第26話 人形の家の惨劇6
「ごちそうさまでした」
霧生が食べ終わるのを、ゆかと夏子はじっと見つめていた。
「どうしたの? ふたりしてぼくの顔を見たりして。パスタのソースでもついてる?」
「いえ。あの、料理はどうでした? お口に合いましたか?」
夏子がおそるおそる問いかける。
「ええ。いつもどおりとてもおいしかったですよ。やっぱりお弁当よりもできたてのほうがずっとおいしいですね」
「そうですか。ありがとうございます」
夏子は満面の笑みが広がった。霧生にほめられたのがよほどうれしかったのだろう。
ゆかも側で見ていて、ほんとうに倖せな気分になった。
夏子とはゆかが七歳の頃からの付き合いだから、もう姉妹同然の間柄だ。霧生も捜査一課に配属されてから一年間父の代わりにいろいろと面倒を見てくれたから兄のようなものだ。
そのふたりが恋人同士になるんだったら、こんなにうれしいことはない。
「でも、ゆかくん。夏子さんの家に泊まるんだったら、わざわざぼくが君の家に来る必要はなかったんじゃない?」
思ったとおりだ。やっぱり夏子の家に泊まることを先に言わないで正解だ。
「霧生さんは夏子お姉ちゃんの料理が食べられてうれしくないんですか」
「そりゃまともな食事が食べられてうれしいよ。最近カップラーメンばっかりだったし」
「そんなものと夏子お姉ちゃんの料理を一緒にしないでください!」
思わず声を荒げると、霧生はきょとんとした。
「なにをそんなに怒ってるんだい?」
「もう。なんでわかってくれないんですか」
もしかすると、霧生は意外と恋愛にはうといのかもしれない。
「ゆ、ゆかちゃん」
夏子にたしなめられ、ゆかは憤慨したまま椅子に座る。
どうして霧生は夏子の気持ちに気づかないんだろう。どうせゆかの世話をするついでに自分の料理も一緒につくってくれたぐらいにしか考えていないんだろう。こんなに思われているのに、気づかない霧生にも困ったものだ。
「じゃあ、ぼくはそろそろ失礼しますね」
「えっ? まだデザートとお茶が残ってますけど」
「いや、そろそろ捜査本部に戻らなくちゃいけないんですよ。一応ゆかくんの無事も確認できたわけですし……あくまでもぼくはゆかくんの顔を見るだけのつもりでしたから」
「そうですか。残念です」
がっかりしている夏子を見ていられず、
「せっかくだからデザートとお茶ぐらい飲んでいってくださいよ。いつも新米刑事だから自分はいてもいなくても一緒だ、みたいなことを言ってるのに……」
「ゆかちゃん。そんなことを言ったら霧生さんに失礼よ」
夏子に叱られ、ゆかはふてくされまま黙った。
けれど、霧生は気にした様子もなく、
「ごめんね。さすがに最近は忙しくて猫の手も借りたいくらいなんだよ。夏子さんもせっかく用意してくれたのにすみません」
「いえ、こちらこそひきとめてしまって。お仕事がんばってください」
ありがとうございます、と霧生が笑顔を向けると、夏子は顔を赤らめた。
ゆかと夏子のふたりは玄関まで霧生を見送った。
ゆかは落ちつかなかった。せっかくふたりの仲を進展させて霧生の気持ちを夏子に向かせようと思ったのに、なんだかまったく進展のないまま、ふたりを別れさせてしまう。
(またいつこんな機会があるかわからないのに)
どうやってひきとめようかと焦っていると、
「夏子さん。今日の料理はほんとうにおいしかった。今度また食べに来てもいいですか」
「はい。もちろん。ぜひまた来てください」
夏子が顔をほころばせて言うと、霧生も微笑んだ。
「じゃあ、ゆかくん。もうどんなことがあっても、ひとりで外出したらだめだよ。今日は夏子さんの家から一歩も出たらだめだよ。それと、なにか起きたら必ず電話してね」
「はい。わかりました」
