caffe latte

 色違いのペアカップ。

 使い慣れてきたダブルベッド。

 コーヒーに入れる砂糖は二杯。

 平日はジャムをかけたパンケーキ。

 休日には、メイプルシロップをかけたフレンチトースト。

 私の朝は、コーヒーとパンと甘い匂いから始まる。



◆ ◇ ◆



 アラームのない生活を今まで考えたことがなかった。あの目元に響く目覚ましがないと、私は朝に打ち勝てない人間だと思っていた。けれど今は、パンケーキを焼く音と、やさしく甘い匂いでまず瞼が開く。ぐうと空腹を訴える胃が私を布団から引っ張り出そうとする。出そうとする、のであって、すぐには出してくれないけれど。私にとっては大きな進歩だ。大きな手が私の頭を撫でてくれるくらい。……手?


「おはよう」

「……!」


 すっかり聞き慣れたはずなのに、心臓は慣れてくれない声。


「え、わ、あっ」


 進歩したと言ったばかりなのにもしや寝坊したのかと、慌てて上半身を起こす。「わた、」私寝坊した? と聞こうとして、なぜか大きな身体が覆いかぶさってきた。


「ぶわ」


 ベッドに再ダイブすることになる。そしてやわらかいものが額、目蓋、ほっぺに落ちてくる。「え、うあ、ええ?」軽くパニックになりつつされるがままでいると、しばらくして満足した顔をしながら彼は離れた。


「おはよう」

「……お、おはよう……あの、今のはどうして」

「慌てた顔がかわいかったから」

「…………」

「おはよう」


 とりあえず改めて上半身を起こす。やさしい笑みと声から、熱い頬を隠すようにお辞儀する。


「……おはようございます……」


 少し特別な、いつも通りの、彼との朝。



 平日の朝食はいつも彼が作る。ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーにふんわりぶ厚いパンケーキ。きらきらとまるで輝いているようなメイプルシロップ。そんな完璧なメニューが彼の席に並べられる。

 私にも同じものが用意されているけれど、彼のと比べてパンケーキは小さめで、カフェオレのミルクも控えめにしてくれているし、メイプルはバターと苺ジャムだ。この部屋の冷蔵庫には、苺ジャムの他にもブルーベリージャム、りんごジャム、オレンジのマーマレードなど、さまざまな種類のものが置かれている。


「いただきます」

「いただきます」


 彼はスーツのまま、私は寝巻きのまま、すばらしいモーニングに合唱。

 ナイフで一口サイズに切ったパンケーキにバターとジャムをたっぷり載せてからフォークを差す。ゆっくりと口の中に持っていくと、すぐに甘くとろける香りが広がる。じっくり、そのとびきりやわらかな香りを味わう。


「おいしい」


 毎日そんな単純なことしか言えない私に、「うん」と少し微笑いながら、彼はうなずいてくれる。きっと私の顔がほっぺが落ちそうなくらいとろけているから、私のとびきりの気持ちも伝わっているんだ。

 彼も自分のパンケーキも口に運び、丁寧に咀嚼してから満足そうにまた「うん」とうなずいた。彼はとても甘党だ。私も甘いものは大好きだけど、この人には恐れ入る。たぶんその気になれば砂糖だけを美味しくいただける人。身体が大きく髪を黒く短くカットしたスポーツマン体型で事実運動も得意で、寡黙て冷静でブラックコーヒーをいつも飲んでいるように見えるのに、彼は苦味をにくみ甘味をあいしてる。

 ぼおっと彼を眺めてしまっていると、「あ」と彼は壁にかけた時計を見上げた。


「そろそろ出る」

「あ、うん」


 彼はカフェオレを飲み干して、「ごちそうさま」といつのまにか綺麗に無くなったお皿とカップを片付けようとする。今日は彼がいつもより早く会社に行かなければいけない日らしい。だから目覚ましが鳴る前に起きて朝食を作っていたのだ。私に気をつかってアラームを早めず気合で起きるところにまた恐れ入る。


