ハッピーバースデー(Instrumental)

 ハッピーバースデーが聴こえた。

 最初はふいに耳へやってきたギターの音に顔を上げただけだった。二月八日、夜十一時、会社の最寄駅、出口の近くの歩道。黒い髪に黒いマスク、ネズミ色のパーカーに青のジーパン。高校生ぐらいに見える少年が、その華奢な身体で無骨なギターを抱えていた。マイクやスピーカーを設置する様子もなく、ジャン、ジャン、と数回テストするように適当な音を鳴らしている。その間に誰かも知らぬ数人が立ち止まっていて、そこそこ知られた人なのかな、とは思いつつ、そのまま俺は通り過ぎようとしていた。

 はじめの三小節で、あ、誕生日の歌だ、と気づく。

 ハッピーバースデートゥーユー、ハッピートゥーユー。と、少年は歌わなかった。ただギターでその音を鳴らしているだけだ。俺はギターに詳しくないから何とも言えないが、かき鳴らすというよりは、指で一本一本ギターの弦を鳴らしているように見える。ハッピーバースデートゥーユー、ディア、まで行くと、名前のところはジャラランと鳴らして誤魔化す。そして、締めのハッピーバースデートゥーユー。最後にまた、ジャララン。それが終わると、立ち止まっていた数人がパチパチとまばらな拍手を送った。少年は黙ってギターをケースに直し、逃げるようにそそくさとその場を去って行く。

 その姿が建物の影に消えるのを見送ってから、俺はハッと我に返った。すっかり立ち止まっていた足を動かし、駅の入り口をくぐる。家に着くまでの時間を考えながら、頭の片隅に、いつまでのハッピーバースデーの音が小さく響いている。


***


 翌日の昼休憩のときにその話をすると、会社の後輩から意外な反応が帰ってきた。


「そこそこ有名らしいですよ、最近」


 社内食堂のカツカレーを頬張りながら、後輩は俺にスマートホンを差し出す。画面に映し出された動画には、昨日見た少年が駅前でハッピーバースデーを弾く姿が映されていた。俺は親子丼を口に運びながらそれを眺める。


「その少年がアップしたやつ?」

「観客が勝手に撮ってアップしてるっぽいです」

「最近は何でもネットに上がって怖いな」

「まあでも、再生数二桁も行ってないし」

「それでも有名なのか」

「あの駅周辺では、人伝てに」


 後輩曰く、その少年は最近現れたストリートミュージシャンらしい。といってもそれは名ばかりで、毎回ハッピーバースデーをギターで一回弾いたらすぐに引き上げるとのこと。夜の十一時頃、現れる日はまばら。何かを歌うわけでもなく、特別なギターテクニックを見せるだけでもない。そしていつも黒いマスクにネズミ色のパーカー、青のジーパン。そんな、特別なようで大した印象でもない存在の彼は、居酒屋や残業帰りの人たちの間でそこそこ噂になっているらしい。


「オレ、いつも会社終わったら速攻帰るから見たことないんですよね。先輩なにやってたんですか夜の十一時まで会社の近くで。まさか残業じゃないですよね」

「適当に居酒屋で飲んでた」

「オトナだー」


 齢二十五歳の後輩に尊敬の眼差しを向けられる。今度飲み連れてってくださいよという明らかなオネダリを手で払いつつ、俺はハッピーバースデーの音を思い出している。


「その子は決まった日に弾いてるのか?」

「不定期みたいですよ、噂では」

「どこからそういう噂が流れてくるんだ?」

「人伝てです」


 ふふんと後輩が誇らしげに鼻を高くする。その甘えたな姿勢と、誰もが甘やかしたくなる雰囲気は自覚してやっているものなのだろう。そういう器用さは羨ましい。俺にはまったくもって無いもの。そう伝えると、「先輩はあれですよね」と後輩は人差し指を立てた。


「なんというか、あれです」

「どれだよ」

「先輩って優しいし素直だし話してて楽しいけど」

「けど?」

「誰からも一線、身と心を引いてるタイプ」


 言って、後輩くんはからりと笑った。他の社員なら「なんと失礼な後輩だ」と怒っているところだろう。でも、そういうところも嫌いになれない後輩の性分も、正直に羨ましい。だから頭にゲンコツで済ましてやった。「痛い酷いお詫びに何か奢ってください」とせがまれる。


***


 その夜も一人で居酒屋で飲んで、気づけば夜の十一時になっていた。さて帰るかと駅に行くと、昨日と同じ場所にあの少年がいた。黒いマスク。ネズミ色のパーカー。青のジーパン。後輩が言った通りだ。あの格好、ちょっと怪しまれたりしないのかな。職質とか受けないか変に心配になってしまう。

 俺が通りかかったときにはもう、ハッピーバースデーディア、ジャララン、のところだった。観客は二十代の女性が三人。ハッピーバースデートゥーユー、ジャララン。まばらな拍手。

