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かくして、その日はやって来ました。
前回、隆文と登った山と違って、今度の山は本格的な物で、妙乃も山籠もり用の装備を引っ張り出さなければなりませんでした。
隆文も、前回の妙乃の山に慣れた様子を見て、このような登山と呼ぶに相応しいお出掛けを決行してもいいだろうと決断したのです。
それでも、春にお母さんと修行で入った山に比べたらなんてことはなくて、るんるんとまさしくピクニック気分でうきうきしている妙乃なのでした。
その妙乃が撒き散らす楽しみを見せつけられて、隆文はやっぱり今回も存分に不安がっていました。
「今日は、妙乃さんが前を歩いてください。私は後ろから着いて行きます。山頂へ真っ直ぐ歩くんですよ」
隆文の提案を聞いて、妙乃は、はてな、と首を傾けて疑問の意を示しました。
いつもと違う順番にして、前を歩くがきちんと歩くだなんてこと、隆文は少しも期待していないことを、彼女はよくわかっているのですから。
「ちゃんと見とらんと、置いていってまいそうやもん。こんな険しい山ではぐれるなんて、洒落にならへんやろ」
素になって愚痴をこぼす隆文が、可愛くて、そんな言葉と顔を見せてくれるのが嬉しくて、妙乃はついついにっこり笑ってしまいました。
その笑顔に、隆文がバツが悪そうに眉を寄せるのも、また見ていて面白いと、妙乃は心を弾ませます。
とは言え、どんなに楽しくても、こんな車から降りてすぐの場所で何時までも一歩も進まずに日が暮れるような始末になってはいけません。
妙乃は力強く、一つ頷いて、足を踏み出しました。
ざくり、と積もった枯れ葉を踏みしめると、
ざくざくと、その秋の湿気りながらも枯れている香りを吸い込みながら、二人は道とも見えない道を登って行きます。
何処か遠くで、そしてすぐ近くで、
葉踏み鹿だけではありません。
大きな雲が木陰をさらに覆い、辺りを
かさかさと木々に残った紅葉を攫う木枯らしに
秋の未言は、人の寄り付かないこんな静かな山奥に、ひっそりと息づいているのだと、妙乃は実感します。
三度目の休憩の間に、妙乃はスケッチブックに万年筆を走らせました。
紅葉、躑躅、夕焼け、冬柿、稲穂、山栗、松露。
描くのは、人の街から離れたこの山の、さらに向こうに見える遠い山の
「いつも思っていますが、本当に上手ですね。それに、万年筆で絵が描けるものなんですね」
隆文は、妙乃の忙しなく動く手元を覗きながら、しみじみと呟きました。
その実感のこもった言葉に気が良くなった妙乃は、ふふん、と口元を持ち上げます。
自慢の特技の一つを褒められて、妙乃はとても得意げです。
そんな風に、にやついていた妙乃の顔が、前触れもなく急に強張りました。
「どうしました?」
余りに突然、表情を硬くしたので、隆文も心配を前面に出してくれます。
どう伝えようか、言葉を声に出来ない妙乃は少し悩み、そして、メモを取り出して、桜が散ったような柄の万年筆の躑躅で、訴えを書き示しました。
『おトイレ』
ただ単語だけで見せられた隆文が、顔を赤くして慌てます。
「あ、はい、い、いってらっしゃい」
隆文に促されて、妙乃はこくこくと細かく頷いて、万年筆を取り敢えず全て掴んで握ります。そのまま、隆文から離れながら、一本ずつケースに仕舞い、またはすぐ取り出せるようにズボンのベルトや上着のポッケへ差し込みました。
妙乃が駆け足の先に辿り着いたのは、木々の密度がより詰まって鬱蒼とした場所でした。
妙乃がベルトに差した万年筆の一本を取り出します。矢羽にも似た意匠を持った銀色のキャップで煌めく、メタリックブルーのペン軸の万年筆、そのキャップを開けて、妙乃はペン先の割れ目に右手の人差し指を当てます。
インクを紙へ伝えるための機構であるそこに指を置いたことで、じわりと紺碧の
妙乃の目が、光の入射量を抑えるために、きゅっと虹彩を絞ります。
そして妙乃は、相手の存在を見極め、大きく右足を上げて、地面へ真っ直ぐに振り下ろします。
振動。
それは、遠く離れた楢の木に残っていた紅葉を全て散らして落とし、しかして不思議なことに妙乃の周りを始め、他のどの木々も振れずに沈黙させたままでした。
けれど、そんな当たり前のことは、妙乃の気に掛けるものではありません。
妙乃は、その震脚で木の枝から震い落とされた焦げ茶のローブに身を包んだ人物へ、一足の跳躍で接近し、その縮地の勢いを乗せた拳を叩きつけました。
しかし、不可視の障壁が妙乃の拳を遮り、相手への打撃の到達を阻みます。
「探査術式……いや、単に感覚器を強化しただけか。下等な魔術だ」
相手の男は、フードに隠れた視線で妙乃をねめつけ、その術式を看破して唾棄してくるような気配をぶつけてきます。
妙乃は動じません。相手が自分と同じ、日常ではなく、神秘の側の人物だというのは、その視線を感じた時から分かっていました。
それが、自分だけに向いていたなら、妙乃も一旦は放置していたでしょう。だって、彼らは、自分の持つ神秘を他人から隠して、自分達だけの特権であるのだと優越感に浸りたがる気質を持っているのですから。
