東京ノイズ
@crux
第1話 研究者の夢
「本日のニュースをお伝えします。情報省国際戦略局の打ち出した新しい仮想ネットワークの共同管理体制を世界各国が承認しました。今後の展開としましては……」
スクランブル交差点の喧騒の中で、建物に埋め込まれた掲示板の報道が雑音として誰の気に留まることなく忘れ去られていく。夏の日差しは人々の歩く速さを早め、冷房の効いているはずであろう建物に駆け込みたい気持ちを一つの群れの共同意思としているかのようであった。
そんな表の世界とは全く乖離している世界が男性の目の前にあった。薄暗い階段を降りると地下のカビ臭さが鼻を刺激する。消えかかった蛍光灯の明かりが照らし出したのは、明らかに異様さを放つ警備システムであった。
「この認証システムだけが今を生きているんだよな。いや、未来を生きているの間違いか。」
重厚な扉が覗き見せたのは、まさに異国であった。淡い明かりを発する蝋燭は、壁一面に敷き詰められた本棚に収まる分厚い本の数々を朧気ながらに提示し、床に大量に散りばめられた紙の山を怪しく濁す。
まるで産業革命期のイギリス商人の書斎を感じさせるレトロさがそこにあったのだ。しかし、うっすらとした暗がりの中に白衣を着てソファーで横たわる大きな存在が現代を感じさせた。
「何寝ているんですか、早く起きてください。」
「ん、あぁ、君が来たということは準備ができたのか?」
「はい、もう後悔なんてありませんし、戻る気もありません。そもそも、やっぱり止めるという選択肢を僕にくれるんですか?」
男性の挑発を鼻で笑いながらソファーから起きた女性は、机に山積みにされた書類の上の小さな物体を投げて寄こした。
「君の分だ。使い方は以前に教えた通り、向こうで絶対に無くすなよ。帰れなくなるからな。」
女性が渡した一枚の銀板にはいくつか凹みがあった。男性は近くに置いてあった針刺しから一本の針を取り出してそれを指に少し刺し、銀板に自分の血を垂らして埋めていく。数秒ほど経つと銀板はその血をゆっくりと吸いだした。
「しっかりと指の感触で凹み具合を覚えるんだ。その感覚だけが唯一の手掛かりだからな。」
ひんやりとした金属の感触と凹凸の具合を肌で感じ、男性は銀板を所持しているという事実を脳に認識させていく。その後、男性が銀板を女性に返し、すぐさま女性は機械に銀板を差し込みデータを入力し始めた。
「最後に確認だ。何かあったら集積座標を自分で探し出すことになるが、時間切れになったら空間に取り残されることを覚えておけ。」
「何度も聞きましたよ、そのセリフ。あと、例の女王様の追跡を妨害する手段は大丈夫ですか?」
「あぁ、その件なら随時ゲノム情報のアップデートをする予定だ。有事の際には交差座標が変化したり、アクセスの消失が数時間続くことも考えられる。まぁ、なんだ、心配するな。この私が付いていることに変わりはないさ。」
「頼もしい限りですね、そろそろ……。」
男性はソファーに横になり、女性は先ほどの大型の機械に繋いだヘッドホンを彼の頭にはめた。ヘッドホンから流れてくる単調な音波が彼の脳波と少しずつ重なり合っていく。そして、彼の目はゆっくりと閉じていった。
目を閉じたままの男性の顔を覗き込みながら、女性は優しく彼の頬を撫でる。そして徐に、何も聞こえないはずの彼に語りかけた。
「やはり似ているな、どうも思いだしてしまうよ。今、君の息子は君の夢の続きを完成させようとしている。止めるべき立場の私は言い訳をすることは許されないが、それでも私も見たくなってしまったんだよ。研究者という輩はこれだからいけない。」
かつて研究を共にしたある男との会話が彼女の耳に残っており、その声が情景とともにゆっくりと彼女の頭に蘇ってきていた。それは、まるで老齢の人間が若き青春時代を回顧するような姿によく似ていた。
「知っているか、東雲。事実というものは存在しない、存在するのは解釈だけである。ニーチェの一節から読み解くのなら、解釈から事実を捻じ曲げることができる。しかしそれでも、真実の存在が否定されることもなく、肯定されることにもならない。」
最新鋭の機器が起動している騒々しい部屋の中で、椅子に座りながらコーヒーを飲む女性に自慢げに話しかける男がいた。彼女は鬱陶しそうに彼を小馬鹿にした口調で切り返す。
「おいおい、科学に言葉の文法を持ち出すのか?もしかして崇高な神とやらが真実を担当して、人間様が事実の担当って役回りじゃないだろうな。」
彼女の嘲りに対して男は嫌な顔一つ見せず、まるで少年のように目を輝かせて言い放った。
「全く東雲は面白いことを言う。科学に神は不釣り合いだけれども、もしもいるとしたら是非とも一緒にゲームをしてみたい。そして、接戦の末にこう言うんだ。“君がここで勝敗を決したら、存在する君と存在しない君の両者を同時に肯定することになる。だから延長戦だ”ってね。」
その時の男の表情を彼女は忘れることはなかった。しかし当時の彼女には、彼の発言の裏に隠された意味を何一つ知らなかったのだ。
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