テレプシコーラの白昼夢

のん/禾森 硝子

1話 電子言語の空薬莢

 ぼくには神さまの友達がいる。彼女の名前はテレプシコーラ。ぼくが勝手にそう呼んでいる。ぼくの名前はアウトサイダー。彼女が勝手にそう呼んでいる。互いの名前も知らないぼく達だけど、二人の間はそれでいい。というかここではテレプシコーラとアウトサイダー、それがぼくらの本名だ。

 神さまは路地裏に住んでいる。周りより縮尺が小さいようなどこかおもちゃめいた家々や謎の店、そんなもの達がひしめき合うその道の、いっとう奥まった場所にある漆喰の壁のアパート。そこの最上階―三階のかど部屋が、テレプシコーラの巣だ。テレプシコーラは、そこにいる。

 かんかんかん、と外付けの螺旋階段を昇っていき、その終点にがちゃりと三階のかど部屋の扉に辿り着く。扉についている変な形のノッカーを叩いた。

「入るよ、テレプシコーラ?」

「ああ、君か。入り給え」

 一見ガラクタとしか思えないものに満たされた部屋の一番奥。テレプシコーラはいつもの指定席、鳥籠みたいな宙吊りのソファに可愛らしく収まっていた。ぼくの指定席はその向かい。適当なラグとクッションを引っ張り出してきて、腰を下ろす。

「お菓子を持って来たよ。きみが前に芸術的って言ってた所のやつ。……気に入ったってことでいいんだよね? あれ」

「嬉しいな、ボクは君がボクにしてくれることはなんでも嬉しいよ。うん、そこのお菓子はすごく美味しかった。あぁそうだ。紅茶を出さなくちゃぁね。アウトサイダー、君今日をあったかいと思う? 寒いと思う?」

「ぽかぽかしてて過ごしやすいね」

「じゃあアイスティーを作っておいて正解だったというわけだ」

 テレプシコーラは部屋の隙間を、鼻歌なんか歌いながら、ひらひらふわふわ、優雅にすり抜けていく。彼女は絶対にここにあるものにはぶつかったりしない。テレプシコーラは神さまで、そしてこれらのあるじなのだから。

「はい、アウトサイダー」

「いただきます」

「召し上がれ」

 シンプルだけど優美な形のグラス。これにはどんな物語があるんだろうと考えるだけで胸の中が弾む。……だけど、それをぼくから聞くことは絶対にない。テレプシコーラが語りたい時に語りたいことを語る。それがぼく達の不文律だった。

「―ああ、そうだアウトサイダー。君の横に落ちているその電子辞書を渡してくれ」

 テレプシコーラがさっきまでケーキを切り分けては口に運んでいたその華奢なフォークで、ぼくの方を指す。動きは洗練されているのに、時々変な所で行儀が悪い……。

「はい」

「ありがとう」

 彼女の感謝はいつだって自然にとろける色を含んでいる。そんな声色でぼくに言うと、彼女は何やらおもむろにそれの電池を替え始めた。なぜか取り出した方の包装をペリペリと剝いている。そして銀色一色になったそれをつまんで、ずいっとぼくの方に差し出した。

「アウトサイダー。君には何に見える?」

 いたずらっぽい光がその瞳にちかちか瞬いているのに気付いた。きっとこれも何かの欠片なんだろう。ぼくは受け取る。

 ―彼女は、打ち捨てられたもの達の、誰も知らない物語を掬いあげる神さまなのだ。彼女の仕事が、神さまの仕事が、始まった。

「んー……ぼくには、剥かれた、電子辞書の電池にしか見えないけど」

「ああ、人間にはそう見えるだろうね。しかしこれはね、アウトサイダー。偉大なる役目を終えた銃弾の抜け殻……空薬莢なのだよ」

「銃弾? どうしてそうなるの? 確かに形は少し薬莢に見えなくない、けど……」

「それはねぇ、さっき君がボクに渡してくれた電子辞書が深く関わっているのさ」

 テレプシコーラはソファの中で楽しそうにくるりと仰向けになった。脆そうな小さな足に、窓(色ガラスが入っている)の虹色の影が落ちた。

 ああ、やっぱりテレプシコーラは神さまだ……。ふと、そんなことを思う。何故か泣きそうになったぼくの胸中を知ってか知らずか、テレプシコーラはそのまま楽しそうに語り出した。

