すくえたならしかたない
「しかたない人がうらやましかったんだ」
ゴミ袋にうもれながらギターを抱きしめる。体がぽかぽかしてる。頭はぽやぽやしてる。アルコールが足先から脳のてっぺんまで伝わって、更には鼻にも充満しているらしい。嗅覚がさっぱりバカになってゴミ袋からは心地の匂いが鼻孔をくすぐった。まるで羽毛布団にでもくるまれているような気さえする。羽毛布団なんて上品なものにくるまった経験なんて人生で一度もないけれど。
「なるほどお」
「そうなのかあ」
右耳に男の子の声、左耳から別の男の子の声が響く。彼ら二人は僕と同じくゴミ袋に身を投げ打っていた。正確に言うならゴミ捨て場にだ。どうやらこの見知らぬ通りのゴミ捨て場は治安が大変悪いらしく、まだ深夜だというのに十つの家庭ぐらいの可燃ゴミが置かれている。こういうのって普通朝に出すべきではないのだろうか。それともここは深夜にゴミ収集車がやってくるのか。じゃあ僕らも収集されてしまうのではないか。そんな身の危険を感じる発想が浮かぶものの、動く気にはならない。なぜなら僕と彼らはすっかりしっかり酔っ払っているからだ。
「ケガをしたとか、病気だとか、お金がないだとか、そういうことができない環境だとか、のっぴきならない事情だとか。そういう、どうしようもない理由のある人がうらやましかったんだ。史上最低なのはわかっているんだけど」
「うん」「うん」
同時に返事をしてくる彼らとどういう関係かというと、つい六時間程前に初めて出会った仲だ。居酒屋でひとり酒を喉に押し込んでいたら、男子大学生二人組が隣に座った。僕がギターを傍らに置いていたのに興味を持ったらしく、向こうから声を掛けて来た。最初は適当にかわそうと思ったのに。この子たちと来たらそれはもう口が回りに回って止まる気配が全くない。アベックらしい彼らは時たまイチャコラし始めて心に荒波が立つことはあれど、なんだかんだ僕も話すのが楽しくなって。言うなれば気があってめちゃくちゃに話し込んだ。酒もしこたま進んだ。居酒屋を二件ほどハシゴした。そしていつのまにかやってきた住宅街の治安悪そうなゴミ捨て場に至る。ちなみに今僕の右にいるのがカヤマくん、左にいるのがヒロセくんと言うらしい。
「だって、それはちゃんと理由になるでしょ。できない理由だ。どれだけ努力しても届かないものがある。叶えられない夢がある。だってそれを邪魔するものがあるから」
ふたりが僕の話を聞いてくれているのかわからない。だけどそれでよかった。聞き流してくれたらいい。子守唄にでもしてくれればいい。でも、僕が話すたびに両隣から「うん」と答えが聞こえる。そのたびに僕はギターを強く抱きしめる。
「何度も歌った。何度も曲を紡いだ。何度も歌詞を綴った。努力と呼ばれるものをした。そうすれば、世界中の誰かがそうしているように、僕も好きなことを仕事にできると思ったんだ。好きなことだけで生きていけると思ったんだ」
「うん」「うん」
だけどとっくにメジャーデビューして全国ライブツアーだってしているつもりだった三十歳になっても、僕はまだCDショップでアルバイトをしている。常連になったライブハウスはいつまで経っても満員御礼にならない。どれだけ走ってもあがいても息を切らして喉をえぐって声を上げても、描いた夢は空き缶ほどの現実に昇華されない。
「しかたない、って言われたかった」
