テロ組織・ファクトリーによる突然のテロ活動によって混乱した居住地ファーストだが、警備隊が総動員で事態を収拾しやっと落ち着きを見せていた。

 辺りは警備隊の姿が見受けられるなか、アレットの腕輪にリュシーから通知が来たため応答した。

「アレット、今どこにいるの?」

「居住地ファーストの中心地だ。リュシーもこっち来てるんだろ?」

 蜘蛛型ロボットのことと言い、居住地ファーストで一番混乱したのがこの場所のため、リュシーも同様に事態の収拾へ駆けつけていると思い込んでいた。だがリュシーの返事は異なる。

「そう言いたい所なんだけど違うわ。実はそっちへ向かおうとした時、偶然あなた達の事務所に寄ったんだけど、そこでフラヴィさんを病院へ搬送したわ」

「姉御が!?」

 二人はミレイユを救う事に頭がいっぱいになっていて忘れていたが、事務所がフロランスに襲撃されたことを思い出す。

「……あれはファクトリーの仕業なの? 入口が吹き飛んでて、中もめちゃくちゃにされてたわ。なんというか、爆発物で吹き飛ばされた感じよ。とにかく、フラヴィさんを搬送した病院の場所をそっちに送るからすぐに来て。私はまだここでフラヴィさんを見てるから」

「分かったすぐに行く。ありがとうなリュシー」

 二人の会話はジャネットにも聞こえるようにアレットが設定していたため、二人は顔を見合わせるとお互いに頷いた。

 その後すぐに来た通知に載っている病院の場所は二人がいる場所から近かったため、ジャネット達は走って病院の場所へ向かった。

 その道中、道端には倒れた人々の看病にあたる警備隊の姿をよく目にした。テロ組織・ファクトリーがここまで大胆な攻撃をしてきたのは初めてのことであり、今回の件はヴォレヴィル建設以来の大きな騒動となった事だろう。

 いったい何人の人々が命を落としたのだろうか……。まるで資料でしか閲覧することが出来ない戦争を再現しているかのようだ。

 ジャネット達も気丈に振る舞っているように見えるが、内心では穏やかではない。二人はアンドロイドによって殺された人を見てこなかったわけではないが、それでも大勢の死体を見るなどという経験はない。

 銃弾によって腹が開き内臓が飛び出て死んでいる者。頭を撃ちぬかれて脳髄が散らばっている死体。子供を庇って死んだ母親とそれを見て大泣きしている子供。そして死んでいるのは人間だけではなかった。例えば、道端で座っている若い夫婦の目の前には動かなくなったアンドロイドがいる。男性型のアンドロイドだが、彼は人間を守るために自身を盾にしたようだ。それと同じような死に方をしたアンドロイドも多く見受けられた。

 ──アンドロイドが人を助けた。

 ジャネットは複雑な心境だった。

 今回のテロを起こしたのはアンドロイドだ。しかし主を守るために犠牲になったのもアンドロイドだ。つまりアンドロイドがアンドロイドを壊すという異質な構図が誕生したのだ。

 これはジャネットにとって初めての事だった。ジャネットはいつもアンドロイドを一括りに考え、その全てが人間に害をなす可能性があると断言してきた。それが、人間に害をなすどころか人間を救う存在にもなったのだ。アンドロイドがアンドロイドを破壊できるという想像をした事がないジャネットにとって、この事実は衝撃だ。

 しかし、ここでジャネットはふと気づく。他人に対して害を与えるとは、なにも殺人だけに留まらない。何故なら害とは受けた相手の感じ取り方で変化してしまうからだ。ロボット工学三原則第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならないとある。つまり、ロボットがロボットに危害を加えてはならないと定めてないのだ。

 今まで考えてこなかっただけで、アンドロイドがアンドロイドに危害を加えることは不自然な事ではないという事になる。それはある意味、人の在り方とも似ているのかもしれない。生存するために協力し集団生活をする人間でも、同じ人間同士で争い殺し合うのは歴史からも明らかだ。