「私片付けとくよ」

「ありがとう」


 食器を置いてハンガーにかけていた上着を羽織り、真っ黒なビジネスバッグを持って玄関に向かう彼の姿を見てようやく気づいた。

 ネクタイをしていない。見ればさっきのハンガーと同じところにかかっていた。慌てて玄関まで持っていく。


「どうした」

「ネクタイいいの?」


 はい、と差し出すと、彼は受け取らなかった。なぜか沈黙が下りる。彼はシャツの襟を広げて、「ん」と棒立ちした。「え」「ん」


「……わ、私上手じゃないよ」

「時間が」

「ううう」


 もしかしてわざと忘れたのかもしれない。強く断る理由もないので、彼の襟元にネクタイをかける。

 じっと突き刺さる視線を気にしないふりをしつつ、ネクタイを結ぶ。久しぶりにするから、やり方を忘れてしまったかもしれないと不安だったけど何とか崩れずに出来た。

 やったと思って彼を見上げようとして、当然のように彼の顔がすぐ目の前にある。あっと思うのと同じタイミングで、抱きしめられた。


「わ」


 これはもしや、と思ったときにはもう遅い。おでこに柔らかい感触が下りて、目蓋、鼻、ほっぺ、そして、くちびるに触れる。甘いコーヒーの味が重なる。


「いってきますのちゅー」

「うっ」


 大きい身体と低い地声をしてそんなことをさらっと言うこの人に、私の頬は一体いつ慣れてくれるんだろう。赤くなる頬を抑えたくてもまたぎゅうぎゅうと抱きしめられてしまう。


「ほ、ほら、早く行かないと」


 ぽんぽん背中を叩くと、彼が私を離してパンケーキを食べたときと同じように満足そうな顔でうなずく。「今日遅番?」と彼が聞くので、うんと返す。


「早く終わったら迎えに行く」

「うん、メールして」


 お互いの手の平を合わせる。ちまっこい手と大きな手。わたしはこの優しくてごつごつした暖かい手がすき。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


 彼の手のように大きく笑うと、彼も応えるように小さく笑ってくれる。惜しみながら手を離して、彼は仕事に出かける。ゆっくり扉が閉まって、足音が遠ざかるのを聞いている。

 聞こえなくなってから、私は伸びをしテーブルに戻った。私のパンケーキとカフェオレはまだ半分残ってる。仕事まであと二時間。彼の食器を洗面台に持っていき水に浸からせてから、私は自分の椅子に座る。


「いただきます」


 改めて合掌。少し冷めたパンケーキは、また違った香りを広げてくれる。 静かで、穏やかで、彼の香りが残るとてもいとしい、ぜいたくな時間。

やさしい味を、私はゆっくり、ゆっくり咀嚼する。


 出会って三年。

 手をつないで二年。

 同じ部屋になって一年。

 彼のいる時間が、さらさらと、まっしろな砂糖が、あるべき場所にいくように。

 私のすべてに、溶けていく。



◆ ◇ ◆



「へー、同棲して一年目ですか。カレシさんと」


 感心するような声を出しながら、柿本くんは出来たてのカフェラテにミルクピッチャーを差した。最初の頃は決闘でもするような面持ちで挑み見事ぐにゃぐにゃの物悲しいハートが出来ていたものだけれど、今では簡単なものなら世間話をしながらでも出来るようになっている。

 すいすい、という風に流れて描かれるのが好きだ。自分でやるのも好きだけど、人がしているのはじっと見入ってしまう。


「あ、そだ、新しいの出来るようになったんですよ」


 柿本くんは得意げに言うものだから、私は身を乗り出しそうなくらい覗き込む。慣れた手つきで描かれたそれは、機嫌悪そうにブスッとしたデフォルメの猫の顔だった。


「か、かわいくない」

「ブサカワっす」

「ブチャカワかあ」

「お、いいっすね。『ブチャカワ』」


 けらけらと笑って、柿本くんがブチャカワな猫をテーブルに運ぶ。「お待たせしましたー、ブチャカワにゃんこ風カフェラテでーす」ホールからおどけた声と、きゃっきゃとはしゃぐ可愛らしい女の子たちの声が聞こえてきた。


「あれ俺が教えたんですよ、ブサイク猫」


 外の水遣りを終えたらしい野々坂くんは、ちょっと不満そうに誰もいないカウンターに背を預けた。ランチタイムを過ぎると、お客さんは少なめになる。今もテーブルに座るお客さんが半分ぐらいなだけだ。


