カレーの匂いは言葉にできない
「カレーの匂いって言葉で表現するの難しいよね」
仕事帰り、夕方、人の多くなるスーパーの中。レトルトカレーが陳列する棚の前。アコにそう言われた途端、頭の中であっという間にカレーが湯気を伴って現れる。具材は牛肉、じゃがいも、人参。玉ねぎは煮込んだせいでカレーに全部溶けてしまっている。だけどそれがいい。甘さが増してカレーが二倍にも三倍にも美味しくなる。カレーの匂いもより甘やかで濃厚なものになるだろう。カレーの匂い。牛肉とじゃがいもと人参と玉ねぎが煮込まれた匂い。……カレーの匂い。
腕を組んで思案していると、「そんな気難しい顔してまで考え込まなくとも」とアコは笑った。
「カレーの匂いってさ、固有名詞な感じがある」
そう言いながら、アコは陳列されている固形型のカレーパックを一つ手に取る。
今いるスーパーは私たちご用達の店だ。家から歩いて十分、自転車なら五分で来られる。チェーンのスーパーではなくて、ややこじんまりして、店の名前は「なでしこ」といういかにも地元の商店街にあるスーパーを象徴しているような場所。品揃えは悪くないし価格も高くもないから、基本的な食事の材料は九割ここで賄っている。
アコはカレーパックを自分の鼻に近づけてスーッと匂った。マナーがいいとは言えない言動だけど今更こんなことでは突っ込まない。そのまま買い物カゴに入れるかと思いきや、陳列棚にカレーパックを戻した。そういえばまだ家に前使ったカレーの固形が残っていた。それを使うつもりなのかもしれない。
「固有名詞な感じって何」
私が聞くと、アコは首を少し横に傾げる。彼女は二十六歳にもなる大人で、小説家という職業にも関わらず言葉に表す行為が難しいらしい。会話の中でも本の中でも、曖昧でふわっとした言葉を使いたがる。
「なんていうか、唯一のものというかさ。カレーと同じ匂いのものってないと思わない? ビーフシチューは匂いが見た目似てるけど、あれはシチューの匂いだし」
「……まあ、言いたいことはわかるけど」
「香辛料の匂いでもあるんだろうけどさ。カレーの匂いって、嗅いだら『あ、カレーだ』ってなるじゃん。あっという間にカレーの口になるじゃん」
「シチューでも『あ、シチューだ』ってなるけど」
「えー。シチューはなんか、弱い」
「弱いとは」
「シチューはガツンと「あ、シチューだ』とはならない」
「個人差があると思う」
「そんなこといったら、世の中の全てに個人差があると思いますよチナミちゃん」
「ちゃん」付けされるなんて、初めてアコに会った高校生以来だ。懐かしさを覚えつつ、野菜コーナーに移動する。カゴを押すのはいつもアコの役目だ。ガラガラ押すのが好きらしい。子どもみたいと呆れつつ、私はアコのそういうところを気に入っているのだと思う。
「……その料理の口になるって、なんか面白いよね」
ふと呟くとアコが玉ねぎを手に取りながらこちらを見てくる。アコが取ったやつより、私の取ったやつの方が大きい。並べて比べたのち、「まあ二個あってもいいよね」という結論になりどちらもカゴに入れる。
「『カレーの口』って、アコさっき言ったでしょ。で、今カレーの話しただけでカレーの口になってる」
「うん。口の中でヨダレ溢れてる」
「それは汚い」
「話を盛り上げようとしたのに」
「カレー食べたわけじゃないのに、口の中でカレーの味がしてる気がする」
「わかるわかる」
「こういうの、なんていうんだようね。プラシーボ効果?」
「違う気がする」
明日には忘れていそうな会話をアコとするのが好きだ。高校生のときに出会ってかれこれ十年。今日は私の仕事が早く終わったから「晩ご飯一緒に食べよう」とアコからメールが来た。スーパーで待ち合わせというのも何とも色気のない話だけれど、そもそもアコ自身に色気がない。一度も染めたことがないベリーショートの黒髪。無地の黒いTシャツに青のジーンズ。ともすれば大学生に見られる童顔。肌は憎らしいほど綺麗だけど、すっぴんだから眉が短い。家で仕事をしている身だから化粧しなくてもいいやという考えはわかる。でも外に出るときは眉ぐらい描いてこいよコイツ、と思わなくもない。
