Mars

土芥 枝葉

Mars

 畠山が待ち合わせ場所に指定したのは、百年くらい前はどこにでもあったという、「喫茶店」と呼ばれるタイプの店だった。ネットで検索してみたところ、2000年代初頭には徐々にその数を減らしていったということだが、それから80年近く経った今でもこの手の店はわずかながら存在しているらしい。僕は初めて入ったが、落ち着いていて中々感じが良い。

 先に着いて、注文したコーヒーを半分ほど飲んだ頃、畠山は現れた。約束の五分前に到着するのは昔から変わらないようだ。

「小川! すまない、待たせたか?」

「いや、僕が早く来すぎただけさ。久しぶりだね」

 畠山はスーツの上着を脱いで腰掛け、お冷やを運んできたウェイトレスにブレンドコーヒーを注文した。逞しい体に精悍な顔つき、短く刈った髪の毛と日焼けした肌。それでいて真面目で紳士的であり、人間としても、医者としても尊敬すべき男だ。

「わざわざ来てもらってすまないな。オレの結婚式以来だから、五年ぶりくらいか?」

 畠山はそう言って指を折り、年を数え始めた。

「そうだね、あれ以来だ。六年ぶりかな」

 小学校から高校までは毎日のようにつるんでいた僕たちだが、社会に出てからはお互い忙しいこともあり、関わりといえば正月に年賀メールをやりとりするくらいのものだった。突然連絡をもらって呼び出されたのが昨日の話で、なんでも折り入って頼みがあるらしい。その内容に見当はついていた。

「嫁さんは?」畠山が尋ねる。

「まだ」僕は苦笑して首を横に振る。

「お前みたいなお偉いさんなら、言い寄ってくる女なんかいくらでもいるだろうに」

「そんなことはないよ。それに、偉いわけじゃない」

「謙遜するなよ。火星移住機構の職員と言えば、人の人生を思い通りに操れる神様みたいなもんだろう」

「そんなんじゃないってば」

 僕が笑って首を振ると、畠山も「言い過ぎたな、すまない」と笑った。

「時間もないから早速本題に入ろう。相談したいのは他でもない、火星移住計画のことだ」

 やっぱり。それが正直な感想だった。この手の相談を受けるのは初めてではない。

「早い話が、オレの家族を火星送りにしないでほしいってことなんだ。わがままなお願いであることは百も承知だけど」


 人類が火星への入植を開始して二十年近くが経つ。初めは高度な訓練を受けた専門家だけだったが、ここ数年で民間人の入植も増えてきた。いや、強制的に移住させられていると言う方が適切だろう。

 2000年代に入り、地球の人口爆発に伴う住宅不足や食糧難が現実味を帯び始めたことから、火星の地下空間に居住区を作り、入植するプロジェクトが推し進められた。国際機関や民間の企業により一通り生活できる環境が整えられた後、世界各国が協力し、抽選で選ばれた家族を火星に移住させる施策が始まった。指名を拒否することはできず、強制的に火星に送られることとなる。そして原則的に帰ってくることはできない。

 火星ではいずれ地表にも人が住めるよう、テラフォーミングの作業が進められている。火星に送られた人々はそういった仕事に就くか、食料の生産や加工などに従事する、あるいは自らの得意分野を活かして働くことになっている。そのせいか、強制労働のようなイメージを持っている人も少なくないという。


「残念だけど、僕にそんな権限はないんだ。申し訳ないけど、君たち家族が選ばれないように祈ることしかできない」

 いつもと同じように断りを入れた。

「……そうなのか。オレはてっきり、抽選ってのは表向きの話で、火星に送られる人間はお前たちが意図的に選んでるもんだと思ってたよ」

 畠山は続ける。

「火星行きのシャトルが出発する前、見送りのシーンが中継されることがあるけど、よく見てると火星に向かうのはいかにも健康的で働き盛り、それに社交性もありそうな人ばかりに見えるんだよな。有名な学者や技術者、芸術家にアスリートなんかもたくさん送られてる。逆に、柄の悪い人間や不摂生に見える人はいなかったように思う。それだけ見てると、火星に送られるのは特定の条件を満たした、選ばれた人間なんだろうなって思わざるを得ないんだ」