 ではファクトリーの目的であるアンドロイドのための世界を作るとはどういうことか。一体何がアンドロイドのために成りえるのか。その部分を解明しない事には、テロ組織・ファクトリーの目的は永遠にわからないだろう。

「着いたぞジャネット」

 病院の入口にはすでにリュシーが待っていた。

「二人とも待ってたよ。フラヴィさんはさっき手術を終えたばかりよ」

「そんなに酷いの?」

 ファクトリーの件であちこち走り回っていた二人は事務所がどのような状態になっているか知らない。

「ひとまず見てもらった方が早いわ。案内するからついて着て」

 病院の中へ入っていくリュシーの後に二人も続いた。中は看護婦達が慌ただしく動き回っていて、緊急患者の搬送が何度か視界に入ってきた。どこの病院も手当を必要とする人々でいっぱいになっているのだ。

 階段を利用し三階に上がり、廊下を歩いていたリュシーの足が止まった。病室は個室でフラヴィの名前が書いてある。

 コンコンと二回ノックしたリュシーが部屋の中へ声をかける。

「フラヴィさん、リュシーです。ジャネットさんとアレットさんを連れてきました」

 返事を待たずリュシーが中へ入る。続いてジャネットとアレットが入室し、二人の足が止まった。

 ベッドに横たわるフラヴィの姿は……入院患者とは思えないほどくつろいでいた。

 両足が簡易的なハンモックによって支えられ、頭には包帯をぐるぐる巻きにされているにも関わらず、フラヴィは落ち着いて読書をしていた。両足を机に投げ出しコーヒーをすすりながら本を読む日常の光景が目に浮かぶ。

 リュシー達の入室に気付いたフラヴィが本から視線を外し口を開いた。

「お前たちやっと来たのか。遅いぞ」

 そんなフラヴィの余裕の表情を見たジャネットがワナワナと震えながら質問する。

「フラヴィ……怪我は?」

「見ての通りほぼ無傷だ。足は挫いただけで折れてないから心配するな」

 その外見から無傷であると言われても説得力がない。だがリュシーが口を挟む。

「実際、フラヴィさんは外見ほど酷い状態ではないそうよ。ただ念には念を押してこうなったんだけど……」

「でも事務所が襲われたって……」

 会話がフラヴィにバトンタッチする。

「襲われたぞ。おかげであそこはもう使えん。ファクトリーに位置がバレてるからな」

「じゃあ、どうして……?」

 どうしても納得できないジャネットの疑問にフラヴィが答える。

「ミレイユが庇ってくれたんだ」

「ミレイユが?」

「ああ。彼女はアンドロイドだからな。おそらくロボット工学三原則の第一条に乗っ取り、身を挺して助けてくれたんだろう。……その表情を見る限り、ミレイユは奪還できなかったんだな」

「うん……ごめん」

 謝るジャネットの横にアレットがやってくる。

「ミレイユはアタシが必ず取り返す。だが、ファクトリーの中にかなり手ごわいアンドロイドが居やがった。そいつのせいで失敗しちまったよ」

「手ごわいアンドロイド? 誰だそいつは?」

「ルーダって奴だ」

 その名前を聞いた瞬間、フラヴィの目に動揺が走ったのをアレットは見逃さなかった。

「その顔……知ってんだな? 教えてくれ。あのアンドロイドは何なんだ。ジャネットは二人目の母親だって言ってたが、どういう意味なんだ?」

 アレットの言葉を聞いてフラヴィがジャネットの顔を見る。

「そこまで話したんだな、ジャネット」

「うん。でもそこから先はまだだよ」

「つまり、お前は自身の過去について話す覚悟はあるって事か」

「……うん」

「そうか」

 フラヴィは天井を見上げると何か覚悟を決めたように頷き、リュシーを含む三人に座るように促した。

 席に座りながらジャネットが口を開く。

「フラヴィ。ルーダのことは私の口から言う」

「無理するな。お前にとってあれはトラウマだろ。わざわざ傷を抉ることもない」

「ううん、私が言わなきゃいけない。ルーダがファクトリーと関わってる以上、情報共有はしておかないと」

「……そうか、わかった」

 場に沈黙が降りる。これからジャネットの口からこぼれる言葉は、彼女の過去を開く扉である。本来ならありきたりの、ごく平凡で、幸せな生活を送るはずだったジャネットが、アンドロイドを憎み破壊する壊し屋へと身を落とした原因を語るのだ。そしてその中心にいるのがルーダというアンドロイドになる。