「……チナミ、なんか失礼なこと考えてない?」
「してない、してない」
「嘘だあ」
「アコは可愛いなと思ってた」
「嘘だあ」
傷つくなあと言いながら、そんな顔をひとつもせずにアコは私と腕を組む。
アコとは正反対に、私はスーツを着て昼に化粧直しした顔をしている。なぜスーツなのかと言うと、私は出版社の営業として働いているからだ。アコは、そんなスーツ姿の私と腕を組むのが好きらしい。私と腕を組むというよりは、スーツの生地に触るのが目的な気がする。「さらさらしてて、ちょっと、いいよね」と一年ぐらい前に言っていた。
ただ今更そんなことを追求する仲でもない。気にせず目の前の野菜たちを見やる。アコはカレーに入れるべきではなさそうなキャベツを手に取っていた。
「付け合わせのサラダ用?」
「うん。ちなみに今日の晩ご飯は生姜焼きなので」
「いや嘘でしょこの流れで?」
「だって家に豚肉残ってたし」
「やだカレーがいい」
「チナミが『やだ』って言うの可愛いね。もう一回」
「ポークカレーにしてくれなきゃ言わない」
「ではそうします」
「やだー」
アコは笑いながらキャベツをカゴに入れて、鼻歌を歌いながらカートを押す。その後ろをついて行きながら、私は、スーパーの前で走ってくる私へ嬉しそうに手を振ったアコの顔を思い出している。
***
「今仕事詰まってるんだよねえ」
野菜の入ったスーパーの袋を前後にぶんぶん振りながらアコは言う。いくら年を重ねようと彼女のそういった子どもっぽい仕草は変わり映えしない。大人になればいずれ、と甘く見ていた高校時代もあったが、すっかり検討外れになってしまった。でも今考えると、だからこそ私たちは十年間もぼちぼちの関係でやって来れたのだと思う。私が真面目にする係。アコが明るくする係。お互いに無いものを、ぼちぼち補っていく。
たとえば今の状況がそうだ。アコはいくら振り回してもいい野菜を入れた袋を持ってる。私は買う予定のなかったお菓子やアイス、その上に割れると危険な卵のパックが入っている袋を持っている。そして、空いてた手の方ではペットボトルや缶などの飲み物が入った袋を二人で持つ。前にアコに卵を買いに行かせたら、「ごめん帰る途中で割った」と笑って帰ってきたときがあったのだ。「買い直してから帰って来い」と門前払いしたのは、決して良い思い出ではない。
「だと思った」
「え、なんで」
「アコの仕事が順調じゃないとき、私の仕事は快調になる」
「うげ」
「そうでした」とアコは苦虫を噛み潰したような顔をする。ぶんぶんの振り幅が大きくなり、やっぱりアコに卵パックを渡さなくてよかったと安心する。
「プロットは出来てるのに、良い感じの言葉が出てこない」
「良い感じねえ」
「格好つけようとするからダメなんだよね。わかってるけど、格好よくなりたいじゃん。人間の性じゃん」
「それは人によると思うけど」
「編集さんにも言われるんだよね。『あなたの文体は良い感じにしようと意識すると薄っぺらくなるから、自然体で書いた方がいい』って」
「もう答え出てるじゃん」
「自然体で出ないときもあるのお」
仕事関係の話で、私たちが「わかる」という感覚になることはないだろう。私だって一応本屋を駆け回る営業職であるわけだけれど、作ることと売ることは違う。多分一生わかりあえないし、その方がいいのだと思う。だからこそ、アコの話は理解できない。だから新鮮。だから、聞いていて飽きない。
「で、そんな風にアタシが苦しんでいる中、チナミさんはどんな快調っぷりなんですか」
「えっと」
さてどうしたものか。実は家に帰って晩ご飯を食べ終えた後にでも言おうと思ったけれど、別に隠すことでもない。あくまで何でもないように取り繕った声を出す。
「昇進するかも」
「えっ」
「来年度から、課長やってみるかって言われた」
「かちょー!」
すごいすごい、と抱き着いてきそうな勢いのアコからやや距離を取る。飲み物の袋を一緒に持ってるから、そうそう離れられるわけではない。ささっと肩と肩がくっついてしまう。