 そして昨日と同じように、少年はそそくさとギターをケースにしまい始める。それを肩に担いだところで、お、と俺は思う。


「あの、一緒に写真撮ってくれませんか」


 観客の女性三人が、少年に声を掛けたのだ。少年はギョッとした、ように見える。会話が少し聞こえる距離だが、彼の目の動きが細やかに見えるほどでもない。それから二言三言なにかやりとりをしているが、正確には聞こえなかった。でも大体は「いや」「一回だけでいいので」「あの」「自撮り棒あるんでみんな一緒に」「えっと」「とりあえず真ん中に立ってもらって」みたいな感じだ。少年の表情がハッキリ見えずとも、挙動から困っていることは明らかにわかる。

 気づけば、俺は歩き出していた。少年と女性たちの間に割り込むと、双方ギョッと顔をした。少年は背中側にいるから顔は見えないけれど、雰囲気でなんとなく伝わってくる。


「コイツ俺の弟なんで、そういうのやめてもらえますか」


 その言葉を信じたかどうかはわからない。それでいい。大事なのは「なんか面倒だな」と思わせることだ。その感情さえ生まれれば、大抵の人は、大抵のことから引き下がる。

 予想通り、女性たちは不審そうな目をしつつも駅の方へ消えていった。その姿が完全に見えなくなってから、俺は少年へ振り返り、即座に両手を軽く上げた。何もしませんの表明だ。


「ごめん」

「え」


 謝ると、少年は目をきょとんとさせる。


「君が困っているようだったら助けた。余計なお世話だったらごめん。何か要求するとか企んでるとか、そんなんじゃないから」

「……あ、の」

「もう暗いから、帰り気をつけて。それじゃあ」


 あの女性たちと鉢合わせても困るから、また適当に居酒屋でも入ろう。何かを誤魔化すように思案しながら立ち去ろうとしたのに、それは腕を掴まれて実現できなかった。

 驚いて少年の顔を見る。彼は戸惑うように視線を動かしてから、おずおずと黒いマスクを外した。小柄な体型から彼のことを「少年」と呼んでいたけれど、思いのほか顔はあどけなさが無い。青少年ぐらいの顔立ちだ。


「ありがとう、ございました。助かりました」

「あ、そう?」


 こくりと青少年が頷き、その平行線のように頭を下げてくる。わざわざ怪しい男に下げることもないだろうに、丁寧な青少年だ。


「俺のお節介だから、気にしないで。未成年が大人の女性に声が掛けられていることほど、そわそわするものはないから」

「え」

「ん?」


 何故かパチパチと青少年と目が合う。


「未成年じゃないです」

「え」

「今年で、二十二歳になるので」


 二十二歳! 青少年どころか青年であった。てっきり高校生、せめて大学一年生ぐらいだと思っていた。あっというまに少年から青年にレベルアップだ。なんて下らないことを考えつつ、想定より青年が警戒しないのをいいことに、俺は思いつくまま言葉を口にする。


「ちょっとここで待ってて」


 返事を聞かないまま俺は近くの自販機に向かった。硬貨を入れながらどれにしようか悩みつつ、無難にホットの缶コーヒー選ぶ。青年は言われた通り待っていてくれた。早足で戻り、買ったばかりの缶コーヒーを差し出す。


「これ、よかったら」


 青年は戸惑うように俺を見上げた。怪しさが倍増するのはわかっていても、そうせずにはいられない。


「ギター聴かせてもらったお礼」


 言っても、青年はあまり納得した表情を見せなかった。その証拠に小さく首を傾げられてしまう。


「……僕が助けてもらったお礼をするべきでは」

「じゃあ、これを受け取ってくれることがお礼ということで」


 半ば無理やり青年の手に収めると、彼はまた頭を下げた。受け取ってくれるらしい。ほっとしつつ、つい、確認するように尋ねてしまう。


「また聴きに来てもいい?」


 青年が頷くのに、それほど間を置かなかった。思いのほか、そこまで悪い印象ではないらしい。それじゃあ、と俺の方から切り上げて駅の方へ向かう。青年はもう一度頭を下げて、それから駅とは逆方向に歩き出した。この辺りに家があるのだろうか。そんなことを聞く間柄じゃないし、そこまで気になることでもない。俺はいつものように、 駅へ行き、電車に乗り、自分の家へ帰る。

 自分の足取りがどことなく軽いことに気づくのは、自宅のドアを開けたときだった。


***


 これは後輩には内緒にしていることなのだか、それから俺はちょくちょく青年にコーヒーを奢るようになった。毎日というわけではなく、週に一、二度、夜の十一時に駅前でハッピーバースデーを弾く彼を見つけた時だけ。どうやら観客がいるときの方が珍しいらしく、通り過ぎる人たちは青年を見ることはあっても立ち止まることはしない。弾き終わるのを見届けてから、俺は彼に挨拶をしてコーヒーを渡す。