 膝の上で拳をぎゅっと握ると、ジャネットは語り始めた。


 ◇◆ ◇◆ ◇◆


 ルーダの事を語るということは、必然的にジャネットの過去について語るという事だ。

 ジャネットが一二歳の時のことである。当時の彼女が一番覚えているのは、なんといってもルーダの笑顔だった。

「ジャネット様は、将来美しい女性になりますよ」

「えー何それ。なんか恥ずかしい」

「私の目に狂いはありません。必ず、ジャネット様は良い女性になります」

 そう言い聞かせるルーダの膝の上に、無邪気なジャネットはまたがるように座って彼女の言葉に耳を傾けていた。

 ルーダは当時では珍しい、子育てに特化したアンドロイドの製品版だった。ジャネットの父・イーランはアンドロイドという最先端技術に執着していたため、新しいアンドロイドをすぐに購入した。というのも、ちょうど妻がジャネットを身ごもっていたからだ。

 最初はアンドロイドが子育てをする事に否定的だったジャネットの母だったが、初めての子育て経験だった母はルーダに赤ちゃんの扱い方など事細かに教えてもらう事で、無事にジャネットを育てる事が出来ていた。

「ルーダを買って本当に良かったわね」

 仲睦まじく、まるで本当の母子のように接する二人の姿を眺めながら、ジャネットの母・マリエがイーランに語り掛ける。

「ああ、本当に良かったと思うよ。僕たちだけでは、ジャネットをちゃんと育てられるか不安だったからね」

「私達ならできたわよ。でも、ルーダのおかげで助かった部分は本当に大きいわ」

「そうだな。そしてアンドロイドの技術はそこまで到達しているという事になる。これは凄い事だ」

 嬉しそうに語るイーランに、マリエが問いかける。

「アンドロイドの可能性……だっけ? あなたの口癖よね」

「そうだ。アンドロイドには無限の可能性がある。僕はもっと、アンドロイドの有用性について皆に知ってほしいんだ」

 アンドロイドが普及したとはいえ、中にはまだアンドロイドに否定的な人々も多い。そういった人々はアンドロイドをただの道具として認識し、道具に情を移してはならないと訴えている。イーランはそうした人々の意識を変えていきたいと思っている。

「ねえパパ。また難しいお話してるの?」

 いつの間にかジャネットは父の元に来ていた。

「そうだね。確かにジャネットにはまだ難しい話かもしれない」

「だってパパは難しい言葉ばっかり使うんだもん。もっと簡単な言葉で話して」

「ふむ……。じゃあジャネット。ルーダのことはどう思ってる?」

 話題の中心に自身が置かれた事にルーダが驚いた顔をする。

 そんなルーダの表情を見たジャネットが父の方へ向き直って尋ねる。

「どうって?」

「例えば、ルーダをアンドロイドだと思ってるかい?」

「ルーダはアンドロイドなんでしょ?」

「そうだが、それは見た物をそのまま言葉にしているだけなんだ。ジャネットはパパの事を見て、まず最初に人間だと思うのかい?」

「ううん、思わない。パパはパパだもん」

「そうだね。じゃあルーダはどうだい?」

「ルーダは……」

 ジャネットがルーダの顔をもう一度見る。

 ルーダはジャネットがどのような答えを返すかドキドキしているような表情で彼女の無垢な表情を見返す。

「ルーダはルーダだよ」

 その回答を聞いたイーランは満足そうな顔をした。

「そう言うことだ。アンドロイドは人間にとってただの道具かもしれない。でもそれは、物事をただ表面的に表現しただけなんだ。アンドロイドがただの道具というのは、今のジャネットとルーダの関係のように、人とアンドロイドの関係の本質を現したものではないんだよ」