「すごいじゃん、チナミ課長だ、課長、チナミかちょー」
「やめてやめて、気が早すぎ。はしゃぎすぎ」
「えーなんで。めでたいじゃん。ケーキでも買いに行く?」
「せめて辞令が降りてからにして。これで取りやめになったら悲しすぎる」
「大丈夫だよ、チナミは」
「根拠のない『大丈夫』ほど怖いものはない」
「大丈夫だって」
「怖い怖い」
と言いつつ、実はアコの「大丈夫」は怖くない。私が大学受験で切羽詰まっていたときも、就職活動で胃がキリキリしていたときも、営業が上手くいかなくてイライラしているときも、アコはいつも「チナミなら大丈夫」と笑った。そして今、私はなんとか大丈夫になっている。それは多分、アコがアコなりに頑張って小説を書いて、何かに応募しては落選し、応募しては二次選定で落ち、応募しては最終選考に残り、応募しては最優秀賞になり、数年かけてようやく生活していける給料を稼げるようになった、という、努力の結果を目にしているからだろう。頑張れば、ある程度のことは大丈夫だということを、アコは自分の身体で証明していた。
「言ってくれたら、高めのビールぐらい奢ってあげたのに」
「じゃあ家の前のコンビニで買って」
「いいともいいとも」
そうして家の近所にある公園のそば通り過ぎようとしたときだ。飲み物の入った袋が、ぐいと後ろに引かれる。アコが振り回したのではなく、誰かに引っ張られたのだ。
振り返ると、そこには少年がいた。黒い学ランを来て、学生鞄を肩に下げている。小柄な体型だから思わず「少年」と表現したが、中学生か、もしくは高校生ぐらいだろう。どちらにせよ、見知らぬ男の子であることは変わりない。
「いま何年ですか」
少年はそう言った。「あの」とか「すみません」とかの前置きもなしに、こちらが「なんですか」と尋ねる暇もなく。
私とアコは顔を見合わせた。アコの知り合いかとも考えたが、彼女も「どうしたもんか」といった顔をしているので違うのだろう。新手の悪戯か、もしくはナンパか。いや、こんなスーパーの袋を両手に持ったアラウンドサーティをナンパする学生はさすがにいないだろう。ともすれば華麗なる宗教へのお誘いか。アコが興味本位でインタビューでもしないかと不安になってくる。
そんな不安を知らぬまま、口を開いたのはアコだった。
「二〇〇八年だよ」
え、と零した私の声は、少年には聞こえなかったらしい。彼は目を見開くと、先ほどの真っ直ぐな声とは裏腹に、「あ」と言葉を詰まらせた。「ありがとうございます」と小声で言うと、いきなり走り出しすぐに姿が見えなくなってしまう。その小さな背中が見えなくなるまで、私とアコはずっと見送り続けた。
ぽかんとしている私をよそに、アコは「さて」と歩き始める。私も足を動かしつつも、じろりとアコを睨んだ。
「アコさん」
「なあにチナミさん」
「いま二〇十八年ですけど」
「そうですね」
「なんであんな嘘吐いたの」
「いいじゃん、なんか楽しかったし」
「そんな理由で」
あの目を見開いた顔は、本当に信じているようにも見えた。まさかそんなはずはないし、ただの悪戯だと思うのに、どうにも少年が可哀想に思えてしまう。
「もしかしたら、本当にタイムトラベラーなのかも。未来か、もしくは過去から来て、だから確認のために『いま何年ですか』って聞いた」
「まさか、漫画じゃあるまいし」
「カレーの匂いを言葉にするのが難しいように、世の中には難しいことがたくさんある」
「一緒にすることではない」
「でも、そう考えた方が楽しいのは本当じゃん」
アコの言いたいことはわからないでもない。ただ、そうするとアコの発言はよくわからなくなる。
「じゃあなんで十年サバ読んだの」
「いやあ、悪戯心で。少年がどんな反応するのかと」
「少年かわいそう」
「わかんないよ。案外、あれで正解だったのかも」
「なんで」
「そう思った方がいいじゃん。私がああ言って、なんだかんだあって、少年は幸せになりました。めでたしめでたしって」
「なんだかんだって何」
「それは、少年のみぞ知る」