 それから少し雑談をするぐらいだから、青年のことを詳しく知っているわけではない。彼の名前は篠宮くんだということ。ギターを弾くのはそういう気分になったときになった日だけなのだということ。いつもネズミ色のパーカーなのは、普段の服装がダサいと友人に言われるので無地のもので無難に済ませているからなのだということ。マスクをしているのは、以前マスクをつけていないときに「なんか歌え」と酔っ払いに絡まれたことがあるからなのだということ。白のマスクではなく黒である理由は、黒の方がちょっと格好いい気がするからだということぐらいだ。


「ごめんね、いろいろ根掘り葉掘り聞いちゃって」


 謝ると、篠宮くんは静かに首を横に振った。「実は、」そう言って、言葉に迷っているのか、顎にかけたマスクを指でいじる。


「最初は、てっきり警察の人なのかと思いました」

「え、どうして」

「……職質とか、補導的な」

「ああ……」


 確かに彼は一見高校生ぐらいに見えるし、マスクをしていれば中学生に見えなくもない。聞けばそういう経験はないらしいが、一度くらい遭ってしまってもおかしくはないように思う。


「つまらなくありませんか」

「ん?」


 生ぬるいにレベルダウンしているであろう缶コーヒーを手に持ったまま、篠宮くんは俺を見る。


「いつも同じ曲ばかり聴いて。そんな男と話していて」

「俺は楽しいけど」


 けど、と俺はもう一度繰り返す。「もし篠宮くんが俺と話しているのがつまらないなら、申し訳ない」

 しかし篠宮くんはすぐに首を横に振ってくれる。それから口を開いて、なにかを迷うように閉じた。俺が首を傾げると、「実は」とおずおずと切り出される。


「ここでギター弾くの、やめようと思ってて」

「……俺、やっぱり迷惑なことしてた?」


 篠宮くんは再び首を横に振る。


「就活がもうすぐ始まるので、そっちに集中しようかと」

「……あ、そっか」


 その辺のことを聞いていなかったが、篠宮くんは今年で二十二歳、今は三月であることを踏まえると、篠宮くんは大学三年生なのだろう。四月で大学四年生。就職活動が本格的にスタートするわけだ。


「大変だね、就活」

「バイト先の会社に、内々定はもう貰ってるんですけど」

「それはすごい」

「でもせっかくだから、同業の会社のこと勉強してこいって。あと、ちゃんと他の会社も見て働きたい場所を決めた方がいいって」

「いい会社だ」

「いい会社と、いい社員の方に恵まれました」


 そのときの篠宮くんの表情を表すのは少し難しい。柔らかくもあり、小さく微笑んでいるようでもあり、少し困っているようでもあり、申し訳なさそうでもあり。青年なりに、将来のことを悩むことがあるのかもしれない。

「だから」と、そう言って篠宮くんはマスクをまた指でいじり、口元を少し隠す。そこでようやく、あ、と気づく。篠宮くんがギターを弾かなくなるということは、彼と会う機会が無くなるということだ。つまり、もう、こうして話すことも。


「それじゃあ」


 何が「それじゃあ」なのかもわからないまま、俺はそう言っている。篠宮くんが俺を見る。


「一緒に飲みに行かない?」


 すげー雑なナンパですね、と後輩に笑われるかもしれない。俺だって自らこんな誘いをするのは初めてで、無駄に口がもごもごと動いてしまう。出会ったばかりの素性も怪しい男に誘われたって、訝しげにされるだけだろうに。

 しかし、その雑なナンパはなぜか成功してしまった。篠宮くんがこくりと頷いたから。俺はきょとんとして、はっとして、「それじゃあ」と同じ言葉を繰り返す。


「行きつけのところがありますので、そこにでも」

「……どうして敬語なんですか?」

「なんでだろう」


 そこで篠宮くんは小さく笑った、ように見えた。出会ってから初の彼の笑みは、黒いマスクで隠されてしまった。


***


 自分で誘っといてあれだが、二十二歳の青年がこんなに初対面の大人にホイホイついていって良いものなのだろうか。怪しい商品でも売りつけられないか心配になってしまう。

「さすがに誰にでもついていくわけじゃないです」と、居酒屋に入るとマスクを完全に外して篠宮くんは言った。「本当かなあ」と思わず怪しむと、篠宮くんは少し困ったように眉を下げる。


