ありがとうございます」なんて言いながら。

 漫画を読んでいる間、北大路は静かだった。それをいいことに私はサナと描いている漫画の進捗報告という名の見せ合いっこをしたり、次はこんな曲を作るからMVミュージックビデオはどんなのがいいかななんて話し合いをした。

 サナは私の曲に動画をつけてくれている。イラストは私が描くこともあるけれど、それを動かして動画を作るのはいつもサナの担当だ。

 私が曲を作りたいと言い出したとき、「じゃあ、あたしに動画作らせて」と言ってくれたのだ。それ以来、ずっとサナと一緒にやってきている。

 「ねぇ、メーちゃん。このライン、いいよね」なんて言ってネットで細マッチョな男の人の写真を見つけてきて、その腹筋やら太もものラインを愛でながらイケナイ妄想を捗らせるような子であったとしても、私はサナと物作りをすることが好きだ。

 この部活に入って、誰かと好きなものを共有することや一緒に作品を作ることの楽しさを知った。


「……ねぇ、ポージングのモデルさんとして彼に入部してもらえないかな」


 コソッとした声で部長が言った。指差す先には、真剣な顔で漫画を読みふける北大路。

 長い足を組んで本に視線を落とすその姿は、読んでいるものがたとえ漫画でも絵になっていた。

 サナはひらめいたように、サラサラとその姿をスケッチしはじめた。

 確かに、書き留めておきたいほど良い感じだとは思う。黙っていれば、北大路はイケメンでスタイルも良いのだから。



「なっ……あ……うわぁ……」


 静かに漫画を読んでいたため、それから長いこと北大路の存在を忘れていた。忘れて、作業に没頭していたから、突然彼が変な声をあげたことにその場にいた全員が驚いた。


「どうしたの? ……って、それ……」

「あちゃあ……」


 駆け寄った部長が、北大路が取り落とした本に目をやった。そして、顔を青くして絶句した。それに気づいてサナも、北大路に同情の視線を送っていた。

 北大路が叫んで落っことした本は、某自転車競技漫画の同人誌――いわゆる“薄い本”だった。OBの先輩が今年のイベントに出していたものを一冊いただいたものだ。サナは好きなカップリングではなかったらしいし、私も特に萌えなかったから、部室に置いていたのだ。