「ブチャカワにゃんこ、可愛いね」

「ブチャカワ?」

「ブチャイクって言った方が世の中が平和になる気がしない?」


 表情だけでよくわからんと伝えられた。野々坂くんはストレートで気持ちがいい。

ここはとあるカフェで、私が働いている場所だ。専門学校に通って調理師免許を取り、小さな頃からずっと大好きだったこの場所に勤めることができている。

 私が入って少し成長できてからは、仕事を幾分か任させることも多くなった。マスターからは「私がお婆さんになったら、あなたに継がせてもいいわねえ」と笑って言ってくれている。お世辞だとわかっていても、それはとても嬉しいこと。今日も店長は用事があるらしく、午後からは私が料理を全て担当している。


「手も空いたし、私たちも何か飲みましょうか」

「あ、俺、先輩のロイヤルミルクティー飲みたいっす」

「ぜいたく言うなよ……」

「ふふん。今日の私は機嫌がいいので、特別に淹れてあげましょう」


 店長には内緒、と指を口に当てる。きっとバレても全然いいよおって笑ってくれるとは思うけど。柿本くんが「やったー」と笑い、野々坂くんが「先輩こいつを甘やかしすぎです」と呆れた顔をする。

 柿本くんと野々坂くんは大学三年生で、同じ大学に通っているらしい。数か月前に入ってきたアルバイトの彼らと、親しくなるのに時間はかからなかった。高校が私と同じところとわかると、彼らは私を「先輩」と呼ぶようになるのもそう。実質四、五歳しか違わないし、むしろそのおかげで彼らと気楽に喋れているように思える。

 ミルクを鍋に入れて火をかけ、カップに入れた紅茶の茶葉に、浸すくらいにお湯を入れた。のんびり手間をかけていられる時間は至福のときだ。


「おい野々坂知ってたか。先輩、カレシと同棲して一年なんだと」

「へえ」


 珍しく興味ありげに野々坂くんが私を見た。なんだか恥ずかしくなって俯いてしまう。


「そ、そんなに変なことかな」

「変とかじゃなくて、いいなーってことです。こんな可愛らしい人と狭い空間でふたりきり」

「ううう」

「からかいすぎ」


 野々坂くんのチョップが柿本くんの後頭部に突き刺さる。熱くなりそうな頬をなんとか沈めさせたい。


「つーかお前の方が同棲時期は長いだろ」

「あー、まあ。俺三年目だし」

「えっ」


 柿本くんの同棲事実が初耳だった私はまじまじと彼を見つめてしまう。


「知らなかった」

「コイバナする機会なかったですもんね。野々坂もする?」

「しない」

「先輩、二年目は結構いろいろありますから気をつけてくださいね」

「え、い、いろいろ? 例えば?」

「喧嘩とかぶつかり合いとか喧嘩とか」

「喧嘩したんだ……」


 ミルクが沸騰直前まで暖かくなったので火を止めてカップに入れた茶葉を入れる。丁寧に混ぜて蓋をし、三分待つ。


「でも話聞いてる感じ、そんな心配する必要もないんですかね」

「う、ううん、どうかな」

「今日も迎えに来てくれるって話だし、ちょー愛されてますね先輩」

「う」

「愛され彼女ですね先輩」

「うう」

「ねえねえ、何で付き合うことになったんすか。なれそめ聞かせてくださいよお先輩」

「い今は仕事中です」

「それ今更ですよ先輩」


 容赦ない若者たちの突撃に心臓がややへたれ始めてきた。いつになったら私の心臓は強く凛々しくなってくれるんだろう。


「も、もう、そんなこと言うんだったら……」


 それでも反撃しようとした前に、からんからんとドアにかけたベルが鳴る。お客様が来たのだ。これまた可愛らしい女性が三人。「いらっしゃいませ」みっつ声が重なって、真っ先に柿本くんがお水を持ってホールに行く。そこで三分経った。鍋を開けた途端、ミルクに溶けた紅茶の、まるで花のように広がる香り。私も野々坂くんも綻ぶ頬を抑え切れそうにない、とうっとりしていたところ。


「ロイヤルミルクティー三つで」


 一瞬にして私たちの笑顔が凍えた。注文を聞いていた柿本くんは固まったままちょっとだけ停止して、「あ、はい、かしこまりましたー」とだけ言い、ふらふらとこちらへ戻ってくる。私たちだけにしか表情が見えないところになると、柿本くんはこの世の終わりのような顔をした。