あ、と急にアコが何か思いついたように呟く。そして俯いて黙り込んだ。こういうときは、仕事について案が思いついたときだ。
急な沈黙にも慣れている。アコは歩きながら変わらず野菜の袋をぶんぶんと振り、突如ぴたりと止める。
「よし」
「もういいの」
「うん。まとまった」
「カレー私作ろうか」
「ううん。大丈夫。一緒に作りたい」
「そう」
「でも野菜は先に切っててほしい」
「……それ、アコが面倒なだけでしょ」
へへへとアコが笑う。私が野菜を切っている間に、アコは颯爽と仕事を終わらせてしまうのだろう。何が思いついたの、とか、どんな話を書くの、とか、そういう詳しいことは聞かない。アコだって、私の仕事を深く掘り下げて聞いたりはしない。それが互いのテリトリーを土足で踏むだけだと知っている。だから、やることは一つだけだ。
「大丈夫だよ」
私がそう言うと、へへへ、とアコはまた笑う。アコがそうしてくれたように、私も、私の身体で「大丈夫」を証明していくだけだ。
***
「カレーって人に優しいよね」
ぐつぐつと鍋の中でカレーが煮ていると、隣でアコがそんなことを言う。こちらの予想以上に早く仕事を終わらせたアコは今、付け合わせのサラダ用のキャベツを延々と切り続けていた。
「優しいって何」
「包容力がある。全てを受け入れる力が」
「もうちょっと噛み砕いて」
「基本的に何を入れても美味しくなる」
「最初からそう言ってよ面倒臭いな」
「格好つけたかったのー」
今日のアコは機嫌がいい。悪いときは滅多にないのだけれど、今日は一段と良い方が。そしてそれは、帰り道に「いま何年ですか」少年との出会いから、更に良くなっている気がする。今だってふんふんと鼻歌なんぞを歌っている。
「あの少年可愛かったね」
「は?」
思わぬアコの発言に、ついドスの利いた声を出してしまう。まさか機嫌の良い理由がそれか?
「チナミと一緒だと、面白いことがぽんぽんやってくるから楽しいなって」
「……なんの話?」
「ん、なんか機嫌悪い?」
「別に悪くない続きをどうぞ」
「めっちゃ悪いじゃんどうしたの」
「少年が可愛い話を続けて、どうぞ」
「え、別にそれは普通の感想だったんだけど。顔立ち可愛くなかった?」
「覚えてないそこまで見てない」
「大人の嫉妬は見苦しいぞ」
「嫉妬じゃないうるさい」
「そんなことどうでもよくて」
私にとってはどうでもよくない。それなのにアコはさらっと話を続けてしまう。
「高校生のときにさ、カフェ行ったの覚えてる?」
「どのカフェの話? 数は山ほど行ってるでしょ」
「えっとねえ、オープンしたばっかりの洒落乙なカフェでね。隣の席の人が、パフェもう食べられないからって、アタシたちにくれた」
「……ああ」
思い出した。私たちがまだ制服を着ていた頃、放課後になれば必ずと言っていいほど寄り道をしていた。ファーストフード店のときもあれば、カラオケのときもあり、その日はちょっと奮発しようとオープンしたてのカフェに行ったのだ。
「あれ、楽しかったよね。知らない大人の人と話すのって、あんまなかったし。貰ったパフェも美味しかったし」
「食べかけだったけどね」
「気にしすぎだよ。潔癖症でもあるまいし」
「普通、知らない人に『食べかけですけどあげます』って言われたら怪しいでしょ」
「でも、結果的に楽しかったじゃん」
「……まあ」
隣の席の人たちは、とてもユニークでチャーミングな人で、女子高生だった私たちも飽きずに話を聞いたし、話すことが出来た。大人と子どもなのに、まるで友だち同士みたいだった。お互い名乗り合ったはずなのだけれど、あれ以来会うことはなかったし、向こうは私たちのことなど忘れてしまっているだろう。
「チナミといると、ああいうのがときどきある」
「ああいうのって?」
「ちょっと不思議で、変で、どきどきすること。だからねえ」
アコはキャベツの千切りを終え、私を見て笑う。
「チナミといてよかったなあって思う」