「そんなにチョロそうに見えますか、僕」

「チョロそうって言葉、久しぶりに聞いたな」

「初めて自分で言いました」

「そういうのじゃなくて、人が良さそうというか、押しに弱そうというというか」

「それはつまり、チョロそうということでは」

「良い意味でだよ。誰にでも優しそうってこと」


 俺の言い方が悪かったのか、篠宮くんの表情は困った表情のままだった。でも、現に俺というよくわからないであろう人間についてきているのだから、心配ぐらいさせてほしい。


「知らない人にあんまついてっちゃダメだよ」

「……僕のこと、小学生だと思ってます?」

「三十五歳の怪しい男についていく青年がいたら、心配にもなる」


 篠宮くんが少し目を見開いた。どこに驚いたのかと思えば、「二十代だと思ってました」と言われてしまう。


「ああ、童顔とはよく言われる」

「そうなんですか」

「苦労してないから老けないんだよ」

「そういうものですか」

「この若そうな面を利用して、もしかしたら、君をつれ去ろうとしてるかも」

「そうなんですか?」

「そういう場合もあるかもしれない」

「それを言えば」


 そこで篠宮くんは言葉を区切る。冗談を言い慣れていないのか、話し方が少し拙い。


「逆に、僕の方が悪い人間かもしれない」

「そうなの?」

「刃物を振り回すような人間かも」

「そうなの?」

「だったらどうします?」

「……。君のギターを盾にするかな」


 面白い返しをできなかったのに、篠宮くんは笑ってくれた。優しい子だ。華奢であどけないその表情は、無性に何かしてあげたいという気持ちにさせられる。その波に乗って「今日は俺の奢りだから好きなもの頼んで」と言えば、篠宮くんは慌てて首を横に振った。


「そんな、悪いです」

「誘ったの俺だし、あと、お祝いということで」

「何のお祝いですか」

「内々定と、就活という門出に」


 変なの、と篠宮くんはまた笑ってくれる。ちゃんと笑う子なんだな、とちょっとホッとする。

 それから適当にツマミを頼んで、酒もある程度は飲めるという意外な情報も発覚したのでアルコール類も頼んだ。ハイボールを飲む篠宮くんを見ていると、高校生にお酒を飲ませてしまっているようで罪悪感が湧き上がるのはここだけの秘密だ。


「そのギターは自分で買ったの?」


 座席のそばに置いているギターケースを指差すと、篠宮くんは首を横に振って否定する。


「友人二人から押し付けられて」

「へえ」

「酔った勢いで、どこでかは忘れたけど中古のギターを買ったって言うんです。千円で」

「……ファンキーな友人だね」

「でも、二人ともFコードがどうしても弾けないからってすぐ飽きたらしくて、僕に全てを託すとか何とか言って」

「Fコード?」

「初心者が始めにつまずく試練というか」

「篠宮くんはつまずかなかったんだ」

「一応」

「すごいね」


 どうやら彼は、褒められると何とも言えない顔をする癖があるらしい。それから酒を飲み交わしつつ雑談をした後、ふと思い出して篠宮くんに「これ知ってる?」とスマホの画面を見せた。後輩が教えてくれた、ギターを弾く篠宮くんが撮影された動画だ。

 予想通り、篠宮くんは驚いたような目をギョッとさせる。篠宮くんは大人しい子だけれど、よく見ていると表情がわかりやすい。


「なんですか、これ」

「知らない誰かがアップしてるみたいだね」

「なんでこんなの……」

「物珍しかったんじゃないかな。それこそ、前に君と写真を撮りたがっていた女の人とか」


「ハッピーバースデー少年」という動画のタイトルを指差すと、篠宮くんは何度目かの何とも言えない顔をした。困っているような、戸惑っているような、焦っているような。


「面白いものでもないのに」

「確かに、再生回数は少ないね」


 篠宮くんは安堵したのか、小さく息を吐く。どうやら彼は大人数に演奏を聴いてもらいたいわけではないらしい。


「これって、誰でも見れるんですよね」

「うん。でも個人情報が乗ってるわけじゃないし、再生回数も少ないから、身元がバレるようなことはないと思うけど」

「そう、ですよね」

「……通報しとく?」

「大丈夫、です。自分でします」

「俺もしとくよ。少しでも数多い方が、削除してくれそうだし」

「……すみません」


 申し訳なさそうな顔をさせたいわけではなかったのだが、結果的にこちらも申し訳なくなってしまう。本当にそんなつもりはなかった。ただ、それを尋ねるきっかけを、作りたいだけだったのに。


「どうして篠宮くんは、あそこでハッピーバースデーを弾いていたの」


 篠宮くんが、こちらを見る。彼は顎に指を引っ掛けようとして、そこにマスクがないことに気づく。

「そんな」暫しの沈黙の後、彼の口からこぼれた声は小さい。「大した理由は何もなくて」空になったハイボールのコップを、手持ち無沙汰のようになぞっている。


「いい人っぽい、ことを、したかったんです」

「いい人っぽい?」

「たまたまその日、誕生日の人が通りかかって、あの曲を聴いたら、お祝いされてる気分になって、嬉しくなるかもしれないじゃないですか」

「……なるほど」

「そういう、誰かのためになるかもしれないことをして、自分が、いいことをした気分になりたくて」

「なるほど」

「無理に同意しなくても」


 苦笑いする篠宮くんに、俺は首を横に振る。けれど彼は同じ調子で「結局、ただの自己満足だったんです」と言った。言葉を考えている内に、篠宮くんは佇まいを直して俺を見返す。


