その日の妙乃は、隆文の目からしても、音符を飛ばしているように見える程に上機嫌だった。

 妙乃は、隆文に言われた通りに、普段から履きなれたスニーカーに、オリーブ色のチノパン、上半身にはだぶついた綿の半袖シャツの下から七分丈の白いインナーが伸びている。

 普段は垂らしている長い黒髪はお団子にしてハットの中に納めている。

 初心者にしてはなかなか様になっている山登りの服装だ。

 これには、隆文も感心した。てっきり、本ばかり読んで外には散歩にしか出ないお嬢様だと思っていたからだ。

 しかし、隆文を待たずにずんずんと前を歩くのはいただけない。

 傾斜のある土の露出した道というだけで、普通に歩いていても、気を抜くと転びそうになるのが山道だ。いくら楽しいからと、スキップするようなハイペースで進んでいい道ではないのだ。

「妙乃さん、そんなに早く歩くと転びますよ。ほら、僕の後ろを歩いてください」

 隆文に前進を阻まれたからか、それとも隆文が前にお願いしたのに京言葉を使わなかったからか、妙乃はむっと頬を膨らませて抗議する。

 しかし、言葉が投げつけられないのをいいことに、隆文はそれを無視して先導を取った。

 連れてきたからには、怪我なく楽しんでほしい。そんな責任感が強い男なのだ、彼も。

 妙乃は隆文のペースに合わせて歩くと暇を持て余すのか、坂道の脇を覗いては、背の高い樹木を見上げたり、逆にこっそりと咲く花を屈んで見たりと、忙しない。

 これではすぐ疲れてしまうだろうなと隆文は予測して、休憩を多めに取るように頭の中で算段を付ける。

 この山はハイキングコースとして、そこそこ知られていて、隆文も登り慣れた山なので、行程の変更も歩きながらで余裕だった。

「山はいいですよね。夏は空気が街よりひんやりとしてて、こう、木々の呼吸のお陰か爽やかな気がします」

 隆文歩きながらも、自分が山に対して持つ好意を語る。

 それを聞いて、妙乃は、ふんふんと頷いたり、うんうんと肯いたり、はたまた、ぅん?と首を傾げたりしている。

 四十分ほど歩いて、隆文が休憩を促すと、これまた妙乃は不満そうに、まだ歩けるよ、と隆文の袖を引っ張って主張してきた。

「ダメです。ゆっくり行っても明るいうちに帰れますから。焦ってはいけません」

 隆文は大人の余裕を見せつけて、小さなレジャーシートにどっかりと座り込み。梃子でも動かない。

 妙乃はじっとりと目を細めて不機嫌をぶつけてから、隆文の隣に座った。

 隆文は水筒から蓋にスポーツドリンクを注ぎ、まずは妙乃に手渡す。

 喉を汗で艶めかせた妙乃は、それを美味しそうに一息で飲み干してしまう。

 隆文はすぐにそこへ二杯目を注ぎ入れて、自分は別の蓋コップで一杯飲んだ。

 隆文の背負うリュックサックには、もう一本一リットルのスポーツドリンクが入った水筒とお茶の水筒がこれもまた五百ミリリットル分入っている。

 二人分としては多いかもしれないが、用心に越したことはないと、隆文は思っている。

 五分ほど休憩して、また二人は山道に踏み出した。

 妙乃が喋らない分、隆文しか声を発しないし、会話も少ないが、それはそれで隆文には好ましかった。

 彼自身も、山登りは黙々と一人で行動することが多く、会話を苦手とは思ってないが、会話がなければ息が詰まるという性格でもない。

 それに、お喋りはしなくても、樹木にも草花にも虫にも鳥にも興味を示し、遠くで風虫かざむしが鳴くだけでそちらを一心に見詰めて手を振る妙乃は、十分に姦しいと思えた。

「あれも風虫ですよ。ほら、そんなしてたら、帰りは日が暮れます」

 隆文はその度に妙乃の腕を引いて、ちゃんと着いて来るように導いていた。

 声をかけるだけでは、何かに夢中になった妙乃には届かないのだ。

 隆文は二の腕を狙って掴むことで、なんとか肌に触れるのだけは避けていたが、これは限りなくアウトに近いなと内心で溜め息をついている。

 三度の休憩と妙乃の道草の分だけ時間を余計にかけて、やっと二人は目的の地点に辿り着いた。

 そこは山の中腹で、山頂へはさらに同じかそれ以上の道のりを登って行かなくてはならない。

 そこから山肌を見下ろすと、隆文が以前に目撃した森の空隙が、はっきりと見えた。

 その空隙を自分の空間と誇示しているかのような、ブナの永樹ながいつきが、ねじれた枝に葉を茂らせ、龍の顎門のような様相でこちらを向いており、ごつごつとした岩のようなキノコがそこここに張り付いていて、鱗のようにもステゴザウルスの持つ突起にも見える。

 ざわりと、風をはらんで、その永樹は不気味に厳かに鳴いた。

 その姿を、妙乃は目を真ん丸にして見開いて焼き付けている。

「ブナは、長年かけて、幹が太くなり枝を複雑に伸ばして葉を茂らせるそうです。特にこの辺りなんかだと、冬に枝に積もる雪の重さで、取り分け不思議な装いになるようで。それから、ブナの腐葉土は栄養も雨水もよくため込んで、そのドングリは栄養価が高く森の動物を養うことから、森の女王、という異名もあります」