「あ、あのう……」


 恐る恐る何か言おうとする柿本くんに、私はにこりと微笑う。ちょうど入れ終わったロイヤルミルクティー三つを乗せたお盆を、ゆったりとした動作で差し出す。


「おねがいします」


 柿本くんも野々坂くんも泣きそうな顔になった。

 ……もちろんちゃんと、彼らが上がる直前に淹れ直してあげたけれど。



◆ ◇ ◆



 カフェは午後六時に閉まる。戻ってきた店長に鍵を返して、少し世間話をしてから外に出た。柿本くんと野々坂くんは五時上がりだったのだけれど、ロイヤルミルクティーを片手にお客様としてお喋りに付き合ってくれた。


「今日はお客さん少なかったですねー。あ、だからゴチソウいただけたんですけど」

「ごちそうさまでした、先輩」

「いえいえ」


 のんびりできて私もちゃっかり頂いているのだから、お礼を言われる立場じゃない。

 二人と別れようとしたとき、携帯のバイブが鳴った。「あ」すぐにメールを確認。『今店着いた』と件名だけに書かれた文面に顔を上げると、こちらに歩いてくる彼と目があった。きょとんとした目をされる。


「……今メール送った」

「うん、今見た」


 彼は頷いて、ふと柿本くんたちを見た。そういえば初めて会うかもしれない。「アルバイトの人?」と尋ねてくる。


「うん、そう」

「先輩、この人がカレシさんですか」


 しげしげと彼を見上げる柿本くんの首根っこを、「おい」と窘めるようにように野々坂くんが掴んだ。


「かっこいいっすね、カレシさん」

「……別に。それほどでもないけど」

「身体大きいっすね。ガタイいい」

「それほどでもないけど」

「さすが先輩のカレシさん」

「それほどでもあるけど」


 赤面したのは私だけだった。後輩たちの笑い声が頬に沁みる。



 柿本くんたちと別れ、ふたりで帰り道を歩く。


「いい人たちだったでしょ」

「うん、いい人たちだった」


 柿本くんと野々坂くんの話は以前からしていた。そういえば名乗り合うタイミングがなかったので、今度彼の名前を二人に伝えておこうと思う。

 彼らを誉められたことが誇らしくなって、足取りもふわふわと浮いてくる。人通りが少ないのをいいことに、私は歩道に添って並ぶ花壇の塀の上に乗った。やや細いところを両手でバランスを取ってみる。


「危ないよ」

「平気だよ」


 だってほら、こうしてあなたがすぐに手を取ってくれる。子どもみたいだと言う声も、静かで優しいだけ。優しくゆっくり、手を引いてくれる。私はふわふわの足のまま、塀を渡る。


「いいな」

「何が?」

「『先輩』って、俺も呼んでみたかった」

「……そう?」

「うん、先輩」


 ぎゅぎゅっと心臓を鷲掴みにされた。私たちの間で初めて交わされるたった二文字が、どうしてこんなに威力抜群なんだろう。


「先輩」

「う」

「先輩、顔あかい」


 一つだけとはいえ年下の男性にいとも簡単に翻弄されていることも自覚させられるし、良いことがない。心臓にもほとほと悪い。反抗に、口をぎゅっと閉じておく。


「先輩、今日の晩ご飯は何」

「……」

「先輩」

「……」

「ふざけすぎました」

「今日は麻婆豆腐です」


 世界の終わりのような顔を見るのは本日二度目。私の不機嫌はすぐに壊れ、くすくすと笑ってしいまう。「嘘、うそだよ。ほんとはパスタ」彼の顔がパアッと明るくなった。つないだ手をぶらぶらと揺らす。


「スーパー寄る?」

「うん。具なにがいい?」

「カルボナーラ」

「トマト前提で」

「どうして」

「たまには甘いもの以外も必要です」

「……辛くする?」

「しないしない」


 大きな手。季節が移ろい、冷たさが潜めるゆるやかな風。かすかな暗闇に差す真っ赤な日差し。伸びる影。

 帰っても一緒にいるのに。ずっと一緒にいるのに。この時間を惜しむように、ゆっくり、ゆっくり歩く。


「……喧嘩かあ」


 呟くと、彼が首を傾げる。私は「なんでもない」と笑う。

 柿本くんは喧嘩に気をつけろと言っていたけれど。そういえば、彼と喧嘩をしたことがない。してみたいな、と思う。ぶつかりあって、分かり合いたい。苦しいことも楽しいことも共有したい。彼となら、それが出来ると思う。柿本くんだって、きっとそうだ。だから三年目を迎えているんだ。今度そう、話してみよう。