「……うーん、自分から火星に行きたいと志願してくる人については、確かに審査が行われている。これは公表されているとおりだよ。でも、一般の人々は本当にランダムなんだ。君だって、すべての移住者を念入りにチェックしたわけじゃないだろう? たまたまそういう人達が目についただけだよ」

「そう、か……」

 畠山は納得していないように見えた。丁度コーヒーが運ばれてきて、彼はブラックでそれをすする。

「やっぱり、ズルはできないか」

 カップを置いた畠山は愁いを帯びた笑みを浮かべた。わかってくれたのだろうか。

「自分たちだけ嫌なことから逃げようってのは、さすがに虫が良すぎるな。すまなかった」

 こういう潔さも昔から変わらない。かえってこちらが申し訳なく感じてしまう。

「同じように僕に相談してくる人がたくさんいるんだ。みんな本当は行きたくないんだよね……。力になれなくてすまない」

「いや、気にしないでくれ。お前に迷惑をかけるつもりはさらさらないからな」

 何となく、気まずい沈黙が続いた。カップを置く音がいちいち気になる。

「しかし驚いたよ。お前が宇宙オタクなのは知ってたけど、まさか火星移住機構で働いてるとは思わなかった。まあ、今回連絡したのも、それを偶然知ったからなんだけどな」

 畠山は気を取り直すように、優しい表情をして言った。


 火星移住機構とはその名のとおり、人類の火星移住を推進、管理するために設立された国際機関で、世界各国からあらゆる分野のスペシャリストが集結している。火星移住に関する計画を立案、実施し、移住者の抽選を行い、彼らを火星に送り届けるのが主な任務である。僕はその日本支部に天文学者の一人として参画していた。

 世間には機構を秘密警察か何かのように恐れ、忌み嫌う人がいることも承知している。抽選で選ばれた人を強制的に火星に行かせるのだから、そんな風に思われるのも無理はない。それどころか、多くの人が火星への移住自体にネガティブなイメージを持っているのが実情だ。機構や政府が制作した移住促進のキャンペーン動画は、低評価と批判的なコメントで溢れかえっている。


「機構に入ったのは二年ほど前だよ。恩師に声をかけられてね。と言っても、僕なんか下っ端もいいところさ」

「謙遜するなよ。それだけお前が優秀ってことだろ。……むしろ、お前ほどの宇宙好きなら志願して火星に行きそうなもんだけど」

「うん、まあ……火星に行ってみたいという気持ちがあるのは間違いないよ。でも……」

 言葉が続かなかった。

「でも?」

「……いや、何でもない」

 余計なことまで喋ってしまいそうなのでごまかすしかなかった。こういう仕事をしていると部外者には言えないこともたくさんあるのだ。

「なんだ、女か?」

 畠山はからかうように言った。妙に鋭いのも相変わらずのようだ。

「ああ、いや、どうだろうな……」

 直接的には関係ないが、気になる女性がいるのは間違いない。はっきりと否定することもできず、しどろもどろになる。

「好きな女がいるなら、さっさと気持ちを伝えた方が良い。駄目なら駄目で次がある。人生はそんなに長くはないし、いつ何が起こるかもわからない。お前だって、火星に行かせられる可能性があるわけだろ?」