「うーん……」

 ジャネットが言葉の意味を理解しようと首をかしげる姿を見て、イーランはまたやってしまったと頬をかいた。

「つまり、ルーダはわが家の家族同然って事さ」

 とても端的に、そして確信をついた言葉にジャネットは満面の笑みになる。

「うん! ルーダは私のもう一人のお母さんだもんね!」

「お、お母さん……ですか?」

 ルーダが驚きのあまり声を出した。

 ジャネットはイーランの元を離れてルーダに近づくと、彼女の華奢な足に抱き着いて顔を見上げる。

「うん! ルーダは私のお母さんだよ!」

 ルーダはなんとも形容しがたい表情でジャネットの顔を見返す事しかできなかった。その戸惑いの顔を見て、ジャネットはまたルーダが愛おしく感じたのだった。

 二人の様子は見ていて微笑ましいと思えるだろう。イーランは、人の子とアンドロイドが本当の親子のように触れ合っている光景を見て、アンドロイドのさらなる可能性について思いを馳せらせていた。

 ただ一人、その光景をあまり面白くなさそうに見ている一人を除いて。

 イーランには長年の夢があった。それは、アンドロイドを教育者にすることだ。

 アンドロイドには無限の可能性がある。それはイーランの口癖だったが、今の世について確信をついた考えであると彼は思っていた。

 太古の昔より、人は人を真似た物を作り続けてきた。ある時は供物のため、ある時は信仰のため、時が進めばそれはインテリアなど時代に合わせて姿形を変えていった。より人間らしい人形を作る技術も誕生し、人は人の姿をした人形を作り続けてきた。

 幼い頃、ほとんどの人が何かしらの人形に心を寄せ、疑似的に命を吹き込み、遊び相手として大切に胸に抱いた事があるだろう。人にとって人形とは心の支えとなる物だったのだ。

 それが今では、自らの意思で動き出し、言葉を喋り、人と意思疎通を図ることが出来るようになった。そしてルーダのように、幼子を世話するアンドロイドまで誕生したのだ。

 イーランにとってアンドロイドの発展は快いものである。アンドロイドの有用性が広まれば広まるほど、彼が目指すものの道が開けていくのだから。

 イーランはアンドロイドは人を教え、正しき道へと子供たちを導く教育者になる事が出来る。そう考えるようになっていた。

 というのも、イーランはジャネットが通う学校の先生を仕事にしているのだ。

 アンドロイドが人間の代わりに仕事をする世の中で、まだ旧態依然の仕事が残っているのが子供に教育を施す教師という存在だ。

 なぜアンドロイドが教師になれないのか。もちろん、人の代わりに仕事をするのがアンドロイドの目的なら教師だってアンドロイドが担当するはずだった。しかし、これには世論が猛反対をしたのだ。

 人を導くのは人でなければならない。道具が人を導くのは、人道的に非難されるべき事である。

 世間は満場一致でアンドロイドが教師の職に就く事を拒否した。そのため、アンドロイドが教師になる事はないのである。

 気持ちは分からなくないだろう。人は人のぬくもりを感じ、人に導かれる事で成長していき、そして大人になった人は子を作り、その子供を導いていく。こうしてこれまでの歴史は成り立ってきたのだから。もしアンドロイドが人を導くようになれば、人が人を導くという構図が根底から崩れ去り、人と人の結びつきがなくなったしまうかもしれないのだ。

 だが、イーランはそうはならないと考えていた。

 そもそもイーランの考え方は世間とは真逆である。どれほどアンドロイドが人間らしくなっても、所詮は道具であるというのが世間の主張だ。しかしイーランはアンドロイドは新しい人類の形であると主張している。

 

