第19話 新田の告白
土曜日の午後。
木造の古めかしい喫茶店。
夏の名残りのやや強い陽射しが南側の窓から入り込む。店内は個室を重視するように本棚や水槽、背の高いグリーンで客席を隠すように配置してある。
人目を気にしなくて済む個室感があり自然と長居する客が多くなる。
居心地はとても良い。
冷房の効いた店内は知らず知らず睡魔を誘ってくる。ポツリ、ポツリといる客が午後のコーヒー・タイムを楽しんで思い思いにくつろいでいた。
新田と若店長、芳樹はコーヒーが運ばれてくるまで時候の話やバラの剪定のやり方で場を繋ぐ。
「さて」
熱い湯気がコーヒーの香りを漂わせる中、新田はゆっくりと口を開いた。
「どこから話そうか考えたんですが、やはり店長の『画家の花屋』から話すのが良いかと思いまして」
「うちの店を?」
若店長は向かい合った新田を怪訝な目で見つめる。
「そう。僕たちがなぜ、こんなバカげた贈り物を始めたのか。
それは他でもない『画家の花屋』があったからです。
花屋ならどこでも良かった訳ではない。
店長の信頼できる人柄と、花に関しての確かなノウハウを『画家の花屋』は持っている。それを確信したからこそ、僕達はここで贈り物をしようと決めました」
新田は真顔でしみじみ話す。
「……と言うと、大げさな言い方ですが、兎にも角にも僕たちが『画家の花屋』を気に入ったからなんですが……」
「それは、まあ、ありがとうございます」
褒められて嬉しくないはずはない。若店長は口元がにやけるのをコーヒーを飲んで誤魔化す。
「花屋のお店の裏路地に廻ると、お庭のバラが見えますよね?」
「ああ、白いバラのことですか。
表通りから裏へ廻る人なんかいませんから、僕も裏口から見るなんてことはないんですが……」
画家の花屋の細い脇道を抜けると幅一メートル弱の未舗装の路地にでる。
新田はそこの二メートルほどの板塀から雨森家の庭を覗き込んだらしい。彼らが見たのは言うまでもなく『きぼう』の白いバラだ。
「如月と出会って間もない頃です。僕が少し具合が悪くてそこの病院に行った帰りでした。
偶然ここを発見しました。
如月がいい香りがするからと言って、香りに引きつけられるように出元を探していたらお宅に辿り着いた訳です。
五月、バラの満開の時期でした。
庭一面の白いバラの海にしばし見惚れてしまったのを思い出します。
素晴らしい、本当に美しい庭でした」
聞きながら若店長はこの春の紫との事が思い出される。
二人のまだわずかばかりの思い出の場所を覗かれていたのかと思うと、あまり気分は良くない。
あそこは二人にとっても、雨森家にとっても特別な場所なのだから。
「それが、かれこれ二年ほど前になります」
(二年前か、紫ちゃんがまだバイトに来る前か。まぁ、仕方ないか)
と少々目をつむってやることにする。
「僕は……」
新田は一瞬言うのを躊躇う。が、若店長に向き直り彼を見つめかえす。
「僕は、結婚している。子供も一人いる。
恥ずかしい話だけど如月とはたった一晩で恋に落ちた。
まさか自分が男を抱くことがあるとは思わなかった。あの如月の美貌は身ぶるいがくる。
たった一度が気が付けば二年も。僕は妻には内緒で逢瀬を重ね続けた。
会えば会うほど如月の体を知り尽くし、更に深く抱きしめずにはいられなかった。あの子には怖いほどの魔性がある。そこから僕は逃れられなかった。
軽蔑されたでしょう? 妻がいて、その上男同士の不倫なんて」
若店長はそう尋ねられて素直に「そうですね」と答える。
人を恋する気持ちは走り出したら止まらない———、そう紫が言っていた。
自分もそう思う。だか、新田はリスクを背負わねばならない立場だ。彼の浮かれた行為が悲しむ者を作り上げていることを自覚してきたのか疑問が残る。
「それでも、ある事がきっかけで三か月前に冬哉と別れ話をしました。
手切れ金に五百万渡すつもりでしたが、冬哉は要らないと断りました。
その代わりバラの花をくれと言ったんです」
「バラ、ですか……」
「別れてやるから、もう二度と会わないと約束するから、毎日、毎日、自分にバラの花を一本くれと。
以前、紫ちゃんにも話しましたが、いつか百万本にして返してやるからと言ってくれました」
(あなたを愛しているから、ずっと、ずっと愛しているから、その証に、バラの花を)
新田の脳裏に如月の姿が浮かぶ。全裸で自分にしがみついてくる熱い体が自分の体に深く、深く染み付いている。
何度このまま一緒に溶けてしまいたいと思ったことか。
「毎日届けるバラは、如月への愛の証であり、手切れ金でもあります」
若店長は鼻でははっと笑う。
「言ってることが相反してますよ、新田さん。
バラに込めた想いは愛してると、真逆のさよなら、ですか?