たくさん努力した結果がそれなんだから。誰よりもがんばってそうだったんだから。それでも才能あるがある人には届かないものなんだから。だから。だから。
「でも、そうじゃない」
そうじゃなかったんだ、と僕は繰り返す。
「もっと、賢いやり方があったはずなんだ。ちゃんとできたはずなんだ。正しく努力していれば。もっとがんばっていれば。他の方法や妥協案だってあったかもしれない。だけど僕はそれを選ばなかった」
「うん」「うん」
毎日音楽の勉強をして、歌とギターの練習をして、流行りの歌もちゃんとチェックして。みんなに喜んでもらえる歌を作って。少ない給料で食いつないで、食費も人付き合いも生活費も節約して。でも、他の人は僕以上に努力していたのかもしれない。それよりも人脈を広げるべきだったのかもしれない。周りに合わせるんじゃなくて、自分の好きな曲を作り続けるべきだったのかもしれない。夢を追いかける前に、見切りをつけて走るのをやめるべきだったのかもしれない。その選択ができたのに、僕はしなかった。気づけなかった。気づかなかった。見ないふりをした。
「僕は、ちっともしかたなくなかった」
ただ、まちがえつづけただけで。失敗しつづけただけで。
「僕がやめなければいけない理由なんて、どこにもなかった」
今僕が夢をあきらめる理由も、障害も、何もない。
がんばることができる。走り続けることができる。選ぶことができる。
だから、
「今日、僕がやめる」
確認するように。ダメ押しするように。言い聞かせるように。
「僕が、僕の夢をあきらめる」
他の誰かに終わらせられるんじゃない。やめなければいけないんじゃない。
ただ僕が、もう、くるしいのがイヤになったから。
届かない好きを、嫌いになるのが怖くなったから。
苦しみ続けるのを、あきらめたくなったから。
うん、と返事はなかった。寝てしまったかと思ってふたりを交互に見る。すると、合計四つの目が僕をしっかりと見つめていた。酔いが醒めたんだろうか。僕がつまらない話で醒まさせてしまったんだろうか。
「タナカくん」
カヤマくんが僕を呼ぶ。「はい」と僕は答える。
「とても残念なお話なんだけれど」
「うん」
「僕とヒロセくんは酔っ払っても最初から今まで激しく冷静沈着であるように見えるかと思うのですが」
「いや別にそうは見えてないけど。店でも道でもゲラゲラ笑ってたし」
僕の返事を気にせず言葉を続けるようにヒロセくんが言う。
「残念ながら僕らは酔っ払ってから寝ると、その間の記憶をすべて失ってしまうのです」
「ああ、そういうタイプなんだ。酔い方まで同じなんて仲良しだね」
「だから、」
置いてけぼりにされた柴犬みたいな顔をうつむかせて、カヤマくんが言う。
「タナカくんが話してくれた大切なことも、忘れてしまう」
ごめんね、とふたりの言葉が重なる。
「僕らだから話してくれたんだろうに」
ゴミ袋から起き上がる。抱きしめていたギターをゴミ袋に置く。「え」と二人が声を上げる。
「捨てちゃうのギター」
「そうだよカヤマくん」
「もったいないよタナカくん」
「でも僕にはもういらないものなんだよヒロセくん」
じゃあ、と言ったのはどっちが先だっただろう。その続きを先に行ったのはヒロセくんだ。
「僕たちが買う」
思わず瞬いた。瞬くという行為を自覚することなんて、なかなかないと思う。カヤマくんも「なるほど」と言わんばかりに自分の拳を手の平にポンと叩いた。どの辺が「なるほど」?