「青葉さんは」


 彼に名前を呼ばれるのは少しむずがゆい。学生に呼ばれること自体が新鮮だ。


「どうして僕に良くしてくれるんですか」


 ジョッキに残ったビールを飲み切る。ごくんと胃に収めてから、俺は口を開く。


「実はですね」

「はい」

「俺と君は血が繋がってて、君は俺の本当の弟で」

「嘘ですね」

「早いなあ」

「僕は一人っ子ですよ」

「そうなんだ。弟っぽいのに」

「見た目だけですよねそれ」


 篠宮くんが初めてムッとした顔を見せた。気を許してくれているように思えて、不謹慎ながら嬉しい。


「本当はですね」

「はい」

「君をスカウトしたくて」

「嘘ですね」

「早いなあ」

「僕のあんな演奏で、そんなこと、あるわけないし。それに、Fコードも知らないのに」

「だよね」


 事実音楽のことはからっきしだ。篠宮くんの演奏が上手いかどうかさえ俺にはわからない。


「話したくないなら、別にいいですけど」

「ごめん。どう話せばいいか、まとまってなくて」


「自分でも驚いてるんだ」と付け足してから、俺は店員さんを呼ぶ。ビールのおかわりを注文し、篠宮くんもハイボールをおかわりする。


「俺は、自ら人と関わるような人間ではないから」

「……そうなんですか?」

「意外?」

「今、たくさん関わってるから」

「そうだね。それぐらい俺は、君にお礼がしたいんだと思う」

「……お礼」

「そう。何度言っても足りないぐらい」

「どうして、そんな」


 少し長くなるんだけれど、と俺は前置きをする。


「俺は二ヶ月前に、同棲している彼女にプロポーズをされて」

「えっ」

「それはどれに対する『えっ』?」

「……プロポーズを受けたということと、同棲しているということと、そもそも、恋人がいたということ。あと、あまりに突然な話の切り替わりに」

「全部だね」

「よく夜遅くまで飲み歩いてるって言ってませんでしたか」


 気ままな独り身だと思われていたらしい。その自覚はあったから、怒ることもない。


「ずっと返事を保留していたんだ。どうしても答えが出なくて、彼女と顔を合わせるのも怖くなってしまった。だから遅くまで飲み歩いて、彼女が先に寝るのを待っていた」

「……それは」

「ひどいよね」

「おそらく」

「まあ何時に帰ろうと、彼女は玄関で仁王立ちして待っていたわけなんだけど」

「それは……」

「怖いよね。鬼の形相だし」


 篠宮くんは返事に困ったのか、ハイボールを口にする。俺も彼女の形相を思い出して背筋が凍り、ビールを飲んで気を紛らわす。


「そんなことを一ヶ月も続けた。よくないとはわかっていても、どうしても俺は答えを出せなかった。彼女に失望されても、諦められてもしょうがないと思っていた。そんなときに、」


 あの日を思い出す。重い足を動かして駅へ歩いていた。胸も頭もモヤモヤして、無意識に俯いていた。


「君がギターで、ハッピーバースデーを弾いていた」


 俺は、まっすぐに篠宮くんを見つめる。


「その日は、俺の誕生日だったんだ」


 篠宮くんが固まる。目を見開く。


「君のハッピーバースデーを聴いたら、覚悟ができた。すぐ家に帰って、彼女のプロポーズを受けた。結婚しようって。俺と結婚してくださいって」


 決壊したように溢れた彼女の涙を思い出しながら、俺は言う。


「君が背中を押してくれた。とても嬉しかった。だから、どうしてもお礼がしたかったんだ。プロポーズを受けた後も、君が現れるであろう夜の十一時まで、居酒屋で時間を潰してた」


 篠宮くんの反応は、随分鈍かった。目をパチパチ瞬かせて、なんだか戸惑っていて、口は閉じたままで。喜んでもらえるなんて思っていないけれど、この、今沈黙が流れるというのは、あまりよくない。珍しく一人語りした後に、更に言えば彼に恩義を伝えた後の静けさは、どうにもこうにも気恥ずかしすぎる。

