Kapitel.1 Engel
#1
空の色はモノクロームで、広がる町並みは、どこまでも平坦な古い住居の連なりだった。
巧緻な毛糸細工のように、至る所に張り巡らされた電線以外は、かび臭く陰気で、しかしそれ以上に、奇妙なまでに凪いでいる。俯瞰しているだけでは、何も起こらない。だが、しかし。
「はーっ、はーっ、はーっ」
荒い吐息と、激しい足音。
落書きとごみにまみれた、湿った家屋と家屋の間を、1人の男が走っていく。
迷宮のように複雑な路地。彼は時折つまずきかけながらも、走ることをやめない。焦燥に満ちた顔は時折後方を振り返り、すぐに前を向く。
彼は追われていた。とある存在に。
「畜生、畜生、あいつら、あいつらっ……」
そして『彼ら』は――偏在する。至る所から、舞い降りて現れる。
◇
「目標を複数補足。殲滅を開始する」
「了解」
白い翼に、黒のコート。
『ザイオン』の天使達をあらわすマテリアル。
陶器のように青白い肌を持ち、性別さえ不明瞭な彼らが、前に踏み出した。
「畜生、撃て、撃てっ、意地でもあいつを逃がすんだ!!」
対峙する男達の1人が、瓦礫の影から叫ぶ。それと同時に、機関銃を持った男達が廃墟から身を乗り出して、銃撃を開始する。
大きな鐘を砕くような轟音。気の狂ったような銃口の光。無機質に佇む『彼等』に向けて、殺到する。
「『憤怒』で来た。防御しろ」
「了解」
凪のごとき会話の後、天使のうち1人が銃撃の正面にたった。
彼は手をまっすぐに伸ばして、何か呪文のような言葉を唱える。
手のひらを包むのはガントレットのような機構であり、今その瞬間、手の中心部のスリットが開口した。
すると間もなく、彼の眼前に、エメラルド色のグリッド線で形作られた障壁のようなものが形成される。
――銃撃。
天使たちには、当たらなかった。
エメラルド色の半透明の壁が、彼等の身を守った。
衝撃で周囲に火の粉が散り、彼等の羽のいくぶんかが周囲を舞ったものの、空薬莢はむなしく地面に転がり落ちていく。
「狙撃する」
もう1人が、横に立つ。
構えるのは――黒檀の長大なライフル。あらゆる凹凸面を削ぎ落としたそれは、一見すると墓標のように見えた。
「……」
天使の目は銃撃の狭間、冷静に標的を見た。
障壁の向こう側――『用済み』になった住居の向こう側から、恐怖でこわばった表情と共に銃を乱射してくる男達。
その行動はおそろしく単調で、ある一定の法則に従って動いている。
彼には、それが分かった。
――ゆえに。
狙撃。1人倒れた。
血が吹き出した隣を見て驚愕する――その瞬間には既に、額に穴。
二発、三発。
正確に、まるで機械のように、仲間達が倒れていく。
「……っ、怯むなあ!!」
男は遠くに浮かぶ二つのシルエットへの恐慌を頭から強引にぬぐい去り、叫んだ。
その言葉とともに、第2陣。次々と撃たれていく仲間達の合間を縫うようにして展開される。スナイパーライフルに、ロケット弾。行動は早かった。仲間の死による怒りと焦りが、廃墟の隙間に身を潜める男達の準備を急がせたのだ。
いくつもの血しぶき、とフラッシュの隙間。積み重なる亡骸――瓦礫の、溶け落ちた電線の上に構え。
「……撃てええええええっ!!」
一斉に、攻撃が放たれた。
分析する。眼前に特殊弾頭。ロケット弾頭。迫り来る。この障壁で防げるか? 否……ならば。
「散開する。連中、今度は『怠惰』で来た」
「了解」
瞬時にシールドは解除され、一カ所にとどまっていた2人は左右に分かれた。
次の瞬間。
高威力の炎と殺意が濁流となって、彼等二人がいた場所を呑み込んだ。
爆炎、硝煙。
震動がおさまっていき、えぐれた地面があらわになっていく。
「やったか……?」
男は黒い煙に目を凝らして呟く。仲間達も、武器をおろしながらそれに同調した。淡い期待。
だが。
「ぐああああっ!?」
真横で、仲間の身体に無数の穴があいた。
それに気付いた瞬間には、遅かった。
天使達が煙の中から現れて、手元の火器を閃かせた。それと同時に、再び仲間達が倒れていく。僅かな驚愕の隙間を縫うようにして――その手に、奇妙なほど小型な黒光りする銃を持って。
彼等は踊るように姿を現して、翼をはためかせながら攻撃を再開した。
「馬鹿な、あれほどの攻撃だぞ――避けられるわけが……」
男は、そこで言葉の続きを呑み込んだ。
「わけが」だと? そんな常識が通じる相手なのか。
――奴らは天使だ。ただの人間じゃあない。
こちらの行動など、すべて、すべて……。
「……っ」
1人、また1人と倒れていく。
だが。
「っ……怯むなっ!! ここで確実に奴らを殺す、殺すんだっ!!!!」
意地か、もしくは自暴自棄か。もはやその違いは分からない。しかし男は叫んで、残った者達が全精力を傾けて攻撃を再開する。なけなしの火器と銃弾……。
――押し寄せてくる火線の群れも、彼等には単調な規則性に基づく攻撃にしか見えなかった。
だからこそ、こうして。
「くそっ、どうして、どうして当たらないんだっ!!」
高速で翻弄してしまえば、あっさりと回避できる。
攻撃は、その狭間に。
「……」
この、制式七型小銃で、ジャンクの向こう側に位置取っている、あの心みだれた連中に差し向ければいい。簡単なことだった。
だから今、天使の眼前で、次々と標的が倒れていく。身体の至る所から血をふきだし、不格好なダンスを踊りながら。
「どうしてっ、どうしてだっ!!」
男はついに自らも拳銃を抜き放ち、彼等に向かって撃っていた。だが効くはずもない。
まるであらかじめ予測していたかのような動きで回避され、その瞬間に手元で光が放たれて、振り向けば仲間が殺されている。
こんなことがあっていいのか。
こんなにあっさりと、自分たちの積み上げてきたものが崩れ去ってしまっていいのか、こんな理不尽が――。
声を枯らして、彼は叫んだ。
「俺達はっ!! 自由がほしかっただけだっ!!!!」
天使は、無感情に言った。
「それが、罪になると言っている」
彼は男に向けて銃撃を放った。
それは欠片の容赦も呵責もなく、まっすぐにその額へと撃ち込まれる――。
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