 陽の光が教室の窓からジャネットの机の上へと落ちている。

 ジャネットのクラスには、どこから漏れたのかすでに新しい担任が訪れる事を知り、クラス中がそわそわと落ち着かない雰囲気に包まれている。クラスメイトの中には、担任がジャネットの父親であるイーランであることを知っているため、何か情報を持っていないかと訪ねてくる。

 しかしジャネットはあらかじめ父から言われた通り、何も知らないと言って貫き通した。もっとも、ジャネット自身も今日という日を楽しみにし、クラスメイトの中で誰が新しい担任になるか知っているという優越感を楽しんでいた。

 やがて朝の朝礼を知らせるチャイムが学内に響き、その鐘の音とともに担任の先生であるイーランが教室へとやってきた。

「さあ、みんな席に座りなさ……い?」

 イーランは教室を見渡して驚いた。いつもなら号令があるまで歩き回って騒いでいる生徒達が、軒並み揃って席に座り、期待を込めてイーランを見ているからだ。

「どうしたんだ? やけに静かだな」

 疑問を口にしたイーランに対し、クラスでもヤンチャな男の子が挙手と同時に席を立ってこう言った。

「先生! 新しい先生はどこですか!?」

「なんだ、もう知っていたのか。もしや誰かが話したのか?」

 と言いながらイーランは横目でジャネットの顔色を伺うが、ジャネットはふるふると小さく首を振った。

 情報とはどこから漏れるかわからないもので、特にまだ口が軽い少年少女達が相手では、秘密を隠し通すのは難しくなる。

 とはいえ、正式に担任になることが決定した今となっては、別段隠しておく必要もないだろうとイーランは思い直す。

「それじゃあみんな、朝の朝礼を行う。委員長、号令を」

「起立!」

 学校のあり方はヴォレヴィルが建設される以前から何も変っていない。どれほど時代が進もうとも、あえて昔ながらのやり方を通す文化もあるのだ。

 委員長の号令とともに挨拶を終えた教室を一気に静けさが包む。だが教室には、新たな先生の登場を待つ生徒たちの期待が熱となって篭っている。まるでヒーローショーで、悪役を退治するヒーローの登場を待つ子供達のようだ。

 場の空気を読んだイーランは、事務連絡より先に新しい先生を紹介する事にした。

「さて、もうみんな知ってるみたいだから先に紹介しよう。今日、新しい担任の先生がやってくる事になった。だが新しい先生は教師の仕事が初めてだから、不慣れな点も沢山ある。よって私のお手伝いをしながら、みんなの担任をする事になった。いいかい、新しい先生を困らせたらダメだぞ?」

「はーい!」

 元気のよい返事を聞いてイーランは満足そうに頷いた。

「よし、じゃあ紹介するぞ。入ってきてくれ」

 イーランの号令とともに、教室の扉が開かれて一人の女性が入ってきた。

 その姿をジャネットはよく知っている。ジャネットが生まれた頃から面倒を見てくれて、今でも家に帰れば本当の母親のように慕っている、アンドロイド・ルーダである。

 やがてイーランが立つ教壇の隣まできたルーダは、心配そうな、しかし何か考え事をしているかのような表情で教室を見渡した。その一瞬でジャネットと視線が合い、少しだけだがルーダはジャネットに微笑みかけたように見えた。

「今日からみんなの新しい担任になったルーダ先生だ。ではルーダ、自己紹介を」

「はい」

 ルーダが顔をあげて大きく息を吸い込む仕草をする。もちろんアンドロイドは呼吸を必要としないため、息をすい込む行為は無意味だ。だが、敢えてルーダがそのような行動を取った。

「皆さんはじめまして。私はアンドロイドのルーダと申します。もともとは教育型アンドロイドとして製造され、ご主人であるイーラン様の家でお世話になっています。このクラスにいらっしゃるジャネット様は、彼女が赤ん坊の頃から世話をさせていただいています。

 今回、イーラン様の推薦によって私は皆さんの教育を担当する事になりましたが、なにぶん教師という職業は初めてで不慣れです。ですので、皆さんと一緒に先生として職務を全うしたいと考えています。どうぞ、これからよろしくお願いします」