 だから俺はビールを一気飲みした。


「飲もう篠宮くん」

「え」

「こういうとき妙に恥ずかしいときは、とにかく飲もう」


 篠宮くんは黙って頷いた。それから俺たちは、沈黙を埋めるように酒を注文して即座に煽った。先ほどとは全く関係ない話をたくさんした。大学のこと。友人のこと。後輩のこと。仕事のこと。アルバイトのこと。好きな漫画が同じであることも判明した。あれってマイナーだよね、知ってる人に初めて会ったよって言うと、篠宮くんは笑った。そして好きなキャラクターについてたくさん語り合った。気づけばとっくに終電は過ぎていたし、篠宮くんは、想像以上に酔っ払っていた。篠宮くんは笑い上戸なのか、お酒が進むごとに笑うことが多くなった。本当に楽しそうに笑ってくれて、俺はとても嬉しかった。だけどまさか歩けないほど飲むとは予想していなかった。


「ごめん、俺が飲ませすぎた……」

「へいきです一人で帰れますだいじょうぶです」

「いやいや」


 顔は真っ赤だし、呂律もやや怪しい。どうにか住所を聞き出すと、店から歩いて十分ほどのところだった。一人暮らしをしているらしい。友人たちに入り浸れて困っていると、これほど酔う直前に教えてくれた。午前二時半。会計を済ませ、俺は篠宮くんをつれて店を出る。


「篠宮くん歩くの無理そう?」

「あるけます」

「無理そうだね」

「ひとりでだいじょうぶです」

「今しゃがみこんでるのわかってる?」

「だいじょうぶです」


 大丈夫じゃない篠宮くんにギターケースを背負わせ、その彼をどうにかおんぶすることに成功した。歩いて十分なら、タクシーを使うまでもないだろう。多分。三十五歳の体力を信じよう。


「よくこんなに飲むの?」

「こんなになるのは、はじめてです」

「なら良かった。多分明日諸々後悔するかもだけど、俺に申し訳なく思う必要はないから」

「はい」

「気持ち悪くはない?」

「はい」

「吐きそうだったら言ってね」

「青葉さん」

「え、もう吐きそう?」

「さっきの嘘ですよね」


 呂律は甘いままだった。篠宮くんの声は少し震えていた。おんぶしたまま歩き出す。


「さっきのって?」

「プロポーズ受けた話。僕が青葉さんの背中を押したって」

「嘘じゃないよ」

「だって変じゃないですか。説得力がない。たまたま誕生日だとして、どうしてハッピーバースデーを聴いたら、プロポーズを受けようってなるんですか。おかしいし変ですよ」

「そうかな」

「僕に気を遣わないで」

「遣ってないよ」

「ただの気まぐれな優しさなら、それでいいから」

「そうじゃないって」


 彼と出会い、話し、おんぶをしてわかったことがある。

 彼が何かを悩んでいるということ。それは就職活動ではなさそうであること。多分そのことを、彼は決して俺に話そうとはしないであろうこと。

 そして、彼は彼自身のことがあまり好きではないということ。


「僕がどうしようもない人間なのは、僕が一番知ってる」


 それを最後に、篠宮くんはパタリと黙り込んでしまう。名前を呼んでも反応がない。


「篠宮くん、起きてる?寝た?」


 返事はなく、深夜二時半の通り道は人もいない。静まり返る夜道の中、俺は勝手に喋り続ける。


「俺は、君がどうしようもない人間だと思わない。何故なら」


 言葉を考える。結局、またこれも話が長くなるだけど、と前置きをする。


「俺はね、さっきも言ったように本当に自ら人と関わる人間じゃないんだ。後輩にも言われたんだけど、誰からも一線を引くというか、距離を取ってしまう。物事も人も俯瞰して見てしまう。俺がそういう人間になった理由は、ある程度わかっていて」


 ギターがある分、篠宮くんは決して軽いとは言えない。細い太ともを抱え直す。


「俺は赤ん坊のとき孤児院に捨てられた。青葉園という名前の孤児院だ。そこで拾われた日が、俺の誕生日になった」


 俺の首に回った篠宮くんの腕が、少し動いた気がする。


「その孤児院はそこそこ大きいところで、人も多かった。だから誕生日はいつも月に一回、その月の誕生日の子がまとめてお祝いされるんだ。幼稚園でやるようなお誕生日会を想像してくれたらいい」


 さっき篠宮くんが教えてくれた住所を思い出しながら、俺は道の角を曲がる。


「別に孤児院の生活に不満があったわけじゃない。大人も子どもも良い人ばっかりだったし、誕生日会のケーキも美味しかった。誕生日当日には、おめでとう、ってみんなに言ってもらったし」


 だけど、と、俺は一旦言葉を区切る。ここから先を、誰かに話すのは初めてで、ひどく緊張する。それでも篠宮くんに聞いてほしかった。


「俺はずっと、俺の誕生日が自分の誕生日だと思えなかった。ただ俺が拾われた日だ。本当の誕生日は未だにわからない。これからもわからないんだと思う。知りたいってわけじゃないんだ。でも、どうしてもね、誕生日も誕生日会も、俺には他人事だったんだ」


