16時50分くらいのことだった
細雪きゅくろ
無題
病院の道路はきちんと舗装されている。だから、車椅子を押しやすい。
「あのさ」
車椅子に乗っている彼が呟く。それは、後ろに私に届かないくらいの小さな声。
「病院の中だけでも、デートできて嬉しかったよ。」
穏やかで、囁くようで。この時がいつまでも終わってほしくないと思った。それでも病院の白い建物はもう近くだ。傾いた日差しが辺りを柔らかく染め上げ、寒さが足元から這い寄る気配がした。
「私も楽しかったよ。」
本心で、そう答えた。彼は、少し笑ったようだった。
色が変わった紅葉が落ちていく。『あの葉が落ちた時、私は死ぬ』とか言っていたのは誰だっけ。
「絶対に、今日のことは忘れない。」
震えた声が、それでも強めに言う。
「どこに行っても、あなたと離れても忘れないよ。」
「行かないで。」
彼の身体を、後ろから抱き締める。そうしないと彼はどこかへ行ってしまいそうだった。衝動的に体が動いてしまった。
「……ごめんね。」
その声は、か細く震えていた。抱き締めたから気付いた、彼の贖罪の声だ。
「謝らないで、お願い。」
「ごめんね。君には、しっかりと言っておきたい。」
触れた頬に液体が伝う。私の顔にも多分同じものが沢山ある。
「好き、だから。だから、ごめん。」
「私も……私も、好きだから。」
白い手を絡め取る。この手を離さなければ、彼は遠くに行かないかもしれない。
「僕のこと、忘れてね。」
「忘れない、絶対忘れない。」
街灯が光を放つ。いつもの帰りはこの時間だ。それでも彼の痩せた身体から、回した腕を離すことができなかった。
「どこに行くのかくらい、教えてよ。」
「僕も分からないなあ。だから、忘れてって言ってる。」
「ひどい、こんなに好きにさせておいて。」
「ごめんね。」
私は泣きじゃくって、今ではない別れを惜しむ。それが彼を困らせていることを知っている。
「……なら、僕は行った先に、すごく遅れて君が来るのを待つよ。何十年かかるかな。」
「いや、そんな話しないで……。」
「君を悲しませるのは知ってる。でも、君が何十年先に来てくれるなら、僕はいつまでも待ってるよ。」
「いっ、一緒に……」
「だめ。君のこれからの話を、聴きたいんだ。」
私は抱きしめた腕を離した。車椅子に手を掛け、ゆっくり歩く。
「ここまででいいよ。中にお迎えの人が来てる。」
「……貴方が、行った先に、土産話を聴き飽きるほどいっぱい持って行く。」
「楽しみだね。」
彼は、笑って小さく手を振った。
16時50分くらいのことだった 細雪きゅくろ @kyukuro_sasame
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