二人でお出かけ、もしくはとある失言からの実現

 八月も二週目になると、多くの小学生は課題図書を選び終えて、一部の小学生達は読書感想文を忘れたり無視したりして元から来る気がなくて、ともかく市立図書館の利用人数を急増させる来館者達はもう鳴りを潜めている。

 司書の隆文も、子供達が放っぽった本の整理という仕事がなくなって、時間が空くようになった。具体的には、昼下がりに好きな本を読む時間が出来るくらいには。

 今日は来館者の応対もパートスタッフで十分だったので、隆文はバックヤードの自分の席に腰かけ、本のページを繰っていた。

 その傍らで、メモ帳に鉛筆を走らせる。一応、趣味ではなくて、来館者向けの書籍紹介のための読書なのだ。

「未言か」

 隆文は、小さな文字を追って凝った目をほぐしながら、気分転換に読んでいた本とは全く関係のないことを考える。

 未言が出て来る本は少ない。未言屋が活躍していた時代から百年近くが過ぎて、彼らの出版した本はほとんどが失われていき、未言を受け継ぐ人材も現れなかった。

 言葉は使われなければ、失われていく。当たり前の結果だ。

 インターネットで残っていた未言のログも、淘汰された。

 遺ったのは、未言屋店主と個人的な関わりを持った人達が、記憶に残る未言と手元に残した書籍や同人誌を、子や孫に伝えたもののみとなった。

 平成の終わりにアイヌ語の自然話者が勿尽なつぎよとなったように、未言そのものも滅びへと向かっている。

「でもまだ覚えてるから、伝えてくから、泣かへんでええよ」

 隆文が机の隅を見詰めながら、仕事での言葉遣いではなく素の言葉で呟いたら、背後から本が落ちる音がした。

 隆文がそちらを振り返ると、檸檬色の膝丈スカートに白いブラウスを着た妙乃が、驚きの表情で固まっていた。

 隆文が、もしかして、と体を強張らせる。

 妙乃が、手帳に万年筆を走らせた。ブラックで書かれた興奮で歪む文字が、隆文の前に掲げられる。

『京言葉すごくいいですね! すきです!』

 隆文は、安堵の息を吐くのを、なんとか堪えて、愛想笑いを妙乃に返した。

「いえ、そうでもないですよ。うまく伝わらないことも多いですから」

 方言としてはメジャーな方とは言っても、イントネーションの違いや否定の仕方の微妙なニュアンスから、関西から離れたこの地では、なにかとコミュニケーションの齟齬が生じる。それで困ったことも、一度や二度ではない。

 それを聞いて、妙乃はふにゃんと悲しそうに目を伏せた。

 彼女は、感受性の強い人だと、隆文は心のプロフィール帳に書き加える。

『私の前でだけは京言葉使ってくれませんか』

 しかし、続く妙乃のおねだりを見て、隆文は苦笑しながら、甘え上手な女性だと、さらに付け加えた。

「公共施設の職員は、公私をきちんと分けないといけないので。すみません」

 にっこりと余所行きの笑顔を作って、隆文は公人らしく線引きをして話題を打ち切った。

 そのつもりだった。

『なら、今日、お仕事の後にお時間はありますか。もっとお話ししたいです』

 猫のようにしなやかに、妙乃は隆文の私生活へと踏み込んできた。

 戸惑う隆文が言い訳を頭で組み立てるよりも早く、彼女はメモ帳をめくり、続きの言葉を綴る。

『私にもっともっと、未言を教えてくださいましな』

 隆文から教えた手前、このお願いは断りにくかった。

 隆文は目頭を押さえて、天井へ顔を向けた。

「次の木曜日は空いていますか?」

 結局、隆文は妙乃へ以前とはまた別の文庫本サイズの同人誌を手渡して、降参を申し出た。

 妙乃がその本の表紙を見ると、そこには『未言字引 第二期』と題が印字されていた。

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