「ああ……そうだね」

 まったく、畠山の言うとおりだ。

「畠山は、結婚して良かったと思ってる?」

「ああ、もちろん」

 畠山は即答すると同時に屈託のない表情を見せた。それがすべてを物語っている。

「妻も息子たちも、どんなことをしてでも護りたいと思える大切な存在だ。たとえ火星に行くことになったとしても、オレが支えてみせるさ」

 あまりにも迷いなく言うので、少し羨ましいと感じてしまった。

「……まあ本音を言えば、妻は神経質な方だから、火星の地下暮らしに適応できるかわからない。それに、子供たちにはできれば海や緑に触れながら育ってほしいと思ってる」

「家族のことを思って僕に相談してくれたんだね。わかるよ」

「ありがとう。でも、やっぱりそれはオレのわがままだからな。地球だろうが火星だろうが、家族を愛する気持ちは変わらないさ」

 大切な存在がいると、人はこんなにも頼もしくなれるのだろうか。目の前の畠山はどんな環境でも家族を護り、強く生きていけるように思われた。


 それから少し昔話をして、畠山が行かなければならないというので店を出た。会計は彼が持ってくれた。

「お前と話せて良かった。時間ができたら、今度は飲みに行こう」

「こちらこそ、会えて嬉しかったよ。またね」

 地下鉄の駅で別れた。僕は畠山の背中が見えなくなるまで見送った。


 *


 翌日、僕は選定課のオフィスに来ていた。火星移住機構の一部門で、移住者の抽選や当選者への連絡、志願者の審査などに携わっている。僕の用件はログが残るオンラインでは伝えにくい内容だったのと、その他にも目的があって直接赴いたというわけだ。

「原さん」

「……なんでしょう」

 原さんはディスプレイから目をそらさず、キーボードをタイプしながら返事をした。黒髪を後ろでまとめ、眼鏡が似合う、スレンダーで知的な印象の女性だ。ブラウスにベージュのパンツというシンプルなコーディネートも好感が持てる。

「悪いんだけど、また例のアレをお願いしたくて」

 周囲に感づかれないよう、小声で喋る。

「……IDを教えてください」

 あまり気が乗らない様子の原さんに、個人を特定するIDを伝えた。戸籍が登録されている人間なら、世界中の誰でも割り振られている固有のナンバーだ。

「畠山さん……この方ですか?」

「そうそう、優秀な男なんだ。頼むよ」

「黙認されているとはいえ、本来は推奨されていないことです。片棒を担がされる私の身にもなってください」

「すまない。こんなこと、原さんにしか頼めなくてさ。もし何かあったら僕が責任を取るから」

 歳は少し離れているが、原さんとは同じ大学出身ということで多少の繋がりがある。もっとも、いつも冷ややかな感じなので、あまり好かれていないのかもしれないが。

「……手続きしておきました」

「ありがとう。恩に着るよ……ええと」

「まだ何か?」

 原さんは変わらない調子で尋ねた。

「いつも迷惑かけてるからさ、お詫びに、今度、食事でも奢らせてもらえないかなと思って……」

 キーボードを打ち込む手が止まった。

「そ、そういうことなら、後で予定をすりあわせましょう。私はいつでも空いてますけど……」

 原さんはこちらに向き直り、笑みをこぼした。彼女の笑顔を見たのは初めてかもしれない。意外な反応にこちらも面食らったが、ひとまず断られなくて良かった。


 *


 半年後。僕は見送りのため、火星へと向かうシャトルの発射場に来ていた。

「畠山ー!」

 シャトルへと向かう人々の中に畠山の顔を見つけ、声をかける。彼はこちらに気づくと笑顔になって寄ってきた。

「小川! 来てくれたのか」

 畠山に続いて美人の女性と小さい男の子が二人ついてきて、頭を下げた。彼の妻子だろう。

「見送りにと思って。……すまない、結局君たちを火星に行かせることになってしまった」

「お前のせいじゃないさ。これも運命だ。向こうじゃ医者がいくらいても困らないらしいから、オレも頑張り甲斐があるよ」

 畠山に僕を責める様子はまったくなかった。それどころか、自らの使命を果たそうと燃えているようだ。さすがに僕が見込んだだけはある。

「まだ飲みに行く約束は果たせてないからな。もしお前が火星に来たら、絶対に連絡してくれよ」

「ああ、約束する」

 僕たちは固い握手を交わした。畠山の手のひらからは強い決意と勇気がほとばしっていた。

 しばらく後、シャトルは火星に向けて飛び立った。僕はいつまでも空を見上げ、シャトルを見送っていた。赦してくれ、畠山。こうするしかなかったんだ。


 あと数ヶ月で、地球に招かれざる客がやってくる。

 それは、関係者の間では「トリュフ」と呼ばれていた。見た目が高級食材のトリュフ、あるいはそれを模したチョコレートに似ているからだろう。

 名前はかわいらしいが、その正体は直径200kmを超える巨大な小惑星である。そして、そのトリュフが地球目がけて接近しているのだ。現在の技術ではこれを破壊したり、あるいは軌道を変更させたりすることは困難であり、地球との衝突は免れないだろうと考えられている。

