読後感想文
@nobumasa
第1話 「数学する身体」
バタバタしていて本を読む時間がない。というのは僕らしい言い訳ではない。
仕事が忙しくて、というのはそれらしい言い訳だが、そんなことを言えば20~40代、片っ端からと言っていいくらい本を読んでいたことに説明がつかない。
何がいけないのかわからないが「それではいけない」と思い立って手にした司馬遼太郎の「空海の世界」。
さしたる知識が無いままに読みだした空海の世界は、最澄ですらくすんで見える何から何まで恵まれた「ラッキー」の大連発。
ここまで来ると妬ましいをこえて運命の糸に引っ張られてなるべくしてなった創られたヒト。
誰にというのはこの際不問にして、誰のために、という問いは結論が出ているだけに感銘が深い。
このひとつの仮説(そうなるようになっている)とふたつの問いかけ(誰によって、誰のために)は僕の「生きざまとはなにか」にかぶさっている。
さて、次なにを読もうか。しばらく読書に遠ざかっていると「次」がなかなか出て来ない。またボーッとした日々を過ごしそうになった時、新聞に「素数セミ」の書評が載っていた。西暦が素数の年にセミが異常繁殖するという仮説を検証する本らしい。もちろん学術書ではない。
チトおかしい。暦はヒトが作ったのであってそれが万物に適用されるのはカミへの冒涜だ。1年365日というが地球が365回転したとき太陽の周りをきっちり1周して同じ位置に戻ってはいない。うるう年うるう秒があるにはあるが、セミには「あ~今年はうるう年やねぇ」など思う訳が無い。暦が1日ずれるのに365日×4回=1460日かかる。365日ずれるには1460日×365回=532,900日。日々わずかな誤差でも532,900回太陽が昇れば1年丸ごとずれてしまう。セミはその誤差と素数のはじきだしを暗算でしなければならない。
誤差などというのは、納得がいかないもの、説明がつかないものを解決しようとしてヒトが作ったもので、自然界には無い。
お待たせしました。その「誤差」を科学した本が今回の「数学する身体」。と思う。
前半は、まさに目から鱗。数学とは何かをそれなりに解説している。
モノを作るのに道具が必要となる。数学は「数える道具」から始まる。
作るものが複雑になればなるほど道具は変化を遂げ鋸ひとつをとっても多種多様に進化する。数学は「計算する道具」となる。
住居としての家は「人が住むための道具」から始まったが、今や住む人・作る人の魂、いわば哲学となる。
と同じように数学は「哲学」らしい。
ネアンデルタール人かそのもっと前のヒトか、道具をもったヒトは数えることを始める。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
さて、そこで問題。
ヒトが直観的に数えられる数はいくつまでか?
答えは「みっつ」
例外なく全ての言語は3までは棒3本になっているが4から先はその言語独特になっている。
4を表現するのに苦心の跡が一番よく見えるのはローマ数字。
ⅣはⅤの一つ手前。ⅥはⅤの一つ先となる。Ⅴは、ひとの手。
う~む、面白い。
ここからグイッと吸い寄せられて、「虚数」となる。
生活している空間で2乗するとマイナスになる数値はない。はず・・・。
ところが「虚数」抜きには現代の「数学」は語れないらしい。
虚ろなものを大真面目で論じるのが「科学」であるから、きっとその先には目を見張る実態があるのだろう。
そんなことを思っていると「ルート2センチは何センチか」と言う問いに行く詰まる。
「ノギスで正確に測った1センチ四方の四角の対角線は何センチか」
1.42センチと測れるが正確ではない。確かに見えるし測れし数式でははっきりと答えもある。はさみで切ればそれを作り出すことはできるがその実態は「虚ろなもの」となる。
「数学する身体」ではそんなことは書いていないが、無知なりにそれも「虚数」だと勝手に合点する。
著者の森田真生氏はまた、自己学習する数百の単純な回路を使い、異なる音程の二つのブザーを聞き分けるチップを作る進化・学習の過程を観察する実験の紹介をしていた。
その結果4千回の進化後に期待する結果が出たが、驚いたことにその回路に中に「まったく無意味」と思える回路が数個あったらしい。しかも「無意味」と思われてもその回路無しには正しい結論が出てこない、と。
森田氏は、そこではそのプロセスは「ノイズ」として情報がその無駄な回路に「滲み出す」と説明し、全ての世界にこのような作用がある。と解説していた。
読んでいて「滲み出す」が理解できなかったが何度か読んで妄想を駆使し自分なりに「虚ろなもの」に行きついた。
そういえば、前述した地球の1年もそうだし、世の中「虚ろなもの」ばかりだ。
そこにある美しいものに気が付かない。ある時ふと気が付いて「あ、きれい」とおもう。
思ったことを口に出して言ってみる「あれ見て、きれい」。そうすると今まで虚ろだったものが実態となる。
でも気が付かない人はそれは日常であって何の変哲もないし、その言葉は「虚ろ」に聞きながす。
その実態があってよい時もあるし良くないときもある。
「虚ろ」を感じ認め、実態として取り入れてから思考が始まる。
幼馴染の男女二人がある日突然黙りこくってしまう。のにも似ている。
「虚ろ」「ノイズ」は思考に邪魔なものとして排除しがちだが思考そのものが「虚ろ」から発生したものではないだろうか、と思う。
今、コンピュータシステムで、ソースリストの無いまま帳票の結果と元データの羅列だけを頼りにプログラムを再作成している僕にとって、寝ても覚めても、「この結論はどのプロセスから生まれるのか」とすべてのノイズをシャットダウンして考えていると体のバランスを崩してまっすぐ歩けないくらいにふらふらになるのだが、
「あ!そうかもしれない」という発想は、朝の目覚め。寝起きの夢うつつの時に生まれる。
生きざまというのは、そういうものかもしれない。
森田氏は後半、数学界の巨星岡潔氏の例を出して、数学者がいかにして精神論者になったかを書いていたが、それは岡潔の著作を読んでからの感想にしよう。
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