ある魔法使いの日常

神納木 ミナミ

第1話 喫茶店で……

「突然だが、俺は魔法使いなんだ・・・・・・まぁ、聞け。座れ」


 魔法使いの中年男性は座席を離れて、立ち去ろうとするエメルを急いで止めた。彼女は嫌悪の表情を作り、男を見下ろしていた。男の縮れた顎髭は喉元まで伸びており、まるで仙人のようだった。紺色の和服が洋風の店内で、浮いて見えた。彼は羽織っていた茶色のロングコートを畳んで膝の上に置いていた。


「困るんですよね、今日これから待ち合わせしてる人がいるんだけど」

「そいつが来るまで付き合えよ。暇なんだ、俺」


 エメルは深い溜め息をついた。喫茶店の中は満員だった。カップルや老夫婦、子供連れの主婦のグループなどは話に夢中で、時折楽しげな笑い声が聞こえてくる。壁沿いのカウンター席では静かに読書に没頭したり、パソコンで作業に励んでいるシングル客が横に列をなしていた。唯一、彼女のいるテーブルの向かいに無人の座席が一つ残されていた。エメルは店員に「相席よろしいですか?」と聞かれ、「十分なら」と答えたのが失敗だった。


 エメルが注文した珈琲が運ばれてきた。魔法使いの男は店員に礼を言うと、我が物のように珈琲カップを掴み取り、そのまま口へと運んだ。エメルが呆気に取られていると、僅かに飲み残しの珈琲が入ったカップをスライドさせ、それはエメルの目の前でピタリと止まった。


「俺の奢りだ、飲め・・・・・・待て待て待て」


 エメルは席を立ち、早足で去ろうとしたが、魔法使いが彼女の手首を握る動作が一瞬、早かった。


「・・・・・・気持ち悪いよ、お前」

「ちょっと、やってみたかったんだよ、昔のドラマで流行ったんだよ、こういうの」

「手を離せッ!」


 魔法使いは、エメルを観察している。肩口までのしなやかで艶のある黒髪、細面の顔に筋の通った綺麗な形の鼻、少し吊り上がった緑色の両目は、醜悪な者に対する敵意の眼差しを魔法使いへと向けていた。



「お嬢ちゃんの瞳、緑色なんだねぇ・・・・・・」

「それが、どうした」


 木製の仕切りの向こうで、子供の鳴き声がした。大きな声で、エメルの耳元で泣き叫んでいるような錯覚に囚われた。思わず身を反らせたが、彼女は壁際にいて、通路を挟んだ隣の席では陰気な顔をした老夫婦が、黙々とケーキを口に運んでいる。魔法使いがククク、と喉の奥で不気味な笑い声を上げた。


「この店の雰囲気が、お嬢ちゃんの心象風景だと言ったら、あんた信じるかい?」

「何?」


 魔法使いは、感情の消えた瞳でエメルを静かに見つめていた。表情の豹変とは恐ろしいもので、陽気に馬鹿をやっていた時と、今の魔法使いのギャップがエメルを不安にさせた。彼女が周囲の様子を探ると、先ほどまで楽しげに談笑していた主婦達は睨み合い、カップルは険悪なムードで二人とも下を向いて空になったグラスから伸びるストローを噛んでいた。


「魔法をかけたのさ」

「・・・・・・バカバカしい」


 エメルは魔法使いに捕まれていた手首をふりほどき、店の外へと出ようとした。すると、


「逃げられないよ」


 魔法使いがつぶやいた。


 エメルは通路を歩いている途中で、走り込んできた店員とぶつかった。その拍子に、店員がトレイに乗せていた珈琲カップが床に落ち、派手に音をたてて割れた。


「お客さん、こんなところでウロウロしないで下さいよ!! あ~あ、せっかく作ったブルーマウンテンが・・・・・・」

「おい! 俺の頼んだ珈琲まだか?」

 店の奥から、男の怒声が飛んだ。エメルの位置から顔は見えなかったが、相当な剣幕なのは声で想像できた。店員はエメルを睨みつけた。


「ウチのブルーマウンテン、特殊な製法で作るのに十分以上かかるんです。あなたのせいで、またお客様を待たせなきゃいけない、割れたカップも弁償してくださいよ、逃げないで下さいね!!」