 隆文は、黙ったままでいるのもどうかと思ってうんちくを並べましたが、はたしてそれは正解だったようだ。

 妙乃は隆文に向けて、大きく開いた目を見せて、それからまたまじまじと食い入るように、ブナの永樹をまた眺めた。

 ほぅ、と妙乃が息で興奮を胸の中から吐き出して、ゆっくりと足りなくなった酸素を吸い込んだ。

 そして、上目遣いに隆文をうかがう。

「ダメですよ。山道でもない山肌を降りるなんて危なすぎます。あちらへ行く道はありませんから、ダメです」

 声にしなくても、妙乃が期待することを間違えることなく汲み取った隆文は、少し強い口調でその希望を却下した。

 妙乃はしょんぼりと肩を落とし、それからまたちらちらと隆文の顔に視線を投げかける。

 隆文は、細く息を吐いた。

「だめや。ゆうこと聞き」

 妙乃がもっと未言を、未言を実現するものを知りたい、間近で見たいという気持ちはよくわかっていた。

 その願いを払うのだから、隆文はもう一つの要求には折れて、誠意を見せる。

 それは効果てき面で、妙乃は表情を輝かせて、隆文の顔を見上げてくる。

 隆文は気恥ずかしさから、顔を横に背けた。

 妙乃は、それでもにっこりと笑って、またじっくりと永樹の観察を再開させる。

 どうにもこの女性には弱ってしまうな、と隆文が空を仰いだ、その時。

 ぽつりと、目の下に冷たさが落ちてきた。

「おや?」

 隆文がもしやと思って地面を見れば、ぽつりと雨点あめともした影が丸くそこを濡らしていた。

「丹堂さん、雨降ってきはった! こっち!」

 隆文が見た雨粒の点は、大きかった。

 そこから予測される雨量に危機感を抱き、隆文は妙乃の手を取って駆け出した。

 二人を追うように雨の音が辺りをつんざき、二人の先回りをして雨が肌を叩く。

 一粒ごとに強くなっていき、ついには繁吹き雨が視界を煙らせる前にどうにか、隆文は妙乃を巨木の木陰に連れて来ることが出来た。

 木の下は、外よりは雨に濡れない。生い茂る葉が庇となり、捕らえられた雨の多くは幹を伝って地面に注ぐ。

 隆文は、リュックから出したレインコートを妙乃に頭から被せて、雨をしのがせる。

 いつの間にか、空は厚い雲が灰色にうずめ、白くむせ返る雨の煙が視界を閉ざしている。足元は、今にもスニーカーの中にまで雨水が浸食しそうなほどに水位が上がっていた。

 山の天気は移ろいやすい、なんていう文学で使い古された文が頭を過ぎる。

「寒くありませんか?」

 隆文が尋ねると、妙乃はこくん、と一つ頷いた。

 その目は真っ直ぐと見返してして、怯えの色は全くない。

 芯の強い人だと、隆文は心強く思った。

 雨は続く。地面を打つ雨花あまばなの音が、鳥の気配も木々の葉息はいきも風虫の声も押し潰して、騒がしい静寂に辺りを包む。

 散らばる雨の肌寒さの中で、お互いの体温だけがこの世に存在する全てのように思えた。

 隆文は、地面が呑み込み切れずに、徐々にかさが増す水位を凝視する。

 山にぶつかって先に降ったものに同化した雨の成れの果ては、一枚の絨毯のように山肌を覆い、勾配に従って波打ち流れていく。

 まるで山そのものが嘆き涙を溢れさせているようにも思える。

山泣やまなくか」

 ぽつりと、隆文がその未言を口から零した。