「君がさっき拾ってくれた電子辞書はね、ボクの大事なピースメーカーなのだ」

「ピースメーカーって……どっち?」

 彼女はにこっと笑って、手でピストルの格好を作って、そしてそのままぼくに向けた。

「ずきゅうううううん。ね?」

 ……かわいいなぁ。ぼくはなるほど、とうなずいてみせた。

「うん。ボクはね、これでもって世界に、誰かに、ボクに君に、撃ち込むにふさわしい弾丸を探すのだ。あとは特に意味もなく様々な言葉を学んで―その度にボクの知る言葉が増え、世界が広がる。ボク自身がピースメーカーに弾丸を撃ち込まれてる訳だ。ずだだだだ!」

 テレプシコーラはさっきぼくを撃った細い指をがちんと噛んでみせる。

「しかし、ボクは君の知る通りとんでもないトリガーハッピーだ。どんなに優れた銃だって無限には撃ち続けられない……そこでボクは新しい電子の火薬がみっしり詰まったものと交換するために空になった薬莢を取り出す。それが―そうさ」

 ぼくは再度、自分の掌の中にある電池―いや、空薬莢を見つめた。それが放つ鈍い光は、いまや何にも変え難い仕事を終えたものだけが持つそれに変わっていて。

「ねえテレプシコーラ。きみ……これをどうするの?」

「ああ、いつもはね、退役軍人に敬意を払って……」

 テレプシコーラは籠からするりと降りて物の隙間にふいっと消える。また姿を現した時彼女は手に一冊の本をぶら下げていた。それを、ぼくの目の前で広げてみせる。

「ここでね、眠ってもらっているよ」

 それは―本であって、本じゃなかった。中身のくり抜かれた、言うなれば空薬莢たちの墓場だ。

「アウトサイダー? どうしたんだい?」

 その場所から顔を上げれば、すぐ近くにテレプシコーラの楽しそうな笑顔があった。

「……どうしたいんだい、と言った方がいいかな? アウトサイダー。ボクはね、実のところ友達からのお願いってやつが大好きなのさ」

「テ、テレプシコーラ、きみ……」

 そうだ、彼女はぼくのことなんてお見通しなのだった。それは多分、彼女が神さまだから……ではないのだけれど。

「―そうだよ、テレプシコーラ。この勇敢なる電子言語の空薬莢を、一つ。ぼくに譲ってくれないかい?」

 テレプシコーラは、神さまは、きゅっと目を弓なりに曲げて笑った。

「ああ、もちろんだとも!」

 なんてかわいい、ぼくの神さま。手渡された空薬莢を、ぼくはぎゅっと握りしめた。

 路地裏からの帰り道。ぼくは自分のポケットの中で跳ねる空薬莢を感じながら歩いていた。彼女は確かにぼくの神さまだ。欠片をもらうたび、そう思う。かわいいかわいい、ぼくの神さま。

 ―だけど。

 ぼくは知っている。あの世界の欠片たちの山の中に、ぼくと同じ学校の制服があることを。眠ってしまったテレプシコーラにかけてあげる毛布を探していた時、崩れた山の一番下にあったそれを、見てしまったんだ。

 ねえテレプシコーラ、きみ自身にどんな物語があったとしても、きみはぼくの神さまだ。ぼくの世界は、テレプシコーラによって捲られ、色を変える。だから―

 ぼくはポケットの布越しに、彼女の世界の欠片をふたたび、握りしめた。見上げた空には、もう星が出ている。

 テレプシコーラ、きみにはどう見えているの?

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