ゆかが元気よく答えると、霧生は苦笑して家を出ていった。
霧生が玄関から出て行った途端、ゆかは夏子の両手を握った。
「やった! 夏子お姉ちゃん、やりましたね。霧生さん、また食べに来てくれるって」
「ありがとう。ゆかちゃんのおかげよ」
夏子も倖せそうな微笑みが見られて、ゆかもほんとうに倖せだった。
「でも、あまり無理にくっつけようとしないでね。霧生さんにも好きなひとがいるのかもしれないし、自分の気持ちを押しつけるような真似はしたくないの」
「だめですよ、そんなんじゃ。好きだったら、もっと積極的に行かないと」
「わたしは好きなひとが倖せになって笑顔でいてくれたらそれで倖せなの。誰かを好きになるってことは、きっとそういうことだと思うの」
「だったら、わたしは夏子お姉ちゃんにも霧生さんにも倖せになってほしいです。わたしはふたりとも大好きだから絶対に倖せになってほしいんです」
ゆかがまっすぐに夏子の顔を見上げると、夏子は微笑んだ。
「ありがとう。ゆかちゃんは昔からいい子ね」
夏子にほめられて、ゆかのほうがなんだか顔が熱くなった。
「さて、冷蔵庫のデザートでも食べながら、ゆっくりお話ししましょうか」
やった、と子供のような声を出すと、夏子にくすくすと笑われた。
デザートは喫茶店用のケーキを元にアイスクリームなどを乗せた。その間に、ゆかはその間にキッチンに置かれていた紅茶を入れた。なんとなく紅茶を飲みたい気分だった。
ふたりしてデザートをリビングのソファに座りながら食べた。
「おいしい。このケーキのアレンジ、すごくおいしいですね。なんでお店で出さないんですか」
「ありがとう。でも、これすごく手間と時間がかかるから、あまりたくさんつくれないの」
「こんなにおいしいなら霧生さんも食べていけばよかったのに」
文句をぶつぶつと言うゆかを見て、夏子は苦笑した。
「でも、ゆかちゃんも紅茶の入れ方うまくなったわね。すごくおいしい」
「この間マヤちゃんの家の篠崎さんに紅茶の入れ方を教わったんです」
へえ、と感心する夏子を見て、ゆかも得意げになった。
「ねえ、ゆかちゃん。そろそろ元気がない理由をわたしに話してくれる気はない?」
「……えっ?」
急に話を振られて、虚をつかれた。
「な、なに言ってるんですか。すっごく元気ですよ」
「うそをついてもだめ。何年一緒にいると思ってるの?」
あう、とゆかは情けない声を出す。夏子はなんでもお見通しらしい。
「だ、だめですってば。今日は夏子お姉ちゃんの恋愛相談に乗るつもりで来たんですから」
「わたしのことはいいの。急いでいないもの。いまはあのひとが来てくれただけで充分。でも、ゆかちゃんの悩みはもっとせっぱ詰まってるものなんでしょう?」
さすがに六つも年上なだけはある。ひとつの悩みに余裕がない子供とは全然違う。
ゆかはあきらめてぽつりぽつりと話し始めた。
「……実はわたしマヤちゃんに信頼されてないんじゃないかなあ、と思って」
「なんでそんなふうに思うの?」
「いまマヤちゃんある事件に巻き込まれてるんですけど、その事件にわたしを巻き込まないようにわたしを遠ざけてるんです」
「すごく大切にされてるじゃない。それのどこが不満なの?」
「心配してくれてるのはすごくうれしいんです。でも、マヤちゃんはどんな事件に巻き込まれているのかなにも教えてくれないんです。知ってれば力になれるかもしれないのに……」
「でも、それはゆかちゃんの性格をよく知ってるからじゃないかしら。ゆかちゃんはなにをおいても誰かのためにがんばるわ。だからこそ、悩みや苦しみを打ち明けられないんでしょ」