お二人がそれで納得してバラの儀式をやってるのが、僕には不思議でならない」
(バラを贈っているから当然「愛している」の想いを込めていると思っていた、が、まさかの「さよなら、もう二度と会わない」という想いが込もっていたとは)
若店長は驚きと遣る瀬無い気持ちで一杯になる。
ついこの間自分は紫に抱えきれないほどの愛を込めて『きぼう』のバラを贈ったのだ。愛して愛して止まない娘にどれだけの想いを込めたか。
バラの花束は愛を込めるのが定番だと思っていただけに真逆の使われ方だったとは。なんとも悲しい。
そして、二面性のある想いを込めなくてはならなかった二人の関係が更に悲しい。
「花屋として言わせてもらうなら、バラの花はやめたらどうですか?
特にバラは意味合いが強い花なんですよ」
「そうです。店長の助言はもっともだと思います。
僕も如月も本音は別れたくはない。
それでも、お互いに別れようと決めました。僕たちにとってこのバラは最後の贈り物です。
どうしても、と、バラにこだわったのは如月なんですよ。
お宅のバラを見て、あんなに丹精込めてバラを作れる人はそうはいない。店長ならきっと最後までこの贈り物の儀式に付き合ってくれるだろう、そう言いました」
「それはまた、如月さんには買いかぶってもらって、ありがとうございます。
でも、僕としては一日でも早くこんな儀式めいた贈り物はやめてもらいたいと思ってます」
若店長はつい冷たい言い方になる。
「すいません、店長には気に障る所がありましたか? 如月が何か失礼なことをしましたかね?」
「別に、何も……。如月の存在事態が気に入らないだけです」
新田は上目遣いに若店長を眺める。
「……というと……、店長さんはノーマルな方だから如月に特別な感情を持つとは考えられないが……やっぱり紫ちゃんですか?」
「まあ……、あれだけの美少年だ。誰だって惑わされますよ」
「ふむ……、そういうことがあるかもしれないと予想しておくべきでした。
これは……、店長さんの恋路の邪魔をしてしまったようだ。それは本当に悪いことをしました」
若店長はバツが悪そうに外を眺める。
「紫ちゃんは賢い子だから、如月がゲイで新田さんに夢中だと理解はしてますけどね。
僕としては面白くない。よそ見をされるのは……」
新田はそんなことを言う若店長を微笑ましく思う。
いつも肩で風をきって働いているような彼がまだ高校生の少女に恋をしているのだ。
「紫ちゃんのその気持ちは気の迷い程度ですよ。紫ちゃんが好きなのは店長さんなんだから。はたから見ていればすぐわかりますよ」
若店長は少しだけ口元で笑う。
「話しがそれましたね」
若店長は前髪をかきあげて話題を変える。
「如月はバラには詳しいようですね。親族の方が花関係のお仕事をされているようですが……」
新田もニヤリと笑ってコーヒーをひと口飲む。
「ええ……、でも、お家はずいぶん前に花屋を廃業されていますよ。親戚にはバラの育種家の人もいたらしいですが……」
「育種家?」
若店長がその言葉に反応する。
(まさか、じいちゃんの友人のその孫とかじゃないだろうな?