そのとき、カレーの匂いが一気に肺に入り込むような感覚がした。さっきからカレーは煮込んでいたわけで、既に部屋中にカレーの匂いが行き渡っているはるなのに。野菜と肉が煮込まれたカレーの匂いが、鼻を、胸の奥をくすぐる。
ぐう、と鳴ったのは私の腹だ。さっと手で押さえたところでもう遅い。追い打ちのようにもう一度ぐううと鳴って、アコはゲラゲラ笑った。
「あはは、うるさい腹だなあ」
「うるさいうるさい」
「キャベツ食べるかい」
「うるさいうるさい」
可愛いなあ、とアコが笑う。返事をするようにまた私の腹が鳴る。
***
「カレーって人間に都合がいいよね」
カレーを噛みしめながらアコが言う。アコはカレーと白米をきっちり混ぜてから食べる派だ。一方私は混ぜず、白米を掬い、ルウを掬ってから口に運ぶ。舌から口内へ、鼻の奥までカレーの風味が行き渡る。どうしてカレーというものは、どんな具材を入れてもたいてい同じような味になるのだろう。ルウのパワーは底知れない。
そんなどうでもいいことを考え、「都合がいいとは」なんて問わずとも、アコは勝手に話を続ける。
「何入れても美味しいし、簡単に作れるし、日が経つほど美味しくなるし、応用が利く。ライスにもうどんにもドリアにも」
「人間に優しく都合がいい」
「そうそう」
「それだけ聞くとカレーが不憫に聞こえる」
「美味しく食べてもらえるから幸せなんじゃない?」
「あんまりカレーが嫌いって人見ないよね」
「うん。カレーが食べれないって人はもっと少ないと思う」
「カレーが人に優しく都合がよく、普遍的」
「そうそう」
実のない話をしながらカレーを食し、私はアコが買ってくれた高い缶ビールを飲む。アコは私が買った高めの缶ジュースを買っていた。アコもお酒は飲めるけれど、すぐに眠くなってしまうから好きじゃないらしい。「もっと喋りたいのに」と眠そうな声でたどたどしく言う姿は気に入っているのだけれど、それをアコに話したことはない。
「チナミは」
「ん?」
「アタシに優しく、都合が良く、特別的」
「なにそれ」
「『いつもありがとうございます』の意」
「素直にそう言って」
「いつもありがとうございます」
「どうも。というか何、急に」
「さっき高校の話したら、ちょっと感傷的になっちゃった」
へへと笑いながらアコはサラダを口に運ぶ。
「チナミと一緒にいてもう十年ぐらい経つんだなあって」
「そうね」
「一緒に住み始めてどれぐらいだっけ」
「社会人始めてからだから四年」
「そっかあ。あっというまだったね」
「そうね」
「これからも、あっというまなのかなあ」
そうね、と言いかけてやめる。黙って噛みしめ、飲み込む。胃の中がぽかぽかとするのは、きっと錯覚だけど、錯覚じゃないと思いたい。
「なんで黙るの」
「考えてる」
「何を?」
「言葉を」
カレーの匂いを言葉にするのが難しいように、世の中のことは、たいてい言葉にするのが難しい。
私がアコと出会ってどれだけ楽しかったとか、嬉しかったとか、幸せだったとか、例えばそれは十年前カフェで出会った人に話そうと、先ほどの少年に話そうと、アコ本人に話そうと、全てが伝わることはないのだ。私の気持ちは私の心のもので、それを口に出して表現するのは、たとえ小説家のアコだって、えらい人だって、私だって難しい。
でも、だからといって言葉を軽んじたくはない。アコとの時間とか、アコの気持ちとか、自分の気持ちとか、そういうのを大事にしたいと、ずっと、思ってる。
「アコは覚えてないかも、なんだけど」
「うん」
「高校生のとき、放課後になって、『一緒にどっか行こうよ』って初めてアコが誘ってくれたとき、すごく嬉しかった」
「うん」
「大学生のとき、就活うまくいかなくてアコに八つ当たりしたのに、あったかいコーヒー買ってきてくれたのも嬉しかった」
「うん」
「アコの小説家デビューが決まったときは、はりきってお祝いのケーキ作ろうとして、初めてなものだから、失敗してぺたんこのスポンジ作っちゃったし、クリームはいくら混ぜても液状のままだった」
「うん」
だからなんというか、と、私は前置きをする。
「あっというまだったけど、私はいっぱいアコとのこと覚えてるし、忘れたくないし、大事な、ものだし」