 妙乃が疑問のままに首を傾げて、隆文を見上げる。

 物思いにふけっていても、隆文はすぐにそれに気付き、困ったように微笑んだ。

「山泣く、という未言があるのです。止まない雨が山肌を滑り流れてくること。山泣いたら、その嘆きに飲まれてしまう前に里へ帰りなさい、と未言屋店主は言われたそうで」

 妙乃は、山泣くという未言に素直に感心して、その足首まで冷たさを伝える雨の洪水をまじましと見た。

 その顔が、本当だぁ、と無邪気に輝くのに、秒もいらなかった。

「あの、まぁ、感動するのはそれはそれで嬉しくはありますが、危機感も持ちましょう?」

 え、と妙乃は疑問を顔に出した。本気で何も心配してなさそうなのが、とても困る。

 この雨がすぐに止めばそれでいい。今は山肌を呑み込む水も、やがて引いていき、土に呑み込まれ、歩いて降りるのには少し足元を注意すればいいだけになるだろう。

 だが、雨が止まなければ。

 暗くなっても動けない、というだけでは済まない。水位が上昇して、足を押し流すほどに勢いを増せば、立ち止まることも許されずに遭難の危機が間近に迫る。

 隆文は、溜め息をついた。

 こんな時にどうすればいいのか、彼は祖母によく教えられていた。それは未言屋店主から祖母に伝わったまじないだ。

 けれど、それは呪いであるから、人からすれば奇妙に見える。

 誰もいないなからいいが、今は妙乃がいる。

 隆文はそんなことを懸念して、妙乃の顔をうかがった。

 きょとんと、丸い目が隆文を見返してくる。

 それから、何を思ったのか、にっこりと笑顔を見せた。

 隆文は、堪らず、喉を鳴らして天を仰ぐ。どうにも、彼女には弱ってしまう。

 意を決して、隆文は、それを手に取った。

 一冊の文庫本、表紙に浮かぶタイトルは、『未言源宗』、それこそは今や絶版となって久しく古本屋でも全く見かけない、未言屋店主が手掛けた小説である。

 その主題は『未言の源流を綴る』こと。

 隆文はページをめくり、朗読を始める。

「即ち。山泣くという未言はその始まりからして、自然の山ではなく、町中の坂を起源にしていたのです」

 隆文がその一節を朗々と読み上げた時、空から降る雨が、さぁっと遠退いたような気がした。


「「だから、これがあの人の見た『山泣く』なのですよ」

着いたのは、丘を削り出来た住宅街、その中と麓の街を繋ぐ長いアスファルトの坂道でした。

 その道は丘の住宅街に降った雨を集め、滝の如く急く急く落としています。」


一切の方言の抑揚を付けず、さらりと標準語の丁寧語で語れる声は、雨の粒を押しやり、雨花を散らして鎮め、山を縫う雨の糸の中をするりと進んでいく。


「その色は。

 アスファルトは瀝青の名の通り、青味の挿した黒に、僅かに濃い緑が混じった風味をしています。

 そこに雨水が満ちて、アスファルトの色を翳らせて明度をさらに一つか二つ下げています。

 雨は深く、晴れは何処を見回しても気配なく、厚い雲は見えない太陽の光を身籠って仄かに明るく、しかして重く大地に近い。

 その重みに堪えきれずに漏らした雨が、辺りを覆います。」


 その小説の雨は、まるで目の前の雨を描写しているかにも思えて、しかし全く別のシーンの切り取りであった。