「もらうのは忍びないから買わせてもらうというわけだねヒロセくん」
「その通りだよカヤマくんさすが俺の考えをいつだって察してくれる」
「ふふひ」
「んふふ」
「急にイチャつかれましても」
僕のツッコミが聞こえているのかいないのか、二人はケツポケットから財布を取り出して中身を確認している。……よく道中落とさなかったな。無駄に安心していると、二人は遊んでもらえないポメラニアンみたいな顔をし始めた。
「どうしたの二人とも」黙って財布の中身を見せられる。カヤマくんが五百五十円。ヒロセくんが四百五十円。
「うわあ」
「飲み代でほぼほぼ使い果たしてしまい……」
「だってタナカくんと飲むの楽しかったから……」
しょぼしょぼしてる二人を見て、瞬いて。自然と、僕は頬を緩ませていた。
二人の財布から合計千円を頂戴する。小銭を握りしめ、ギターから手を離す。
「ご購入ありがとうございました」
「え、でも」
でも、と二人の声が重なる。覆いかぶせるように言う。
「きみたちが買ってくれるなら、これほど光栄なことはない」
ちゃんとまっすぐに言えただろうか。この言葉はうそにならないだろうか。ヒロセくんとカヤマくんが僕を見て、ギターを見て、ふたりの手がギターを撫でる。
「すこぶる大切にするよ」カヤマくんが言う。「はちゃめちゃに大事にする」ヒロセくんが言う。「邪魔になったら捨ててくれていいよ」僕が言う。「そんなことしない。なんだったらこのギターで一人くらい誰かを救えるかもしれないし」とカヤマくん。「そうなの?」と僕。「なんたって世界を救える仲だから」とヒロセくん。「そうそう」とカヤマくん。「それは」すごいね、と僕は言えなかった。僕もね、音楽で世界を救いたかったよ。そんなこと一度も思ったことないけれど。
アルコールの醒めた体を起こす。ゴミ捨て場から立ち上がる。くすぶったにおいが、鼻の奥をつんとさせる。
「僕、帰るよ。家まで送らなくて大丈夫?」
「うん。僕もカヤマくんも家近くだから」
「そっか」
ヒロセくんがそう言ったとしても本当なら送るべきだろうに、僕はこれ以上彼らに情けない姿を見せないという理由で去ろうとしている。本当にだめな大人だと思う。あ、とカヤマくんが気づく。
「連絡先交換してない」
「やめておこう」
財布を入れていた方とは別のケツポケットから携帯を取り出そうとする二人を止める。
「忘れてくれるなら、次はもっとマシな僕と初めましてをしてほしい」
「詩的だ」「詩的だ」
いつもなら小馬鹿にされているように感じるかもしれないその反応が、なぜこのふたりだと平気なんだろう。あっけらかんとした素直さほど、抱きしめたくなるほどやわらかいものはないのかもしれない。
「タナカくん」
カヤマくんが僕を呼ぶ。生返事をする。
「後悔しない?」
ヒロセくんが言う。僕は少し黙る。
口を開いて紡ぐ。
「『絶対後悔しない』なんて言うやつは、選ばなかった道の希望を見るのが怖いだけだよ」
歩き出す。振り返らない。
住宅街の角を曲がる。振り返る。
誰も追いかけてこない。
情けないなあ。自分にわらう。わらえないくらい、情けなくて甘ったれだ。
歩き出す。
深夜の住宅街は静かで。さっきまで寝転がって見上げていたはずの夜空に星がひとつもないとようやく気づく。薄い雲に覆われているようで、ただただ暗く、きれいでもなんでもない。
息を吐く。ふるえている。空っぽの手を所在なさげに握る。
喉で嗤っちゃうくらい。鼻息が出るくらい。泣きたいくらい、本当はわかってる。
ケガをしたとか、病気だとか、お金がないだとか、そういうことができない環境だとか、のっぴきならない事情だとか。もしそんなことがあったとしても、どうにかする方法はどこかにあるかもしれなくて。それを考えることをあきらめてしまうから、見つけられないだけで。吐いてでも這いずってでもプライとかなぐり捨ててでもあがきつづければ、ひとかけらぐらいは何かをつかめるかもしれない小さな可能性を見続けるのは、死んでしまうことより苦しいだけで。
だから。それはすごく残念で悲しいなことだけれど。
「しかたないことなんて、世界中のどこにもない」
でも、もし。
もし渡したギターを、彼らがせいいっぱい練習してくれたなら。だけどFコードにつまづいて挫折して、たとえば彼らの友人にギターが押しつけられて。でもその友人がFコードを弾けるようになって、路上ライブなんて始めて、そこで口ずさんだ歌で、たとえば、世界中の誰かひとりくらい、救われることがあったりしたら。
そんな物語のひとかけらに、もし僕がなれたなら。
僕がこの道を歩いてきたのも、しかたないって思える気がして。
ギターを背負わない身体で歩くのは、空でも飛べそうなくらいどうしようもなく軽かった。
i 笹川チエ @tie_sskw
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