「にやにやしてる」

「えっ」

「何かいいことあった?」

「……うん、あった」

「そう、よかった」

「うん」


―――とても、笑われてしまうかもしれないけれど。

 この道をふたりで歩くたび、私は、彼とこうしていることがとっく昔から決まっていたような気がする。

 糸か何かで私たちは繋がっていて、あたりまえに、自然に、砂糖がコーヒーに溶けていくように。

 私たちは引き合う。

 二度と切れてしまうことはない。


「なんか、」


 彼がぽつりとこぼしたけれど、続きは聞こえなかった。でも、きっと、私と同じことを考えている。

 どこまでもいける。

 なんだってできる。

 この人と手をつないでいるだけで。

 橙から闇に沈む街の色が、私たちの足元にあるだけで。

 私たちは、何もかも手に入れたと。

 心の底から、そう、思う。



◆ ◇ ◆



 夕食はトマトソースの海鮮パスタにした。玉ねぎとジャガイモの入ったコンソメスープも作って、湯気が優しい香りを引き立ててくれている間にテーブルへ持っていく。


「できたよ」


 彼は読んでいた本から顔を上げて、すぐにパスタへ体を向けた。まるで子どものようでつい頬が緩む。

 晩ご飯は基本的に毎日交代で作っている。どっちかの仕事が忙しければ代わることもあるし、その辺は臨機応変に。

 フォークでパスタを巻き取り、先に海老を刺してから口に運ぶ。彼の食べ方はとても丁寧で、一番美味しくなるように食べてくれる。


「……どう?」


 もぐもぐと思案するように俯く彼に聞く。黙ってグッと親指を立てられた。さっそく二口目に取り掛かる姿で満足感に浸りつつ、私も自分の分を食べる。トマトソースもしっかり絡まっているし、今日スーパーで買った海老もぷりぷり。イカも歯ごたえバッチリ。うん、わるくない。全然わるくない。


「仕事は落ち着いた?」

「うん、なんとか」

「よかった」

「だから、明日は休みになった」


 ごくん、と一気にコンソメスープが喉を通り抜けると、肺の中までほかほかにしてくれたように身体が暖かくなってくる。彼の言葉が余計にそうさせる。


「……本当?」

「うん」

「明日って土曜?」

「うん」


 うんって言ってくれたのに、わざわざ振り返ってカレンダーを見る。本当に明日は土曜日。私も仕事は十二時で終わる。だから、久しぶりに休みが重なる。

 彼は広告代理店に勤める会社員だから、基本的に休みが日曜日だけ。かく言う私は飲食店で、土曜日の午後と月曜日が休みになる。お互い帰宅する時間はそれなりに早いけれど、丸一日一緒にいられる時間が滅多にない。 明日だって昼から朝までだけど。だけれども。


「……前見たいって言ってた映画、見に行く?」

「行く」


 即答してぶんぶん頷くと、小さく彼は吹き出した。恥ずかしいけど、彼も嬉しそうに笑ってくれることが、とても嬉しい。パスタもコンソメスープも、さっきよりも美味しく、ほわっとあったかくなっている。今日はわるくない。全然、わるくない日。



 皿洗いは彼、皿拭きは私がする。二人で使うには少し狭いキッチンに、肩を並べて作業するのはほんのり心地が良い。


「そういえば」

「うん?」

「どうして土曜日は午前だけなの」


 喫茶店のことだろう。彼の言葉はときどき少ないけれど、一緒の時間は経験を積み立ててくれる。私は最後の一枚のお皿を拭き終えて、食器棚に直す。


「土曜日の午後は、逢瀬の時間なんだって」

「……逢瀬?」

「うん、店長さんがひっそり逢瀬するんだって」

「……誰と?」

「たぶん旦那さんと」

「結婚してるの」

「……うーん」

「なんで首を傾げるの」

「う、うーん。いつ聞いても笑って誤魔化されちゃって」


 ふうん、と何か考え込むように手を口にあてている。「でもいいね」


「うん?」

「逢瀬」

「……逢瀬したいってこと?」

「なんかいい」

「響きがいいのは分かる」

「先輩と逢瀬したい」


 彼の頭が私の頭に寄せられた。肩や腕もくっつく。


「も、もうそこは引っ張らなくていいんじゃないかな」

「どうして?」

「どうしても」

「あなたと学校生活送ってみたかった」


 私もつい想像してしまう。制服姿の私と彼。セーラー服と学ラン。……学ランだったのかな。卒業アルバムでも見せてもらおうかな。今言うのは恥ずかしいから、今度言ってみよう。