「うん」
「これからも、思い出を作りたいというか」
「うん」
「だから……」
アコはこちらから目を離さない。言葉を続けられなくて、私は口をもごもごさせてしまう。アコならもっと、格好つけた言葉を思い浮かべるだろうか。もっと、伝わる言葉を知ってるだろうか。アコの言葉はふわっとして、曖昧で、それなのに、いつだって真っ直ぐに私の心に届くというのに。
これ以上上手く言える自信はなく、私は立ち上がって自分の鞄からそれを取り出す。テーブルに戻り、アコに差し出す。
「おおさめください」
そんな台詞を言うつもりはなかった。まったくもって計画通りにはいかない。そもそもここで課長になるかもしれないという話をするつもりだったのに。アコの前だと、たいていのことは大丈夫だけど、たいていのことは特別で、ふわっとしてしまう。
差し出した小さな箱を、アコはゆっくりと開ける。
「ゆびわ」
そこにあるものを、アコはいとも簡単に言葉にする。未だカレーの風味が残る口を、おそるおそる開く。
「課長になったら給料も上がるし、生活も良くなるし、なんなら、頑張ってアパート暮らしから脱出して、家を買う方向で考えたいし」
「それは」
じっと指輪を見つめていたアコの目が、再び私を見る。
「アタシとチナミの家?」
勇気を絞りだして頷く。
「これからも、あっというまかもしれないのですが」
大事なことを言うときは、いつだって緊張する。アコに「好きです付き合ってください」と言った、高校三年生の夏の日も。
「私の奥さんになってください。そんで私を奥さんにしてください」
『そして』って言いたかったのに『そんで』になってしまった。まったくもって格好よくない。アコは笑うだろうか。いっそのこと笑ってくれ頼む。
しかしアコは笑わなかった。指輪を小箱に入れたままテーブルに行くと、なんと信じられないことにトコトコ自分の部屋へ入ってしまったのだ。
「は?」
え、嘘でしょ? まさか駄目なの? この流れで? 反応はどうあれ承諾は得られると思っていたのだ。それこそ自惚れ? 自意識過剰? だってアコ私のことぐらいしか「可愛い」って言わないじゃん、そりゃ自意識過剰になるよ。だって、だって、こんなにアコのこと。
ひとり混乱していると、すぐにアコはリビングに戻ってきた。真顔のまま私を直視する。
「チナミ」
「待って待って断るとか信じらんない」
「私も信じらんないんですけども」
ことり、とテーブルに何かが置かれる。
「被った」
同じ小箱がふたつ、テーブルに置かれている。ひとつは私が買ったもの、もうひとつは、今、アコが置いたもの。ブランドも形も大きさも一緒。
「は?」
「アタシ一年前に買ったんですけど」
「は?」
「チナミいつ買ったの」
「……一週間前」
「今日じゃないの?」
「実は一週間前に昇進の話もらってて、その日に買っちゃった」
「気が早い」
「チナミはなんで一年前なの」
「いずれタイミングを見計らってと思って」
「いずれっていつ」
「今になった」
ぶっ、と吹き出したのは、きっと同時だ。
ゲラゲラとふたりで笑い合う。今までのどのときよりもたくさん笑った。アコが私に抱きついて、そんなアコを抱きしめ返した。それでもゲラゲラ笑い続けた。
自分用の指輪も持って来て、お互いの左手薬指につける。同じふたつの指輪が、きらりと輝く。
「覚えてるよ」
アコの声は優しくて、まるで「大丈夫」と言われているみたいで。
「勇気出してチナミに『一緒にどっか行こうよ』って誘ったのも、あったかいコーヒー飲みながら泣いてるチナミの背中撫でてあげたのも、ぺちゃんこのケーキを『まずいまずい』って言いながら一緒に食べたのも」
へへ、とアコが笑う。へへ、と私も笑う。
どちらからでもなく、鼻と鼻をくっつけあう。それから唇を重ねた。アコの唇はカレーの味がして、カレーの匂いが胸いっぱいに、それはもう、いっぱい、たくさん広がっていった。
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