 エメルが困惑気味に辺りを見回すと、店内の客の視線が自分へ集中している事に気づいた。彼女の視線に気づくと、彼らは元の姿勢へと戻った。仕方なく、魔法使いのいる席へと帰る。


「逃げられないと言っただろ?」

「・・・・・・偶然だ。初めてだがあり得ない話じゃない」

「なら、もう一度試してみたらいい。次に何が起こるか楽しみだね」


 エメルは魔法使いを睨みつけた。理屈では飲み込めないが、感覚が魔法使いの存在を認めてしまっている。不安につけ込んで物を売る詐欺師の手口があり、それと似た手法で不可思議な現象を信じ込ませる事も疑ったが、それにしては偶然にすぎる。そして、その出来事に関して魔法使いはそれを予見していたかのように、悠々と振る舞っている。


「アンタが魔法使いだとして、だ。何故私の所へ来る?」

「お嬢ちゃんも魔法使いだろ? 知らないフリをしても無駄だよ、瞳の色で分かるんだ」


 エメルはまた大きく溜め息をついた。今度は先ほどの溜め息とは意味が異なっていた。


「私も魔法使いだとして、だ。何故私の所へ来る?」

「単純な話、どちらが術師として腕が良いのか試して見たかったのさ」

「私の魔法は、人を操ってどーのこーのという類のものではないよ」


 エメルは身体に魔法の力を循環させる。握り拳を作る時、その動作に必要な筋肉が動き、力が入る。魔法を使うのは、それと同じような感覚だ。彼女の魔法は己の肉体と、脳を通して五感を強化し、超人的な力を発揮する事だった。

 エメルは強化した腕の動きにより可能になった、居合いの初太刀を抜くよりも早い動作で、小型の銃、デリンジャーを袖から露出させ、魔法使いの首筋へと押しつけたつもりだった。


「こんなものを子供に向けるのは良くないよ」

「な・・・・・・」


 エメルが突き出したデリンジャーの銃口は子供のほっぺたの肉に吸い込まれるように刺さっていた。急いで、銃を袖にしまい直す。子供の純真無垢な上目使いは、エメルの心に罪悪感をもたらした。魔法使いの膝に腰掛けていた子供は、どこかへとかけていった。


「危ないモノ持ってるねぇ」

「悪趣味なヤツ・・・・・・子供を盾にするなんて」

「言ったろ、君の心象風景だって。君は俺を悪趣味で最低な男だと思いこんでるから、現実にそうなっちゃうんだ、この店内は。そういう魔法なんだよ」

「私の他者評価や感情が引き金になる、と」

「そう、それが俺の都合の良いように動くんだ」


 魔法使いは嫌らしい笑みを浮かべてニタニタしている。


「お嬢ちゃんが、私を愛せば状況は少しは変わるかもねぇ」


「いや、その必要はないようだ」


 エメルは左手の腕時計を眺めた。魔法使いは怪訝な顔つきで彼女を凝視し、やがて何かに思い当たるようにハッとした表情になり、次には苦悶で顔中に皺を作るに至った。魔法使いの腕をスーツ姿の男がねじ上げていた。


「私じゃなく、第三者の誰かがアンタを攻撃したらそれでいいんだ。私はアンタを可哀想に思ってる、本当に。これから連れて行かれる先でどんな酷い目に合うんだろう、って。『アンタに寄り添った感情を抱いているよ』。言っただろ、人と待ち合わせしてるって」


 腕をねじ上げられ捕まれた魔法使いは、そのままスーツの男に連れて行かれた。エメルは店員を呼び止めもう一杯、珈琲を頼んだ。


「私にもブルーマウンテンを一つもらえますか? さっきはごめんなさい、割れたカップは弁償するから」


「え? カップって何の事です? ブルーマウンテンはお時間かかりますがよろしいでしょうか?」


 エメルは割れたカップの件を改めて詫びたが、店員の記憶には残っていなかったようで、不思議そうに首を傾げていた。怒鳴り声を上げていた男が、二分前に割れたはずの珈琲の味に舌鼓を打っている。先ほどの光景は幻影だったのだ。

 店員の愛想の良い接客と、元気な声がエメルの落ちた気分を元に戻してくれた。晴れやかな心地は、店の雰囲気を一層明るくエメルの瞳に映し出していた。



 エメルは米国からやってきた、諜報員。

 日本にはまだまだ、秘密がありそうだ。

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