裏切りの天使
緑茶
Prolog
陽の当たる灰色の瓦礫に、小鳥の群れがとまっている。
甲高く、無垢なさえずり。
足音。砂利を踏みしめる。
鳥達は驚いて、一斉に飛び立った。
その後には一羽だけが残された。傷つき、十全に機能しない身体を震えさせながら、なんとか地上から離れようとする彼の目は、近づいてくる何かを映し出している。
足音。
瓦礫の群れ、ひび割れて崩れ落ちた聖像。腕が取れた人形。手紙のかけら。すべてが、光の中に落ち込んでいる。
ピアノの音が響く。
その手はなめらかに、鍵盤をたたいていた。
目映い光の帯が差し込む廃教会の中で、彼女はメロディを奏でている。空間すべてに響かせるように、大音量で、呵責なく。
黒い背中が、足音を響かせながら歩く。打ち捨てられたその場所へ。
彼女は目を瞑りながら顔を上げて、指先の生み出す音楽に浸り続けている。
黒いシルエットは歩いてくる。その手には、同等か、それ以上に黒く、冷たい殺意の塊。トリガーを引けば、相手の命を簡単にさらうことができる。
彼女は、演奏を続けている。
ぱきっ。
その足が、床の硝子を踏みしだいた。
彼女はぴたりと指を止めて、演奏をやめた。
それから顔を上げて、向かい側を見た。
朝の冷たい空気と、光に包まれたその空間。二人の少女が向かい合っている。
一人には、パールのように白い羽。
もう一人の、ピアノの前に座る少女の背中には、ささくれた、真っ黒な羽が生えている。
「リアセド」
黒い羽の少女が、やってきた白い羽の少女の名前を呼んだ。対照的な漆黒のロングコートと、黒のツインテール。鋭く、どこか憂いを帯びた冷たい顔立ち。そして、その手には――。
「今弾いてた曲のタイトル、知ってる?」
くすりと笑った後に、尋ねてみた。
「知らない」
答えは得られた。
少女は、白と黒の鍵盤に向かい合って、慈しむようなまなざしを向けた。それに比して、「リアセド」の彼女をみるまなざしは、どこまでも怜悧で、平板で――何も、籠もっていない。
「パッヘルベルのカノンよ……リアセド」
返事はない。
少女は続ける。
「カノンという形式はね。音が次々と生まれて、移り変わっていくの……変化していって、やがては誰も知らない世界へとたどり着く。そういう音楽なの。あなたも――」
そこで音がした。
少女は顔を上げる。
リアセドが、こちらに銃を向けている。
「リアセド――」
「イリル、変化など必要ない。必要なのは秩序と均衡、そして必然によって描かれた物語。それだけ」
記された言葉、表面だけの文字。
それらをなぞるような口調。
イリルは眉根を寄せて、リアセドの目を見た。
しかし、そこにある藍色の輝きは、驚くほど揺るがない。遙か昔の輝きのまま固定された琥珀のように。
「あなたは、本当にそれでいいの? 本当にそれが、この世界のためだと理解して、私に銃を向けている?」
僅かに、語尾が揺れていた。
だが、リアセドは。
「そう。これが私の使命。かつてのおまえにとっても」
そう言った。
イリルは唇の中に一度言葉をしまい込んで、数秒後、あらためて、言った。
「私を。殺すのね」
そこで。
はじめて、リアセドの瞳が、ゆらいだ。
波間に浮かぶわだちのように。
彼女は黙った。
イリルは追及する。
「答えて」
リアセドは目を瞑る。
それから再び開いた。
もう、あの揺らめきはなかった。
そして、宣告は放たれる。
「そうだ。第一級天使・イリル。お前を違反者として、これより処刑する」
イリルが、リアセドを見た。
リアセドも、イリルを見た。
黒い羽の少女は、鍵盤から腕をおろす。
「哀しいひとたち」
銃口が自分に向いていることに対して、おびえている様子はなかった。
「この世界にあふれている色彩を理解できないなんて……せめてあなたなら、理解できると想っていたんだけど」
「あきらめろ。私は天使だ」
「……そう」
イリルが、もう一度俯いた。
すべては静寂と共に、光の中で。
二人だけが、そこにいる。
「だったら、とても、悲しいことだけど」
彼女が顔を上げて、立ち上がった。
椅子ががたんと音を立てて、後方へと倒れ込む。
それと同時に、リアセドが眼を細めて一歩前へと進む。
その時には既に、イリルは「それ」を手に取っていた。
「あなたと私。戦うしかないようね」
ピアノの向こう側に立てかけていた、長身のサーベル。
細長い水晶のような刀身が、きらりと光を放った。
リアセドはその光を前にしても、銃をおろさない。
イリルが、構える。
白と黒。相反する二人の天使が向かい合う。
見守る神はここにはいない。介入する者は、誰もいない。
互いの目が、交錯する。
沈黙。
「……!」
そして、同時に動いた。
両者が、駆け出した。
――数秒後。
羽がはためいて、銃声が響いた。
黒と白。
それぞれの羽根が、瓦礫にふわりと舞い降りた。
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