 その矛盾を指摘されたからでもなかろうが、叱られてしゅんとした子供みたいに、雨は鳴りを潜めて雲は遠ざかっていく。


「自然の山であれば木々がそれぞれに抱え込み地面へ染み込んでいく雨は。

 一つ道という空間の欠如があればそこへと流れ込み、龍が翔るように鬩ぎ、蛇のようにのたうって水を撒き散らす。

 山泣く坂が抱えきれない雨を街の外へと押し流していきます。

 ……未言源宗『山泣く』より、抜粋」


 隆文がその章のクライマックスを読み上げて、読み切った声が、雲の薄く残る空にまで染み込んでいく。

 木揺こゆれの雫が落ちるその内側を、隆文は見詰めた。その逆さまの空間に収まる彼の目は、泣きそうにも見えた。

 雨の音がすっかり止んだその中に、ぱちぱちと懸命な拍手が代わりに鳴り渡る。

 隆文が緩慢な動きでその音の発生源を見下ろした。

 何故か、妙乃が頬を紅潮させて、手が痛くないのか心配になるほどの勢いと速さで、称賛を送ってくる。

 それにいたたまれなくなって、本職でもない朗読を聞かれた隆文は、入る穴がなくて行き場のない恥ずかしさに空を仰いで過ぎ去れと願った。

 隆文の願いとは裏腹に、その羞恥は山肌を伝う水がなくなり、雨の残滓が幹濡みきぬる香りとぬかるんだ腐葉土だけとなるまでなくなりはしなかった。

 ともあれ。

 二十分とかからずに、元の山道を歩くのに問題ないくらいには、天気は快復した。

 行きとは違って全く無気力な歩みで道を下る隆文の横を、妙乃がちょこちょこ顔や機嫌をチラ見しながら続く。

「……おや?」

 隆文がそれを見つけて声を漏らすのと、妙乃がそれを見つけてあれ?と目を丸くしたのは、全くの同時だった。

 雨に押し流されてきたのか、二人が登ってきた道を岩が塞いでいた。

 二人して足を止め、お互いの顔を見合わせる。

「これでは通れませんね」

 隆文だけが状況を口にした。

 妙乃は謎解きを前にしたように、岩を見て触り、何か解決策はないかと探しているようでもあった。

「危ないですよ。迂回しましょう」

 隆文は妙乃を優しく呼んだ。

 しかし、岩に手を付いた妙乃は、じっと動かずにいる。

「ほら、岩が転がったら怪我をしますよ。こっちに違う道がありますから」

 そう言って、妙乃の手を取ろうとした隆文を、妙乃が右の手の平を見せて制止する。

 隆文が脳裏に疑問符を浮かべるよりも、妙乃の行動は早かった。

 右腕を捻り、上下逆さまにした手の平が岩に接した。

 妙乃がぐっと踏み込み、肘が曲がって発条のように縮み。

 左足は後ろへ伸ばし切って支えとして。

 膝を曲げた右足の方に重心を落とし、腰を入れる。

 そして、妙乃はしなやかにその小さく細い体躯を、岩に触れた右手を起点にして弾き。

 ずるりと地面を鳴らして、大岩が転がり、山肌を滑落していった。

「は?」

 隆文は、ごろごろと転がった末に、妙乃に与えられた衝撃と重力の力を失ったところで振り子のように反復する岩と、ぷらぷらと右手を振っている下手をしなくても高校生にしか見えない妙乃を見比べて、呆気に取られていた。

 妙乃は、隆文の視線に気づくと、にっこりと笑って腰に手をやり、自慢げに胸を張った。

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