「でも、やっぱりそれって変です。友達ってなんでもお互いのことを知っていて、お互いの苦しみや悩みを分かち合うものじゃないんですか。そんなひとりで抱えて頼ってもらえないような友達だなんて、やっぱり信頼されてないんじゃないか、と思っちゃうんです」
夏子は頬に手をおいて、ため息をこぼした。
「こう考えられないかしら? 大切だからこそ打ち明けられないこともあるって」
「大切だからこそ打ち明けられない?」
意味がよくわからない。
「そのマヤちゃんにとってゆかちゃんは、とても大切な存在になってる。たぶんたったひとりの友達だと思う。その悩みや苦しみを打ち明けたらゆかちゃんの負担になるかもしれない。もしくはゆかちゃんに嫌われちゃうかもしれない。だからこそ、言えないこともあると思うの」
「でも、わたしは友達ならなんでも知りたいし、知ってもらいたいです」
「それはすこし思い上がりだと思うの」
「どうしてですか。なんでも話せたら、苦しい気分も楽になるじゃないですか」
納得できずに反論するに、夏子は苦笑した。
「じゃあ、どうしてわたしにすぐに悩みを打ち明けてくれなかったの?」
「それは霧生さんと仲良くなることに集中してもらいたいから、わたしの悩みのせいで夏子お姉ちゃんに迷惑をかけたくなかったんです」
「でしょう? でも、それっていまのマヤちゃんと同じじゃない?」
えっ、と夏子の顔を見上げる。
「ゆかちゃんがわたしに迷惑をかけたくなくて悩み事を隠したように、マヤちゃんもゆかちゃんに迷惑をかけたくないから話すことができないんじゃないかしら?」
「でも、これとそれとは……」
「同じよ。じゃあ、ゆかちゃんがもしマヤちゃんと同じ立場だったらどうするの? マヤちゃんに相談を打ち明ければ、マヤちゃんは命を懸けてゆかちゃんを守ろうとする。そのせいでマヤちゃんが危険な目に遭うかもしれないとわかっていても悩みを話せる?」
「……言えません」
確かにマヤと同じ立場だったら自分もマヤを遠ざけるかもしれない。
殺人犯に狙われているだなんて知られたら、怖がって自分から離れていくかもしれない。側にいてくれたとしても、危険に巻き込んで命を落としてしまうかもしれない。
たったひとりの友達。はじめて心から側にいてほしいと想う相手。
そんな大切な相手を失うなんて想像することすらしたくない。
「でも、わたしってそんなに大切に思われてるのかな」
「ええ。もちろん。ただ、なかなか素直になれないんじゃないかな」
「じゃあ、やっぱりわたしはマヤちゃんの力になってあげたいんです」
ふいに夏子に頭を抱きしめられた。なんだか同性なのにどぎまぎする。
「ゆかちゃんのそういうところ好きよ。大好きよ」
夏子の胸の中はあたたかかった。母を亡くしてから誰かに抱きしめられることがあまりなかったから、すごくあたたかくて気持ちよかった。
「だったら、ゆかちゃんは努力しなくちゃ。マヤちゃんが話してもだいじょうぶだと思えるようにがんばらなくちゃ。でも、無理に聞き出そうとしたり不安な顔を見せたりしちゃだめ。ゆかちゃんらしくいつも笑顔でいてくれれば、マヤちゃんはきっと話してくれるわ」
「……うん。ありがとう、夏子お姉ちゃん」
なんだか懐かしい気分がして、昔の口調で言った。
やっぱりこんなふうに誰かが側にいるだけで元気になることができる。
「わたしも夏子お姉ちゃんのようなれるかな」
ぽつりとたずねると、夏子は頭を撫でながらうなずいた。
「ゆかちゃんなら、わたしなんかよりももっと素敵なひとになれるわ。約束する」
ゆかはうれしくなって夏子の体を抱きついた。
このあたたかさを、はやくあの小さな女の子にも分けてあげたい。
そうすれば、きっと弱い心を閉ざしている氷の扉も開くはずだから……。
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