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 その日の妙乃は、見事な膨れっ面でした。

 隆文が、妙乃と山登りに行くつもりはないという文面の手紙を送ってから、三日目が経っています。

 手紙を送った翌日は、妙乃は悲しそうに目を伏せて、ちらちらと隆文に上目遣いに無言の期待を送っていたのですが、隆文は公僕としての嗜みを見せるようにそれをスルーして一日を過ごしました。

 その次の日、つまりは昨日ですが、妙乃は帰り際の隆文を捕まえて。ぽろぽろと泣いて無言の訴えをぶつけました。しかし隆文は、女の武器にも屈せず、男女二人で出掛けることが如何に他人に誤解されるのかをとくとくと説いて、妙乃を家に帰しました。

 そして今日は、妙乃は期待でもなく悲しみでもなく、怒りという表現で隆文に抗議することにしたのです。

 隆文が、夕方の来館者がほぼいないのんびりとした館内で仕事をする後ろに、頬を風船のように膨らませた妙乃がぴったりとくっ付いて来るのです。

 これには、隆文もすっかり参ってしまいました。

「丹堂さん、仕事に差し障るので、閉館後にお話ししましょう」

 そして三日目にしてついに、隆文が折れました。

 その言葉を聞いた瞬間に妙乃は、ぱーっと満面の明るい笑顔になりまして、スキップしながら、隆文の仕事の邪魔にならないように読書スペースの席に腰かけました。

 妙乃はもう一度、隆文に向けてにっこりと笑顔を見せて、『約束ですからね』と深海で書いたメモを見せつけるのでした。

 もう、一緒に永樹を見に行くつもり満々のその様子に、隆文は苦笑して自分を憐れんで、仕事に戻っていきます。

 さて、閉館時間まで、優に三時間もあります。

 妙乃は、隆文から借りた未言の本を取り出しました。隆文が所有している未言字引はもう全て読み切ってしまったので、それは未言を使った短歌集です。

 しかし、どの言葉が未言なのかは示されていない上に、奈月遥という人物は古語で短歌を詠み表現も独特なので、妙乃は暗号解読や宝探し気分で、未言を探すのです。

 それと、奈月遥以外の人の短歌も収録されているアンソロジーなので、そちらから未言を見つけて、また奈月遥の奇妙な短歌に戻ると、尚更いっそう不思議でふわふわした幻想的な気分に浸れるのです。

 しかし、妙乃はその短歌集も今日この図書館に来る前に家で最後まで読んでしまっていました。

 妙乃は目的のページを開くと、そこに書かれたお目当ての短歌を、万年筆でメモ帳に書き写しました。

 

『はらはらと涙星おつ

 まよなかのひとりさみしき

 なみだにやどれ』


 本に書いてあるそのままを月夜で書き写した妙乃は、自分で書いた文字を細い人差し指で撫でるようになぞります。

 インクはもう既に乾いていて、指し染めることもなく、妙乃のつやつやと内側のピンクを透かして煌めく爪が、文字の乗った紙を引っ掻いてさりさりと静かに音を立てました。

 妙乃は万年筆ケースを机に置き、書架の谷へ足を向けます。

勝手知ったる図書館の整然と並んだ棚へ踏み入り、妙乃はすぐにお目当ての古語辞典を抜き取って、腕に抱えて席に戻ってきました。

 妙乃は、『おつ』という欄をまじまじと見て、また側にある古語も指でなぞりながら確かめ、自分の思っている単語の通りなのかよくよく確認します。

 そして、間違いなくこの古語が現代語では『落ちる』の意味であると判断して、辞典を閉じ、万年筆のケースを開きました。

 鞄からF2サイズのスケッチブックを取り出して万年筆のペン先を滑らせていきます。

 月夜の空に、秋桜の涙星を流して、その下に冬将軍で街を描き、ぽつりと一人涙して。

 妙乃は縮尺がどうにも気になって、二度、三度、四度とスケッチブックのページをめくり書き直しを繰り返しました。

 やがて、閉館時間が訪れても、妙乃は満足のいく構図が出来上がらず、ほんのりと不機嫌な顔で仕事終わりの隆文を迎えたのでした。

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