初恋は隣の家のお兄さんだった。

 いつどこで出会ったであるとか、いつどこで恋に落ちたであるとかは覚えていない。覚えているのは、そのお兄さんを見るだけで胸がドキドキしたこと。その音が世界中の何よりもうるさかったこと。頬がカッカと熱くなって、当時小学一年生の俺は、恋だ! 心の中で叫んでいた。恋だ、恋だ! おれはこのひとが好きだ! そんなことばかり考えていたことは、恥ずかしながらよく覚えている。お兄さんの一挙一動が気になって、顔なんていつまでも見ていられて。このひとと結婚できたら、おれはなんと素晴らしい人生を送れるだろうと、きっと送れるに違いないと、なんの根拠もない未来を頭に描いて信じていた。小学一年生の無垢さに免じて、どうかこの愚かしい自分を許してほしい。それにこの恋は、同じ小学一年生のとき、あっという間に終わった。失恋というやつだ。それはまた別の話として置いておく。

 つまり何が言いたいかと言うと、俺にとっての「恋」とはそういう感じのイメージだったということだ。ドキドキする。頬がカッカと熱くなる。恋だ、好きだ、愛してる! 他に何も考えられない! そんな、周りからしてみれば馬鹿みたいな情熱。沸騰。そう、沸騰だ。ぶわっと沸いて、熱くて、手が付けられない。だからもう、高校生になって冷静さを手に入れた俺には、「恋」は縁遠いものになったと思っていた。

 思って、いた。


「……人ん家で寝んなよ」


 ぼそりとぼやいたぐらいで起きる気遣いを、俺の友人は持っていない。人の部屋のベッドを背もたれにし、先ほどまで二人でプレイしていたゲームのコントローラーを持ったまま、その男はうたた寝していた。よくもまあ人がジュースとお菓子を取りに行っている数分の間に眠れるものだ。さっきまで俺に格闘ゲームで連敗して「俺の戦いはこれからだ」等とのたまっていたのに。

 俺の部屋で寝ている男の名は柿本。俺と同じ高校二年生。一年のときは同じクラスだったけど、今年は別のクラス。だけど登下校は一緒。昼休みになると俺のクラスにやってきて、二人で昼飯を食べる。つまり友人の中でも比較的つるむ時間が確実に多いこの友人は、一週間振りに俺の部屋へ来た。今までも少ないなりに友人はいたが、週に一度の頻度で互いの家に遊びに行く仲の友人は、この男が初めてになる。

 蹴って起こそうと思い足を上げたが、薄く開いた口を見つけて思いとどまる。音を立てないようにローテーブルへジュースとお菓子を置き、友人の隣に座った。人ひとり分の距離を空ける。そこから、横目で彼を見る。

 呼吸によって規則的に動く胸。開いた口から洩れる寝息。ウトウトと頭がゆっくり揺れる。高校入学のときに染めたらしい茶髪も小さく揺れる。二週間前、黒髪だったときの写真を見せてもらった。中学生の黒髪の彼は少しおぼこく見えた。今は学ランだから、ブレザー姿が新鮮だった。可愛い、とは、決して口に出さなかった。

 寝顔を見るのは初めてじゃない。授業中も彼は男子高校生らしく頻繁にうたた寝をしていたし、先生によく怒られていた。何故かこの男はその度に俺を見てヘラヘラ笑った。知らんぷりをしたら、授業が終わった後に「なんで無視すんだよお」と決まったように寄って来る。そんな一年生のときのことを、最近よく思い出す。

 秋になって外はすっかり寒いが、部屋の中はそこまで冷えていない。学ランの上着は互いに脱いでいて、今は白のワイシャツだけ。夏に見慣れているというのに、二の腕や腰に集まったワイシャツの皺が、上着を着ているときよりも分かりやすい身体のラインに落ち着かなくなる。そわそわする。足先がかゆくなる。でも、もう一度寝顔に目を向けると、それは不思議と消えていく。

 彼と同じようにベッドに背もたれて、コントローラーを握る。テレビの画面は、キャラクターの選択画面で止まっている。もう一度彼を見る。口が開けた間抜けた寝顔。気の抜けた顔。何度も見ているのに飽きない。何度も気づいているのに、何度も気づく。