「もっと早く出会っていたらって」


 くっついたまま、オデコとオデコが重なるように頭が動く。「ときどき思う」彼の目が字の如く、私の目の前にある。


「……わたしも、ときどき」

「ほんと?」

「うん、でも」

「……でも?」

「こういう出会い方をするって決まってた気がする」


 きょとんと瞬く、大きな目蓋。


「あのとき出会って、今こうして一緒にいることが」


 口にしてから、今、自分とんでもなく恥ずかしいことを言ったね? ってなった。ぶわっと頬が熱くなって、慌てて彼から離れようとしたけどもう遅い。

 彼の腕が私の背中に回る。ぎゅっと今度は胸とお腹があたる。「まっ」て、なんて言わせてもくれない。やわらかい感触が、私の唇を食む。


「もう大人なのに」


 すっかりホカホカになってる両頬を撫でられた。


「照れ方はいつまで経っても、初々しい高校生みたい」

「き、気にしてるので言わないでほしい」


 自分でもそれなりの大人が、こんなことで沸騰しそうになるなんて呆れてしまう。だけど彼に触れられるたび、触れるたび、熱が私の中をぐるぐる回る。回ってしまう。

「かわいいので、俺は気にしない」抵抗もできないでいると、耳に息がかかった。背中とお腹の真ん中ぐらいに熱がぶわっと集まる。「ちょ」耳をあま噛みされながら、今度こそ言ってみせる。「ちょっと待って」


「うん」

「わたし午前だけ、だけど、明日お仕事で」

「うん」

「今日デザートにプッチンプリンがあって」

「うん」

「あのえっととりあえずコーヒーでも」

「あとで」


 首筋をぱくんと食べられて、反射的に彼の裾を強く握った。ぶわ、わわ、と、自分の中身が焦げてしまいそうなほど熱くなる。はずかしくて、むずがゆくて、はがゆい。逃げ出したくて、離れたくて。奥の底まで落ちてしまいたくて、離れたくない。ほんとうに、まるで初めての恋をするような、この熱は。


「こ、こじゃ」


 それだけで伝わってほしかった。彼は首を傾げて、でもすぐに小さく微笑う。子どもをあやすような表情を見れずに俯く。


「よいしょ」

「わ、」


 突然ぐらりと視界が揺れて、あっというまにお姫様だっこをされてしまった。


「俺はこのままでもよかったのに」

「ぐう」


 動揺しすぎて変な声が出た。彼が笑みを深める。あっという間に寝室までご招待され、まるで割れ物を扱うように、そっとベッドへ下ろされた。


「本当は」


 彼が上からまたがるように乗り、吸い込まれるように目蓋に口づけを受ける。


「せっかくの休みだし、明日いちにちじゅう、ずっとこうしていられたらなって思った」


 いちにちじゅう、の意味をすぐに理解できるほど私はうまくできていない。理解できてもすぐにショートする。


「だ、だから明日はお仕事で」

「うん、だから」


 唇と唇が重なる。スープの同じ香りが混ざる。彼の大きな手が、私の服を掻い潜って、おなかに、触れる。


「今夜だけで、がまんする」


 ぶわ、ふわ、ふつふつ。熱は、ぜんぶを浮かせてしまう。


「……いや?」


 ずるい。ずるがしこい。こんなときにしか滅多に見せない意地悪な笑顔をする。

 少しでも反抗したくて、彼の胸元を掴んで引き寄せた。鼻をやわく噛むと、目が丸くきょとんとして、またすぐに微笑って、ああ反抗にもならないなあって、思って。

 またくちびるを合わせる。肌を合わせる。ベッドに沈んでいく。この熱を、失いたくない。いつか喧嘩をしても、ぶつかりあっても。あなたの作ったごはんを、私の作ったごはんを、ずっと一緒に食べたい。

―――だから。


「……ふふ」

「…………?」

「ううん、なんでも」


 実は私が辛いものが大好きという、ずっと秘密にしてきたことは。

 そろそろ辛い料理を作りたいな、いうことは。

 明日あなたとデートのときに、こっそり言うね。

 ブチャイクな猫を思い出しながら、私は彼にぱくりと食べられていく。

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