 青葉園の人たちは、本当に優しい人たちだった。大学まで通わせてくれた。環境にも人にも恵まれた。苦労なく生活することができた。愛されて生きてきたはずだ。それなのに。


「だからと言うのはおかしいのかもしれないけれど、俺は、何事も他人事に思えてしまうんだ。自分のことにも他人のことにも興味が持てない。それなりの付き合いはするけれど、自分から何かに関わることはしない。したいと思わなかった。俺の恋人は同じ青葉園の子なんだけど、こんな俺にはもったいないくらい、優しくて強い人なんだ。素晴らしい人なんだ。そんな人が俺を好きだと言ってくれた。プロポーズしてくれた。俺は俺なりに彼女のことを大切にしてきたつもりだけど、それがちゃんと出来ているのか、そもそも俺は、ちゃんと彼女が好きなのか、ずっと不安だった」


 好きだと言ってくれたから俺も好きになろうと思った。一緒にいたいと言われたから一緒にいた。彼女はいつも全力だ。よく笑いよく泣きよく起こる。俺なんかに本気でぶつかってきてくれる。そんな彼女が眩しかった。俺には決してないものだと思った。それはまるで、うつくしい宝石をガラスケースに眺めているような気持ちだと、俺は感じていた。


「最近わかったけれど、それは俺自身が俺を受け入れられていなかったからなんだ。どこで何から生まれたのかもわからない。そんな自分に興味が待てない。だから自分の気持ちを構築できない。自分の心さえ、俺のものではないような感覚だったんだ。きっと誰に話してもこの気持ちは理解できないと思う。君だってそうだ。俺だって正確には理解できていないし、もしかすると、自分を憐れみたいところもあったのかもしれない。ただ今の自分を受け入れる勇気がなかったかもしれない」


 だけど。


「だけどあの日、君がハッピーバースデーを弾いてくれた」


 あの日の君の音を、俺は決して忘れないだろう。


「初めて俺の誕生日に、ハッピーバースデーを歌ってくれる人がいた」


 うたってない、と。篠宮くんは呟いた。

 歌ってくれたよ、と俺は言う。


「俺には歌ってくれたようなものなんだ」

「なんですか、それ」

「あの日、あのとき、ようやく俺は、ああ、今日俺の誕生日なんだって、そう思ったんだ」


 思えたんだよ、と繰り返すと、篠宮くんは俺の肩に顔をうずめる。もう少し歩けば彼の家に着くだろう。


「そう思った瞬間、すとんと、色んなことが俺の中に収まっていくのがわかった。孤児院に拾われて、みんなと過ごして、彼女と一緒にいて、俺は幸せだった。こんな俺を愛してくれる人たちがいた。そんなみんなが俺は好きだ。俺は彼女が好きで、大切にしたくて、それなのに見離されたら俺はしんでしまいそうなくらい辛いんだって、そのことを、ようやく受け入れられたんだ」

「うそだそんなの」

「嘘じゃない」

「だって、僕なんかが」

「篠宮くんは」


 ちゃんと聞こえるように。ちゃんと、篠宮くんの中に残るように。

 迷わず、はっきりと。


「俺にとって、世界中の何よりも良いことをしてくれたんだよ」


 数秒の沈黙があった。優しい静けさだった。「それは」と、篠宮くんは俺の背中に身を預けたまま言う。


「彼女さんがプロポーズしてくれたことよりも?」

「あ」


 篠宮くんが吹き出した。笑った。ずずっと鼻水を啜る音は聞こえないふりをする。

 そこで篠宮くんの家に着いた。正確にはアパートだ。なんとそこにはエレベーターがなく、篠宮くんが言っていた三階まで階段で上ることになる。篠宮くんとギターケースが二倍くらい重くなった気がする。「降ります」と言った篠宮くんの呂律はだいぶマシになっていたけれど、俺は意地でそのまま階段を上り始めた。一階と二階の間で後悔した。ぜえはあと息を切らしていると、篠宮くんが、抱きしめるように腕の力を強くする。


「青葉さん」

「う、ん?」

「別に、就活始まったって、あそこでギター弾くのは続けられるんです。あの曲弾くだけだから、練習の必要もないし」

「、うん」

「でも、こんなバカみたいなこと続けてもしょうがないってわかってて、いつも家に帰るたびに恥ずかしくなって、でも、だけど、やめたら僕は、何もいいことが出来ない気がして、いつまで経っても変わらない自分が、嫌でしょうがなくて」