 恭しく、深々と、ルーダはお辞儀をした。

 流暢に語られたルーダの言葉はその場にいる誰の耳にも心地よく、長文にも関わらずいっぺんの疑問を感じさせずすんなりと受け入れることができた。

 誰かが、ぱちぱちと拍手をした。ジャネットだ。彼女がクラスメイトの誰よりも早く、ルーダに向かって拍手をした。その音につられて他のクラスメイト達も拍手をしはじめた。

 やがて教室全体が拍手に包まれて、ルーダはなんとも言えない感情を抱いて顔を上げた。

 人は誰かを歓迎するとき、拍手で迎えるという事は情報として記録されている。しかし、実際に自分が迎え入れられるという状況に遭遇し、ただの記録では実感できないものを感じるのだ。

 アンドロイドに何かを感じる心があるのだろうか……という疑問もあるだろう。だがそもそも、我々人間も心というものを完璧に定義する事はできない。ならアンドロイドが何かを感じると表現しても、なんら不思議な事はない。

 その日から、ルーダは先生になった。それは、世界で初めてアンドロイドが先生という職業に就いたという事でもあった。世界で初めての出来事に、イーランはこれまで感じた事の無いような高揚感を感じていた。


 ルーダが担任になってから幾日か経過したが、特に問題もなく学校生活は進んでいった。

 学校では先生として時に厳しく、時に優しく生徒と接しているルーダは、まさに生徒たちを公平に扱っていると言える。その点は特定の個人に肩入れをしないアンドロイドの特徴がいい意味で発揮されていると言えるだろう。

 しかし、ジャネットはそれでは面白くなかった。先生として振る舞うルーダは、たとえ主人の一人娘であるジャネットであっても扱いは変わらない。だからジャネットは家に帰ってからうんとルーダに甘えた。家で見せるルーダのジャネットへ向けられる微笑みは、他のクラスメイトには向けられない特別なものだと、優越感に浸りたいのだ。

 そしてルーダは家にいるときも普段の行いに変化が生じていた。

 特に大きな変化があったのは、夜遅くまでイーランの部屋にいるようになった事だろう。その理由は、ルーダがちゃんと教師として職務を全うできているのか、イーランに助言を求めたからだ。

 あくまでもルーダは育成型アンドロイドであり、人の子を導く教育を専門にはしていない。それがたまらなく不安になるのだとルーダはイーランに語ったが、イーランは何も心配する事はないと何度も言って聞かせていた。ジャネットは部屋の外から二人の話し声を聞いていたからよく覚えている。

 だが、その時ジャネットは母親と視線が合った。そしてその目を見てゾッとした。

 その目は、冷たく、刃のように鋭かったのだ。その視線がジャネットを貫いた後、スッとイーランの部屋へと向けられる。そしてマリエはもう一度ジャネットを見て、そのまま寝室へと戻って行った。

 その日から、ジャネットの記憶にある母は、どこか遠く近寄りがたい存在へと変ってしまっていた。

 ルーダが教師を続けて半年が過ぎ去り、試験的だったルーダの扱いが正式にクラスの担任を任される事になった。

 はじめ、学校側もルーダを教師にするのは反対だったのだが、この半年でルーダの評判はうなぎ登りだったのだ。生徒の誰もが、ルーダをアンドロイドではなく一人の人間として接するようになったのだから。

 そしてルーダが担う仕事の量も増えて行った。事務的な作業ならもの数分で片ずけてしまうルーダだが、予測不能な行動をする大勢の子供達が相手では、一つの授業内容を詰めるだけで数時間かかるようになってしまったのだ。

 イーランは何度も、そこまで難しく考える必要はないと言うのだが、子供の将来がかかっているから手を抜く事はできないと、ルーダは懸命に仕事に励んでいた。そんな彼女は残業し、家に仕事を持ち帰るほどである。