いや、その友人は如月なんて名前じゃなかったはずだ。
考えすぎだ)
若店長は嫌な考えを振り払うように首を振る。あの如月とウチの先祖に何か縁故があったとは思いたくはない。
「画家の花屋のあのバラを見た後からです。冬哉が妙にバラの話しをしだしたのは。よほどあのバラが気に入ったのでしょう。褒めまくるし、写真には撮ってくるし、きっと何度も見に行ったと思います」
やだなぁ、と若店長は思った。覗き見かよ。ますます如月が嫌いになる。
「すいませんね、店長。大切にされているバラを勝手に覗いたりして」
「いや、まぁ、ねぇ……」
現場に出くわしたなら殴ってやったかもしれないなと思う。
「店長はお手本なんですよ、これから先の冬哉にとって」
「というのは?」
「冬哉の親戚はバラの育種家だったそうなんですが、今は廃業されて結構広大な土地が放置して荒れ果てていたようなんですが、冬哉はそこを譲り受けてバラ園にしようとしています」
「へぇー」
若店長は新田の思いもよらぬ話しに俄然興味が湧いてくる。
「あの子にも花屋としての血が受け継がれているのでしょうね。
バラを見ると血が騒ぎだした———そんな感じでした。
お宅でバラを見てからの冬哉はこっちがビックリする位積極的に動きましたよ。
そこを譲り受け、と言ってもタダじゃない。モデルをして貯めた預金も全て払い尽くし、自分一人でそこの土壌を掘り起こし、肥料を入れたり、少しずつですがバラを植えているそうです。
この三か月で渡したバラ、九十本ほどですが……きっとそれも植えていることでしょう」
「へぇー、挿し木ってことですかね?」
いつも店で売っているひと枝では、なかなか上手く発根するかも分からないし、あまり丈夫に育たないものなんだが……と若店長は不思議に思う。
(まあ、やり方は人それぞれ……)
そうは思うが、面倒な事をやってるなとも思う。市販の大苗を植えた方が早いのだから。
「でも、ようやく紫ちゃんが言っていた百万本にして返す云々の意味が得心できましたよ。
毎日一本ずつ植えていって、上手く育てば花が咲く頃には何十個と蕾が付いてくれますからね。五年、十年後かな、百万本になるのは……。
なかなか立派なバラ園ができそうで、楽しみですね」
花の事となると若店長はにこやかになって話しだす。新田の言う事が事実なら嫌いな如月も少しは見直してやってもいいと思えた。
新田の視線はまた窓の外に向いていた。青く晴れ渡る空には飛行機雲が何本も後を引いている。
夏の日差しはまだまだ強く、遠くから蝉の鳴き声が微かに店内に入り込んでくる。
穏やかな午後。
ありふれた毎日。
去年とそう変わらない夏。
窓の外を見たまま新田が独り言のようにつぶやく。
「いつか僕も見に行けたらと思う。夢でもいいから……」
そう言う新田の横顔を若店長は静かに見守る。
この二人は別れる気など全くないのだ。愛し合っている。心だけはいつも如月と共にある。
そして、新田は家族という足枷を着けて、社会と接点を持つ体だけの抜け殻のような状態でいる。
「僕から言わせれば、新田さんはズルい人だと思います。
如月とは関係を続けたい。想いも届けたい。けれど家族は傷つけたくない。
あなたのそういう態度はいずれどちらかを、或いは両方を傷つけますよ。
いずれね。
奥さんにバレないうちに如月とは縁を切った方がいい」
「そう、妻には冬哉の事は知られたくない。彼女にはこれから多大な迷惑をかけるというのに……」
解っているなら、そうしろよ。……と思う。バラの儀式も終わりにして如月にはもう来ないでもらいたいのだ。
紫ちゃんがあいつを見るだけでこっちは気が滅入っていくというのに……。
「この三か月、『画家の花屋』に来てみて正解だったと思います。本当にありがとう」
新田が頭を下げていた。
バラを渡していた理由がわかって、とりあえずは納得する。
これでもう儀式も終わりなのだろうと思っていると、新田がスーツの内ポケットから一枚の紙切れを出してきた。
「小切手?——えっ?」
五百万の数字が目に飛び込んでくる。驚きのあまり叫びそうになって、自然と口が開く。見上げた新田は落ちついた顔をして言った。
「如月に渡すはずだった手切れ金です。今はバラに形を変えていますが。
明日からも今迄通り、如月にバラの贈り物をしてもらう為、今日まとめてお支払いします。」
(続けるのか、まだ?
一体どういうつもりだ? それよりも……)
「五百万なんて幾ら何でも多すぎますよ。毎日バラを一本二百五十円としても……」
新田は口元に微笑みをたたえながら若店長の慌てぶりを少し楽しんでいるようだった。
「そう、これからもずっと毎日。およそ七十年。如月がこの先年老いて死ぬまでと計算しての金額です」
「はあ?」
(呆れた。どれだけ長い年月バラを贈る気なんだよ、この人は?
如月を愛しているのはいいが、一介の花屋をそこまで巻き込む必要があるのか? 七十年って、僕は幾つだ?)
「七十年とは言いましたが冬哉がバラを取りに来なくなるまで、それで構いません。
冬哉の中で僕に興味が無くなり、納得がいったということだと思います。その日が本当に『さよなら』の日です」
七十年………、若店長は目眩がしそうだった。
「残念ながら、僕は『画家の花屋』にはもう来られません。
だからこうして店長にお願いしに来たわけです。
明日からはお店の方で良いバラを選んで如月に渡してやって下さい」
「どうかされましたか? 来られないとは? 転勤か何かで?」
新田の口元からは笑みが消え、店長から目を外らし再び窓の外へと顔を向ける。
「明日から僕は病院に入院することになってます」
若店長の胸にチクッと痛みが走る。嫌な予感。
「約三ヶ月がヤマだろうと医者は言っています。手術をして病巣を全て取り除くことになります」
新田はその後も外を向いたなりで若店長と目を合わせる事なく、自分が肺ガンであると告げた。
痛い。
若店長は心臓にもろに打撃を受けたような痛みに耐えながら、しばし茫然と佇んでいた。
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