 それでも、と。


「あなたに会えたから。そう言ってくれたから。だから」


 前を向けるであるとか、もう大丈夫だとか。

 そういうことを、篠宮くんは言わなかった。だから、で言葉は途切れ、俺がその先を知ることはない。きっと篠宮くんはたくさん悩んでいて、それは俺のような出会ったばかりの人間が簡単に触れていいところではないのだろう。俺なんかの言葉で彼の全てが救われることはないし、俺が彼の支えになるとか、力になるとか、そういうことは、きっと出来ない。でも、それでも。


「青葉さん」

「うん?」


 ずず、と篠宮くんが鼻水を啜る。


「僕が泣いたこと、誰にも言わないで。アズサにも、香山くんと広瀬くんにも」

「……誰?」

「僕の友だち」

「わかった、言わない」


 ありがとう、とくしゃくしゃの声が耳元に響く。ほんの少し。少しだけでいいから、少しだけでも、俺の言葉が篠宮くんの心に響いていたらいいと思う。時折思い出しては、ひと匙ぐらいは心が軽くなってくれたらいい。

 ようやく三階に着いて篠宮くんの部屋の前へいくと、篠宮くんは俺の背中から降りた。鞄から鍵を取り出して扉を開ける。その動作はフラフラしていて、どうやらアルコールが抜け切ったわけではないらしい。扉を開けた時点で力が尽きたのか、俺の方へ身体を寄せてきた。肩を支えて部屋に入り、こぢんまりとしたワンルームにあるベッドへ彼を寝かせる。


「青葉さんこれから帰りますか」

「うん。適当にタクシー拾うよ」

「泊まっていってください」

「え」


 悪いよと言う前に服の袖を掴まれてしまった。案外その力は強く、俺は彼女に「知り合いの家に泊まる」と携帯でメッセージを送った。一分後に「浮気は疑っていませんが今までの言動を振り返りある程度私が気に食わないと思っていることを察してください。おやすみ」と返事が来た。明日は彼女が好きなケーキを二個買って帰ろうと決める。


「青葉さん」

「うん?」


 袖を掴まれたままベッドのそばに座る。篠宮くんはうつ伏せになっていて、表情は見えない。枕でくぐもった声がする。


「僕と友だちになってくれますか」


 例えばここで、聞かなくてもわかるだろ、とか、もう友だちだろ、とか。格好つけることは簡単だ。でもきっと、そうじゃない。


「はい」


 俺たちが大切なことは、自ら一歩を踏み出すことだ。その線を、自分で越える。手を伸ばす。それこそが。


「俺と、友だちになってください」


 ずず、と篠宮くんの鼻水の音がした。三度目だ。思わず笑うと、篠宮くんも小さく笑った気がする。


「明日は大学? バイト?」

「土曜日だから、おやすみ」

「そうか。俺も仕事休みだ」

「よかった」

「うん、よかった」

「あおばさん」

「うん?」

「ねむい」

「俺も眠い」


 アルコールと階段を上った疲労も相まって、急激な眠気が襲って来る。


「あおばさんもベッドでねて」

「ええ、悪いよ。それに狭いよシングルベッドでしょ」

「ねてください」

「篠宮くん見かけによらず絡み酒なんだね」


 大人しくベッドにお邪魔すると、やはり狭い。狭いどころか身体が入りきらない。すると篠宮くんはもぞもぞと動き、覆いかぶさるように俺に抱きついた。抱き枕状態だ。彼女がこれを見たら「浮気だ」と怒るだろうか。世界中の何よりも怖い鬼の形相を思い出して身震いする。

 でもそこで、篠宮くんの寝息が聞こえた。瞼にかかった前髪をかき分けると、赤い目元が見える。そっと頭を撫でる。もし俺に弟がいるならば。もし俺に子どもができたなら。そのときと同じ感情が、今、俺の中にあると思う。

 目を閉じると、あっというまに眠気は全身を支配する。それに身を任せながら、俺は自分の結婚式を想像した。彼女のウェディングドレス。結婚指輪。招待するは孤児院のみんなと、学校の友人と、会社の上司と同期と後輩と。篠宮くんを誘ってもさすがに居心地が悪いだろう。だから後日、写真をいっぱい見せよう。いっぱい自慢しよう。これは君がもたらしたものだよって。

 今夜のことを、篠宮くんは覚えているだろうか。酒で記憶が無くなるタイプでないことを俺は祈る。どうか覚えていてほしい。そしていつか、たとえば君の就職祝いに酒を飲みに行って、ああそういえばあんなこともあったね、なんて笑えたら。

 ハッピーバースデー、と音にならない声でつぶやく。ハッピーバースデー、俺。生まれてきてよかった。出会えてよかった。友だちができてよかった。愛する人ができた。俺は、俺という人間は、たったいま幸せだ。

 それがぜんぶ俺の身体に収まった途端、眠りがやってくる。夢を見た気がするけれど覚えていない。だけど朝、目覚めると二日酔いになった互いを笑い合う予感だけは、いつまでも忘れないだろう。

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