 とはいえ、アンドロイドに疲労はないため、彼女は寝ずに作業を続けることを苦としなかった。

 一度、イーランはルーダに「一度寝たほうがいい」と言った事がある。しかしルーダはイーランに微笑みかけて「私はアンドロイドですから、寝なくても行動に支障はでませんよ」と言った。あまりにも仕事熱心なルーダの姿に、イーランは彼女のことをアンドロイドではなく一人の人間として接してしまったのだ。

 実際、イーランとルーダは一緒にいる時間が明らかに増えた。帰宅時、食事の後、就寝前と、ずっと仕事の話に夢中になっているのだ。それではつまらないとジャネットが二人の間に入って、一緒になって授業内容を考えたりしていた。

 しかし、ジャネットは一つ気になる事があった。それは母・マリエの帰宅時間が遅くなっている事である。

 マリエは普段、趣味であるダンスサークルへ通い、夕飯前には帰宅して食事を用意している。それが習慣になっていたはずだが、だんだんと帰宅時間が遅くなり、ルーダが夕飯の支度をするようになっていた。

 初めはイーランもマリエに苦言を呈したが、マリエに改善は見られず、次第に二人は会話を交わすことも減っていった。ジャネットは、まるで父親がイーランで母親がルーダになったように気分だった。

 母・マリエの浮気が発覚したのは、とある日のジャネットの帰宅時だった。

 友人と少し遠出して遊んできたジャネットの帰宅途中、交差点で信号待ちをしている時だった。今日の授業は楽しかっただの、明日は公園へ遊びに行こうだの、そういった他愛のない会話を友人としていたら、ふと、道路を挟んだ対面に信号待ちをする仲睦まじい男女が視界に入る。

 別段珍しい光景でもない。ごく普通のカップルか新婚の夫婦だろう。そう思ったジャネットだが、女性の姿になんとなく既視感があったせいで、マジマジと女性の姿を観察した。

 帽子を深くかぶった女性が、ふと男性の頬に顔を寄せて口づけをしようとした時だ。女性の顔が明らかになったところで、ジャネットの思考が停止した。

 その女性はマリエだったのだ。

 マリエは男性にキスをする前に、視線を感じてジャネットを見た。まさか自宅から離れ、通学路からも外れた交差点で自分の娘と遭遇する事になるとは思わなかったのだろう。驚いたように固まったが、次の瞬間、マリエは無表情になった。

 信号が青に変わり、二人が歩き出す。

 ジャネットは友人と話しをしながら、マリエは隣の男性とくっつきながら、お互いがお互いを赤の他人のようにすれ違う。

 その時、マリエはジャネットの母親ではなくなった。

 マリエの浮気の件は、ジャネットが告げ口をするまでもなくイーランも気づいた。

 彼はジャネットの前で初めて怒りを露わにした。マリエの行いは、永遠の愛を誓った自身に対する裏入り行為であると、マリエを酷く罵ったのだ。

 しかしこれにマリエも抵抗した。浮気をしたのは、イーランがルーダの事ばかり見ているからだと。いつでもどこでも一緒にいる二人はマリエを蚊帳の外にしている事に気づいていなかった。だからマリエはいつからか、自身はイーランに買われたアンドロイドで、ルーダがイーランの本当の妻なのだと思い込むようになっていた。馬鹿馬鹿しいと思ったマリエは、自分の事を見てくれる新しい人を探して浮気をしたという事だ。

 しかしイーランの言い分はこうだった。

 ルーダはアンドロイドであり、ただの道具だ……と。

 その言葉を聞いた時、一番衝撃を受けたのはジャネットだった。

 ルーダはアンドロイドとか、そういう垣根を超えた家族であると信じていたのに、それを教えてくれた人がルーダをアンドロイドと言って区別していたのだ。

 イーランはルーダを人間視していると主張するマリエと、浮気を裏切り行為として認めないイーランの、二人の言い争いは平行線のままとなり、マリエは家を出て行ってしまった。

 イーランはやり切れない気持ちのまま部屋にこもり、取り残されたジャネットは途方にくれた。

 これからどうなるのかとジャネットがルーダに問いかけるも、ルーダもただわかりませんと答えるだけだった。

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