「(―――好きだ)」


 ビックリマークは付かない。

 好きだ、好きだ、と、心の中で繰り返してみる。それだけで、手の指先が、足の指先が、胸の後ろ側が、喉の奥が、目の真ん中が、じわじわと温かくなる。

 それに気づいたのがいつだったのか、またもや俺は覚えていない。でも、出会った日は覚えてる。高校の入学式。後ろから声を掛けられた。話をした。握手をした。笑ってくれた。それから、気付けば一緒にいた。たくさん話をした。遊んだ。俺たちは友だちになった。今も友だちだ。

 それなのに、こんな気持ちになる。指先の温かさを知ってる。ひとり分の距離がもどかしくなる。その手に触れたくなる。頬にも、瞼にも、耳にも、口にも。でも、だけど、出来なくてもいい。ここにいられるだけでいい。そんな正反対の気持ちが、胸の中でごちゃ混ぜになる。ぐるぐる混ざって、混ざって、ずっとそのまま。苦しくはない。熱くもない。ぐつぐつしてない。でも、少しだけ、心の端が痛い気がする。

 こんな恋を、俺は知らなかった。

 あたたかくて、ぬるくて、心地良くて、それでも少し寂しいこのおもいを。

 このまま時間が止まってしまえばいいなんて、どうしようもない願いが込み上げることを。

 俺は彼に出会うまで知らなかった。

 そんなこと、俺は誰にも言うことができない。好きだと、彼に伝えることはこれからもないだろう。彼が俺の気持ちに応えられないことは知っている。そういうどうしようもないことが、世の中にはある。人と人が好き同士になることは、ひどく奇跡的なものだと俺は思う。好きになって、好きになってもらって。たとえば、例えばもし、好きな人と手を繋いだり、抱きしめあったり、キスをしたり、一緒に住んだり、眠ったり、結婚なんて、できたりしたら。そんなことが出来てしまったら、俺は涙がこぼれてそのまま枯れ落ちてしまうのではないかと思う。だけどきっと、そんなことは起きない。そんな奇跡は、必死にそれを掴み取ろうとした人だけに違いない。俺には、きっと、そんなことは出来ない。だって、俺は。


「ダチが遊びに来てんのに寝んなよ」


 頬をつねられて意識が目覚めた。気づけば俺もうたた寝していたらしい。

 横を見ると、柿本は未だ俺の頬をつねっていた。その手の振り払いジロリと睨めば、「おお怖」と言いながら身体を離される。すぐに人ひとり分の距離が空く。


「先に寝てたのはお前だ」

「ごめんて。あ、ジュースとお菓子サンキュ」

「ん」

「ほら早くキャラ選べって、お前が普段あんま使ったことないやつ」

「流れるようにハンデを促すな」


 背伸びをしてからコントローラーを握り直す。適当にキャラクターを選ぶと戦闘開始のカウントが始まる。


「谷さあ」


 名前を呼ばれて見やれば、柿本はテレビの方を向いたままだった。特に笑っても怒ってもいない。


「なんか悩んでる?」

「……なんだよ急に」

「なんとなく」

「別になにも」

「えー」

「えーってなんだ」


 テレビ画面に「FIGHT」の文字が表示される。キャラクターが動き出す。


「なんかあるんならオレに言えよ」

「なんで」

「そこで『なんで』って言うなよ寂しいだろ」

「なんで」

「オレは相談したじゃん」


 柿本のキャラクターの攻撃が、俺のキャラクターにヒットする。


「オレの昨今の目標は、お前の好きな子についての相談を受けることだから」

「……『昨今』の使い方間違ってないか、それ」

「そう? あ! カウンター使うなよずるい!」

「うるせえ下手くそ」


 あっという間に連続ヒットで倒すと、「優しさのない男め」と肩を叩かれる。うるせえと叩き返すと、柿本は声を上げて笑った。心臓が動く。時間が止まってしまえばいいと思う。だけどあと少し外が暗くなったら柿本は家に帰るし、二年生の間はクラスが別だし、なにより柿本には今好きな女の子がいる。高校を卒業すれば会う頻度は少なくなるだろう。そうして俺の恋は終わっていくのだろうか。続いていくのだろうか。わからない。わからない、けど、わかっていることはいくつかある。

 ひとつは俺がこの恋を後悔したことは一度もないこと。もうひとつは俺が自分でも不思議なくらいこの柿本という友人が好きであるということ。あともうひとつ、最後。俺はとても臆病で、すこぶる弱虫で。だから多分、もし万が一この男と両思いなんて日が訪れたときには、高校生だろうと、大人になっていようと、俺はぼろぼろと泣いてしまうに違いないということ。

 そんなことを、いつかお前に話せる日が来たら。

 そのときは。

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