花束にかえて
とし
第1話 きぼう
『きぼう』という名の白い小さなバラが今年も庭を埋め尽くす五月。
『 画家の花屋』という少し変わった名の花屋。
その若店長、
白いバラはつた生で、雨森家のレンガ造りの外壁に沿うように長く長くその枝を伸ばしている。見上げると二階建ての屋根にも届きそうなほどに大きく成長していた。
その枝に甘い香りがする五枚の花びら、一重の小さなバラが咲いている。
春を迎え、何百、何千という数になり咲き誇っていた。
若店長、芳樹はこの時季にこうして庭を何度も何度も散策するのが楽しみだった。
自分が手塩に掛けて育てたバラなのだ。一年に一度だけ愛らしい白い花びらを持つその姿を見せてくれるのは、慈しんだその証しを見せてくれるようで、何にも代え難い喜びを与えてくれる。
肺の中にバラのほんのり甘い香りを取り込んでいくと穏やかな気持ちになる。
(自然の力は不思議なものだな)
そう思う。バラのかぐわしい香りと共に湿気を含んだ風が若店長、芳樹の鼻腔をくすぐる。
「雨が降り出しそうだな。せっかく満開の時に降って欲しくないなぁ」
若店長が天気に文句を言っていると、風が機嫌を損ねたのか思わぬ強風が庭の中を駆け抜けて行った。
一瞬。
ごお————っと風が巻き上がる。
『きぼう』の小さな花が身を縮めたが、せっかく咲いた花はあっけないほど沢山風に拐われていかれた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
上空を『きぼう』の細い枝が何本も頼りなげに揺れる。
花は千切れ葉だけが残っていた。白い雪のような花びらが灰色の雲でかすんできた青い空にクルクルと舞いあがっていった。
(空に……、お裾分け……かな)
若店長は空に舞い上がって行った『きぼう』のバラの花を見送った。
若店長は少し曇り始めた空を見上げ、店へと向かう。
雨が降るまでに店先に並べてある鉢物の花たちを取り込む為に。
——アルバイト募集中——
年齢不問 時給◯◯◯円
勤務時間 応相談
若店長が数日前に画家の花屋の窓に貼った紙をじっと見つめる女子高生がいた。
黒髪セミロングの肌の白い温室育ちのような細い子だ。ふっくらとした柔らかそうな頰がまだ幼い感じを受ける横顔をしている。
「あっ」
若店長に気付いたのか、その子——
「あっ、バイト、かな?」
若店長が紫ににっこりと笑いかける。
その時だ。
ハラハラと白い花がひとつ、またひとつと舞い落ちてきた。不思議そうに若店長と紫は空を見上げる。
「あれ?、さっきの……かな」
見ている間に『きぼう』の小さな白いバラが紫の上に舞い降りてくる。
「わぁ、きれい」
紫の小さな手が降り注ぐバラの花を受け止めている。まるで花達が風に乗ってこの子だけに集まって来るみたいに。
若店長はあっけに取られてそれを見ていた。
「すげぇ」
目の前の歩道にもどこにも白いバラはひとつもないのに。
「埋もれちゃったね、君」
彼女の足元にも制服姿の肩にも髪にも山のように『きぼう』が降り掛かっている。花だらけだ。
嬉しそうに紫はほんわかと笑っている。
「きれいな花吹雪です。さすが花屋さんですね。
嬉しいです。
こういうサービスがあるんですね」
(いや、ないけど)
若店長はひそかに突っ込む。 二人は顔を見合わせると、ははははははは、と声を上げて笑いあった。
「すごいな、君。まるで、そう、きぼうの妖精みたいだった。
マジすげぇわ。
あっ、バイト希望だよね。
さあ、入って。入ってよ」
若店長もワクワクして来てこの少女ともう少し話してみたいと思いだしていた。
「あっ、この花は、どうしましょう?」
紫がハラハラと花びらを舞い落としながら、ソロリと足を上げていた。若店長は思わず駆け寄り紫の両手を支える。
(大きな手——)
紫は彼の手の大きさにびっくりする。
「大丈夫?」
「あっ、はい」
紫の目の前で若店長が優しく微笑む。
(わぁ、素敵な人……)
一瞬だけ彼の顔を見上げた。が、すぐ目をそらす。彼があまりにもマジマジと紫を見つめていたから。
「よかったら店に入って来て。君に見せたいものがある」
「………」
「ねっ」
こんなにも優しく声をかけられると断われない。紫は若店長を見上げながらコクリと頷いた。
「あっ、花は?」
「ああ、大丈夫。そのままで。
また空へ、天国へ帰るから」
若店長はにっこりと微笑んで空を見上げた。
そこに『画家の花屋』の先代と先先代がいたような気がした。
紫が振り返ると本当に白いバラはつむじ風に運ばれて空へ、空へと舞い上がって行った。
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