 内容は、BL……しかもかなりハードなものだったと記憶している。それを全く免疫のない北大路が読んだとしたら、今みたいな反応になったとしても仕方がないかもしれない。

 だからちょっと、可哀想かなとは思う。


「これ……お、お……」

「そう。男同士の恋愛。というより情事」

「じょ、じょ……情事とか言うな! ……うぅ……」


 北大路は、顔を両手で覆って震えていた。指の隙間から見える頬は真っ赤だ。どうやら、羞恥に震えているらしい。

 よく見れば表紙に『成人向け』と書いているのだけれど、イラストが綺麗で健全な感じだったからうっかり手に取ってしまったんだろう。


「免疫ないとびっくりしちゃうよね。……大丈夫?」


 労わる部長の言葉にコクコクと頷いてはいるけれど、それでも北大路は顔を隠したままだ。まるで乙女のような反応だ。


「北大路……もしかしてあんた、童貞?」

「ふぁっ⁉︎ お前、女子のくせになんて言葉を使うんだ!」

「ああ、その反応を見る限り間違いなく童貞だね」

「なっ……」


 北大路の反応があまりにも初心うぶで、もしや……と思って指摘するとどうやらその通りだったらしい。赤くしていた顔をさらに赤くさせ、北大路は今度は私に説教をはじめた。


「そんな言葉を使うべきじゃない! 経験がないと言え、経験がないと!」

「まぁ、でもつまりそれって童貞ってことよね? 俺様ナルシスト、なのに童貞って……ギャクじゃん?」

「う、うるさい! まだ『この人だ!』と思う女性に出会ってないだけだ!」

「ふーん」


 北大路は涙目になってプルプルと震えていた。サナが「それ以上言ったらセクハラだよ。可哀想だよ」とフォローを入れたけれど、その言葉にもどうやら傷ついたらしい。


「な、何なんだよ、ここ」


 北大路は怒っているのか傷ついているのかわからない口調で、とにかくプルプルとしていた。怒れるチワワのような震えっぷりだ。


「漫研部だって言ってるでしょ」

「知ってるよ!」

「まぁ、慣れない人には異世界だよね。僕もよく配慮しておけばよかった。この部屋の本棚には危険な本……さっきみたいな禁書・悪書レベルのものがあるから、迂闊に手を触れちゃダメだよ」


 荒ぶっていた北大路は、優しく部長になだめられ、へなへなと椅子に座り込んだ。

 異世界漫研部へとやってきたイケメン北大路は、そこで禁書を手にして最強の力を得た……わけではなく、扉の向こうに垣間見た知らない世界に打ちひしがれ震えていた。


「……今日は、もう帰る」


 しばらくしてショックから少し立ち直ったらしい北大路は、そのままふらふらと部室を出て行った。


「いつでもおいで、キンヤくん」

「キンヤくん、またね」


 部長とサナはそう言って北大路を見送った。私は「二度と来ないで」と心の中で呟いた。


「ところで……キンヤって」

「そう、北大路だからキンヤ。いいよね。単純明快わかりやすい」


 部長は自分でつけたあだ名にご満悦だ。サナもナチュラルに呼んでいるし、たぶんこれはもう本決まりになりそうだ。

 私のメーさんという呼び名も、部長がつけた。姫川さんも姫ちゃんも嫌だと言ったら、「なら、メーさんだ。下の名前が楓だからメープルのメーさん」と言い出したのだ。

 姫川楓なんて、字面だけで見たら美少女を連想するような名前が、ずっと私は嫌いだった。名前で勝手に期待してがっかりされるという経験を、嫌というほどしてきたから。絶対に、将来は田中か鈴木あたりの苗字の人と結婚すると決めている。

 でも、メーさんという名前にちなんだあだ名はすごく気に入っていた。

 だから、そのときは部長の名づけのセンスを良いなと思ったのだけれど……


「キンヤって……」

「“ないな”っていうのが逆に“あり”なんだよ」

「まあ、そうですね」


 声も姿も渋いあの大物俳優さんと北大路は全く結びつかない。けれどそれを考えた上での名づけなら、何だか良い気がしてきてしまった。


「キンヤくん、また遊びに来てくれるかな」

「どうでしょう? 私はもう嫌なんですけど」

「えー。でも、もっといろんなポーズとってもらいたいな! 家から色々小道具持ってこようかな……」


 部長とサナは、北大路のことを気に入ったらしい。確かにポーズを取らせれば絵になるだろうし、いじれば面白い。それでも、私はこれ以上あいつに関わりたくないなと思っていた。

 あいつの、こちらの話を一切聞かずにしつこくしてくるのが嫌なのだ。しかも、それをさも良いことをしてやっている風に「喜べ」という姿勢でいるのも。

 まあ、そう思ってもきっと明日になったらまたケロリとしてしつこく声をかけてくるのだろう。そして部長やサナが心配しなくても、漫研の部室までついてくるに違いない。

 それにきっと、夜にでもまたしつこくメッセージを送ってくるだろう。もしかしたら、さっき読んだ同人誌の苦情を言ってくるかもしれない。

 私は、そんなふうにあきらめたみたいに思っていた。でも……



 次の日、北大路は学校を休んだ。

 担任の話だと発熱らしいけれど、「知恵熱じゃないの?」というのがサナの見解で、部長は「きっと腐海の毒にあてられたんだよ」と言っていた。そんなに、初めて目にするBLは衝撃的だったのだろうか。

 真実はわからないけれど、そのおかげで私は一日だけ心静かに過ごすことができたのだった。

 

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