「禁忌に触れた魔術師は、魔力を燃料としてしか使えず、禁忌を伝える者は愚民……早々にどちらの記憶も消してしまおう」
けれど。けれど、けれども。
その狂気が大切な人に向けられていたら、一刻も早く排除したいと、思わず表情が凍り付いてしまったのです。
焦げ茶に身を包んだ魔術師の言を信じれば、妙乃も隆文も、殺されるまではしないのでしょう。
しかし、記憶を奪われるのは、命を奪われるのと同じくらい、妙乃には看過できませんでした。記憶を失くしたら、またお互いの存在を知らないままの日々が繰り返されるばかりになってしまうではありませんか。
その怒りが視線に籠り、妙乃は魔術師を睨み付けます。
「む。何故こんな仕打ちを、ということか」
妙乃の視線をどう受け取ったのか、魔術師は全く持って見当違いなことをほざいていますが、妙乃は一々訂正する気もありませんでした。喋れないから、一言で済まない気持ちを抱いてしまった時はどうにも不便なものです。
「貴様は、魔術協戒の三五一零号、該当する神秘の伝承、行使、解析、創造を禁止するという禁忌を破った。古よりの賢人達による約定により、裁きを執行する」
妙乃は、魔術師が述べた長ったらしく小難しい文言が、一瞬理解できなくて。
頭が真っ白になって、問答無用で殴り飛ばそうしていた動作まで中断してしまいました。
魔術協戒って、なんか聞いたことあるような気がする、となんとかそこまでは考えが及びました。
そして、お父さんから遠い昔に教えてもらった内容を思い出します。
魔術協戒。それは、神秘に携わる者達が、世界の崩壊を招きかねない神秘について、お互いに禁止し、監視するという取り決めで。
物凄く多くて、妙乃は、死んだ生物を蘇らせないとか、地球の核から魔力やその他のエネルギーを取り出さないとか、宇宙の彼方にあるものを呼び寄せないとか、なんとかその三つだけを覚えているだけでした。
それどころか、三千以上もあることですら、初耳のように思えてなりません。
「憐れな。自分の犯した過ちに気付き、思考を停止したか」
魔術師は動かない妙乃の様子に嘆息し、その頭を掴もうと右手を掲げました。
そして、その手は妙乃の前髪に触れる前に、彼女に捕まれてます。
瞬転。
妙乃が体を捻って一本背負いを繰り出し、魔術師の体が宙に浮きました。
しかし、魔術師は空中を足場があるかのように蹴り、回転して体勢を取り直します。
「抵抗するか。愚かだぞ」
そう言われても、妙乃はよく分からない理由で記憶を消される訳には行きません。
妙乃は、いつの間にか自分を取り囲んだ透明の壁を上段蹴りで砕いて自由を取り戻し、上着のポッケから万年筆を取り出しました。
薔薇色の大理石みたいに、揺らめく柄の麗しいそれを空中で思いっきり振れば、深紅の彩血が、とてもその万年筆のコンバーターに収まりきらないような量を、妙乃の目の前に漂わせます。
妙乃は空中に留まる深紅の水溜まりを左手で掴み、そのインクは手の平から妙乃の中へと流れ込みました。
それに伴って、妙乃の爪と瞳が深紅に染まり、全身の血色が増してほんのりと紅を差します。
そして妙乃が木々の葉が揺れる頭上に目線を上げれば、見えない足場を使って上空から奇襲を掛けようとしてローブを翻す魔術師と視線がぶつかります。
妙乃の裏拳が、魔術師の頬へ向けて唸りを上げ、途中で差し込まれた障壁をばきりと砕きました。
妙乃の膂力を警戒して、魔術師は宙に作った足場を蹴り、距離を取って地面に降り立ちます。
妙乃は、お父さんの言葉を思い返していました。
魔術師同士の戦闘は、如何に相手の術式の原理を早く解明して、術式を使わせないようにするかが鍵となる、と妙乃は教えられました。
そして、お父さんはノンブレスで、たぶん、妙乃はそういう理解力や解析力は備わらないだろう、と続けたのです。
だから、妙乃は、相手の術式の発動を見極めて、回避し、相殺し、逃げ続けなさいと教え込まれた。
それでは勝てないけれど、勝つ方法は、お母さんが教えてくれるから、とお父さんは言ったのです。
紺碧の魔力で、夏の快晴のように曇りない感覚は、妙乃に衣服の中で仕舞われた時計の音を聴き取らせていました。秒針が短針と長針に擦れる音が、妙乃に今の時間を把握させます。
山頂へ行って、それから下山して、その時点でまだ明るいこと。
その時間の余裕が取れなければ、途中で引き返すことになります。隆文は、夜の山を歩くことだけは許してくれませんから。
だから、あと十五分程で、隆文の所へ、妙乃は戻らなければなりません。
それは、至って余裕綽々で、妙乃はにっこりと頬を持ち上げました。
お母さんは妙乃に教えてくれました。
人間、頭を蹴り飛ばして意識を失わせれば、どうせ動かなくなるのだって。
妙乃の右足が地面を踏み沈め、震脚の衝撃が魔術師の足元から全身へ伝い、その体を痺れさせました。
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