心ぜんぶ
恋は下心。愛はまごころ。じゃあ上心はどこ? なんて、子どもみたいな質問に答えてくれる人はいない。恋は下心、愛はまごころ。よく聞くようで口にした人間を見たことはない。やけに語呂が良く、「たしかに」と思わせるような言葉。昨今、その言葉を思い出す機会が多い。
「なんとまあ寝起きが悪い男」
それは俺の元友人と一緒に住み始めてから気づいたことだ。彼の名は谷。高校の入学式のときに出会い、友人になり、恋人前提の友人となり、友人でない恋人となった男。その経緯は、ここで話すには時間が足りないのでひとまず置いておくこととする。
谷という男は授業中よくうたた寝していた俺よりもマトモでしっかりした人間だと思っていたが、大学生となり、同じ部屋に住むようになり、同じベッドで眠るようになってからその印象は変わりつつある。まずはとにかく寝起きが悪い。最初に目を覚ましてから布団を抜け出すのに平均十分はかかる。この平均は俺が一分置きに声を掛け、最終的に布団を引っぺがしたときの平均だ。次に、気づくとやけに和菓子を食べてる。一人で十個入りの饅頭を黙々と食べながら漫画を読んでいるときがあってビビる。そのあと俺が作ったカレーをちゃんと完食するから、太るのかと思いきや太らない。腹に肉はついてない。憎らしい。いつか中年太りが始まったら笑ってやりたい。あとは、そう、びっくりするくらい自分に無頓着。だって自分の誕生日忘れることある? 普通プレゼントとか期待しない? でも谷は忘れる。俺の誕生日は忘れないくせに。なにか重たい背景でもあるのかと考えたときもあったが、おそらくただ、そういう性質なのだと最近は思う。自分に興味がない。でも、自分の周りには興味がある。好きなものは大事にする。生きがいとまではいかなくとも、それが心の拠り所になっている。そういう人間が、案外この世の中にも俺の周りにもいる。
というわけで、そんな男である谷はもうすっかり朝だというのに布団から身体を何一つ出そうとしない。先程からボカスカ叩いているものの、一、二度、もそもそ布団の塊が動くだけ。今日はしぶとい。こっちは顔を洗って服も着替えて手もバッチリ洗ったというのに。布団を引っ張り、どうにか頭だけお目見えすることに成功。するとその目が薄く開き、しかし閉じる。しぶとい。溜息を吐いてから、しゃがみこんでベッドに前からもたれかかる。未だ起きる気配のない男の寝顔を眺める。
布団を剥がされたのが不満なのか、その眉間にはやや皺が寄っている。髪は一昨日切ったばかりでサッパリ気味。ただ、もともと短髪で黒のままだからあまり変わり映えはない。肌は良好。ニキビや出来物は特に見当たらない。健康的でよろしい。その頬に手の甲をそっと当てると、眉間の皺が薄くなった。さっきまで意地でも動かなかったくせに、頬が手の甲へ擦り寄られた。おっ、と思いつつ手の平で撫でてやると、眉間の皺が完全に無くなる。この男は酒を飲んだときと目が覚めていないときだけ甘えてくる。そのことを知ったのも、一緒に住み始めてからしばらく経ってからだ。
高校三年間の大半を共に過ごしてきたのに、大学生になって三年間同じ部屋に住んでいるのに、知らないことがまだまだたくさんある。たとえば高校のときは俺と一緒に登校するためにアラームを五個かけていたこととか。たとえば右側の肩甲骨辺りにホクロがあることとか。そういうのを知るたびに、俺は不思議な気持ちになる。不思議な、という言葉は大変便利だ。曖昧で、ふわふわしてて、形のない。まさしくそんな感情の名前を、誰も教えてくれはしない。
頬に手の平を添えて、親指で鼻先をなぞる。くすぐったいのか、また眉間に皺が寄る。目と目の間にも皺ができて、思わず笑ってしまう。
もし。
もしも、恋がシタゴコロであるならば。
俺のこの男に対するおもいは、恋ではないのだろう。だって俺は彼にシタゴコロを抱いたことがない。これからそういう感情が芽生えるのか、そうじゃないのかもわからない。その事実はこれからも谷を傷つけるし、俺自身も傷つける。
だけど。
「(―――好きだ)」
それなら、このおもいは。
胸の真ん中から広がる、なによりも暖かい感情は。
この頬を、体温を、眼差しを、誰にも渡したくないという願いは。
一体なんて名前をつければいいのだろう。
「たーに」
勿体無さを感じつつ、心を鬼にしてその頬を強めにつまんだ。案外伸びて面白い。再び彼の眉間に皺が寄り、ようやく瞼が少しだけ開く。寝起きのかすれた声が目の前に響く。
「いたい」
「じゃあ起きんしゃい」
「ねむい」
「もう九時ですよ」
「まだ九時……」
「今日一緒に花見行こうって言ったのに」
ぱちぱちと寝ぼけ眼を瞬かせて数秒、ようやく谷はもぞもぞと上半身を起こした。それでもまだ寝足りないのか、瞼が半分しか開いていない。やれやれと肩をすくめつつ俺は立ち上がる。
「せっかくだから弁当作ろうって言ったじゃん覚えてる?」
「……ん」
「さっさと歯磨いて顔洗って来いって。コーヒー淹れといてやるから」
「んん」
「谷ってば」
「かきもと」
「なんですか谷くん」
「柿本ねむい」
「起きろ」
「んんん……」
「あ、ここすげー跳ねてる」
目立たんばかりに寝癖のついた後ろ髪を撫でると、引き寄せられるように谷は寝ぼけ顔を俺の腹に押し付けてきた。今日はやけに素直だ。こういう日がたまにある。そのたまにが、俺はとても嬉しい。
「寝んなよお」
「んん」
「あとでおはようのチューしてやるから」
「……それはどっちでもいい」
「この嘘つきめ」
ぽんぽん頭を撫でてやると、ぐりぐり腹に頭突きされる。くすぐったい。腹も、胸も、こいつに触れる指先も。
好きだ、と、思う。好きだ。好きだ。恥ずかしがり屋なところも。無骨な表情も。言葉を伝えるのが下手なところも。俺を大事にしてくれるところも。俺を好きでいてくれるところも。
もし、お前が許してくれるなら。
俺はこのおもいを恋と呼びたい。やがて胸いっぱいに広がる暖かさも、寂しさも、くやしさも、俺の心ぜんぶ、お前だけにくれてやりたい。大事にしたい。大切にしたい。手離したくない。絶対、諦めたくない。
これから一緒に弁当を作ろう。手を繋いで公園に行こう。桜を見上げながら、作った弁当を食べよう。そう考えるだけで楽しくなる。嬉しくなる。これを恋と呼べないなら、俺は二度と恋をしなくていい。
そんな小っ恥ずかしいこと、こんな朝っぱらお前に話すことは出来ないけれど。
でも、いつかお前に話せるときが来たら。
そのときは。
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