疾風
ネギま馬
凪①
アメリカの心理学者グランヴィル・スタンレー・ホールはこれを「疾風怒濤」と称した。
***
県道330号線に風が吹いていた。風は凍えるように冷えていて、頬を撫でるたびにヒリヒリとした痛みを運んでくる。その冷たい風と横を忙しそうに通り過ぎる車達の吐き出す息をともに吸い込んでしまって、思わず不快感に顔をしかめてしまう。
いつもよりも素早く拍動する心臓とともに呼吸をいつもよりも激しくしながら凪は辟易としていた。木曜日の三時間目と四時間目にまたがって行われる体育の時間、この体育の時間を待ち遠しにしている物好きもいるようだが、その物好きもまた今の時間を憂鬱にしているようだった。
県道330を道並みにずっと走る、持久走の授業。火曜日の体育一コマの時は一時間で4kmを、木曜日の体育二コマの時は8kmを走るという、運動好きも運動嫌いも嫌な思いをしてしまうこの授業、去年は女子も同じメニューを走っていたのだが体調不良者が多数出てしまったということで男子だけがこの地獄のメニューになった。
しばらく走っていると、地面を強く踏みしめて跳躍していた足が嫌だと訴えかけてくるように鉛のような重さと鈍い鈍痛を発した。酸素不足で痺れた脳がうまく考えをまとめてくれない。
それは困ると思い、大きく息を吸い込んで見るもその状況は変わることはなく、その状況もまた凪を憂鬱させてしまうのだ。
別に歩いても時間内に戻ってこればいいのだが、凪には走り続けなければ、走らねばならぬ理由というものがある。
彼女の仏頂面を殺してやるのだと、凪は息巻いていた。彼女の能面な仏頂面を殺して血の滴るような赤い表情にしてやるのだ。殺す武器はどうしようかと考えていた、長距離からあいつの頭を撃ち抜くような拳銃がいいのか、それとも至近距離で油断しているあいつの胸を突き刺すような鋭く尖ったナイフがいいのか。そればかりを考えようとしていたのだが、こればかりは長距離という体育の授業を忌むように呪った。
やがて走り続けて2kmの地点を通り過ぎた。こんなにきつくてまだ2kmなのかと正直、心が折れかける。しかし、折れてしまえば彼女を殺すことができないのだと必死に止まりかける足を奮い立たせながらのろまになってしまった足取りで必死に走り続けた。
走ること自体は好きだった。凪自身、小学生の頃から運動クラブに所属して運動場を駆け巡ることを好んでいた物好きの一部であった。理由を聞かれれば「わからない」と即答するしか他ないのだろう。まず、好きなことに理由を求めること自体が愚かなものなのだ。
ただ、高校に入ってずっと続けていたスポーツ、サッカーをやめて見ると、嬉々とした表情で限られた砂地の地面を駆け巡っている自分が愚かに見えてきて、それが嫌で走ることとは疎遠になっていた。
しかし、いざ授業で走って見るととても楽しい、走ることは心地のいいことなのだと再認識させられた。辟易としながらも、心が少し持ち上がるような心地を覚える。きついと思うよりも楽しいのだ。
足が地面を叩き、跳躍し、走り出していく。その足が宙に浮き、また地面に触れた瞬間、その足が根をはるように地面へと沈んでいき自分までもが地球の一部になったような、そんな錯覚をする。右足を振り上げ、地面を叩く。足が地面に張り付く、叩いた振動が地面を潜り、あるところでその振動が跳ね返されまた凪の足裏へと戻ってくる。
新たな発見に心が歓喜でわずかに持ち上がるのが感じられた。
いつの間にか、3km地点をすぎていた。
しかし、歓喜に震えて高揚していた気持ちは不快感の海へと沈んでいく。
喉が渇いた。喉が渇いて、口の粘膜が乾燥し、うまく唾を飲み込めなかった。そのことに強い不快感を感じ、途端に高揚していた気持ちが沈んでいくのを感じた。つい先ほどまで楽だった息が、途端に辛くなって喘ぐように息をしている。その行為でさらに体力が削られるのがわかった。結局はランナーズハイで調子に乗っていただけなのだ。
息をしているのが辛い。足が鈍く、重くなっていく。
もう無理だ、そう心が折れそうになっているのを自覚して、不意に空を見上げてみた。
綺麗だと感じた。
太陽が、笑みと重なる。
空は透き通るような青空色で、とても心地のいい清涼を運んでくれるような、そんな予感がする。そんな青空に浮かんで行くように、惚けてしまい。
足が、止ま。
「走れ!!」
通り過ぎた誰かが言った。もう折り返してきたのか、早いな。なんて安直な驚きを感じなから、自分がいまさっきまでしようとしていた、諦めようとしていたことを大いに恥じた。走り切らなければ彼女への気持ちに、彼女に惚れてしまった自分への気持ちに素直になれるわけがなかった。そもそもこの8kmは願掛けのようなものだった、ただ8kmを走り切れれば彼女に告白を。
だから、自分の決意に嘘はつけないのだ。俺は強情な男だと、内心自分に呆れながら凪は密かに感謝の意味を込めて、思いっきり首をねじり自分とは逆方向へと走り去って行く禿頭に叫んだ。
足は、まだ走っていた。もう、走り切るまでは止まらないのだろうなと実感しながら。
「うっせぇ!! とっくのとっくに走っとるわ!!」
なんてねじ曲がった男なのだろうと自分に呆れる。感謝の言葉をも素直に言えないとは。これでは彼女に自分の本音を伝えられるのかが心配になってくる。
下り坂を降り、4km地点、折り返し地点へとたどり着いた。体育の教師が脱水症状予防のために水分補給の水を用意していた。それをありがたく感じながら、凪は折り返し地点で氷で冷やされた水を飲む。折り返し地点での水分補給なのだからこれは立ち止まったことにはならないはずだ、多分。
冷たく冷やされた水が喉を通り、潤して息が通りやすくなる。一回だけ深呼吸して、重くなったふくらはぎを揉み、足首をぐるりと回した。
気合いを入れるように頬を叩き、自分の決意を再認識する。
8kmを走り終えたら彼女に告白するのだ。告白して、あの仏頂面を殺して、赤面させてやる。返事はどうだっていい。彼女が俺の気持ちを認識してくれればそれだけでいいのだ。受け取って、返してくれればなおよしだが。
右足を大きく振りかざし、走り出す一歩目を踏み出した。地面に一体化するような錯覚を覚える。
残り4km、それを走り終えたら。
いつの間にか彼女への言葉を悩んでいた心は消え去り、ただ自分が思うままに彼女へと話せばいいのだと勝手に結論づけていた。結局はアドリブが一番心に響くものだと考える。
俺が告白したら、彼女はどんな反応をしてくれるだろうか。
いつも通りの無表情か、それとも。
彼女が赤面しながら凪に微笑みかける、そんな表情を想像してしまってほんのりと顔が熱く、火照ってしまうのを感じた。
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