 このことを知っているのは火星移住機構や天文学の関係者、各国の首脳や要人、ごく一部の富裕層くらいのものだ。情報自体が厳重に秘匿されているため、マスコミやSNSによって報じられることもない。

 トリュフが地球に衝突すれば、その直接的な被害だけでなく、恐竜たちを絶滅に追い込んだような気候変動が起こるだろうと考えられている。一部の人間は各地に設置された核シェルターに逃げ込めるが、大多数の人々は地上に取り残されることになる。文明は衰退し、人類は滅亡への道を辿るだろう。

 そこで提唱されたのが火星への移住だった。トリュフが地球に衝突すると判明してから急ピッチで移住計画が進められ、今では地球からの物資に頼ることなく自給自足できる態勢が確立されている。仮に地球の人類が絶滅したとしても、火星で種は保存されるというわけだ。


 火星に送られる人々については、畠山が推測したように、審査によって適格者がピックアップされていた。抽選というのは嘘だ。

 移住者は能力や人間性、健康面などを総合的に評価して選ばれる。いくら一芸に秀でていても、人格的に問題のある人はほとんど除外される。

 僕は原さんに頼み、畠山を移住者として推薦した。褒められたことではないが、機構の関係者が身内や親しい人を推薦するのは当たり前のように行われていた。もっとも、最終的に移住者として認定されるかは上の判断によるのだが。

 地上は恐らく人が住めない環境になるだろう。しかし、ほとんどの一般人はシェルターに入れないし、トリュフの落下地点によってはシェルターごと押しつぶされる恐れもあるだろう。

 つまり、地球に残るよりは、火星に移住した方が生き残る確率はかなり高くなる。だから僕は畠山に嘘をつき、彼を裏切るような真似までして、火星に行かせるよう推薦したのだ。火星での暮らしは決して楽ではないだろうが、少なくともトリュフとその影響によって命を落とすことはないはずだ。


「小川さん」

 空を見上げたまま畠山一家のことを考えていると、同じく知人の見送りに来ていた原さんが戻ってきた。発射場までは一緒に来たのだが、それぞれの見送りのため一旦離れていたのだ。僕たちは車に乗り込み、市街地へと向かった。

「私たちも、そろそろですね」

 助手席の原さんが独り言のように言った。今日は少し肌寒いせいか、黒のトレンチコートを着込んでいる。

「うん、恐らく来月には火星に向かうことになるだろうね」

 火星移住機構の関係者は、地球に残りたいという希望がない限り、火星への移住が無条件で認められていた。トリュフのことを黙っている口止め料のようなものだろう。

 元々、僕は地球に残るつもりでいた(その場合もシェルターに入れてもらえることになっていた)。大災害が起こると知っていながら、自分は安全なところに避難するという行為に後ろめたさを感じていたせいだ。

 しかし、あの日畠山と話をして、火星に行って一生懸命生きようと決意した。どのみち僕の力では全人類を救うことはできない。それなら、与えられた権利を行使して、自分のできることをまっとうしようと。

「ねえ、原さん」

 返事はなかったが、彼女がこちらを向いたのはわかった。

「火星に行ったら、一緒に暮らさないか」

 すぐに返事はなかった。自動運転なのでずっと前を向いている必要はないのだが、僕はレーサーのようにハンドルを握りしめ、進行方向を凝視していた。

「それって、プロポーズですか?」

 原さんの声はどこか寂しそうで、若干不満げに聞こえた。

「あ、ああ、えっと、そう、なのかな……」

 予想していた反応とかなり違っていたせいで、僕はすっかり狼狽してしまった。

「ちょっと、車停めてもらえませんか」

 次の言葉には明確な非難が込められていた。機嫌を損ねてしまったのだろうか。ひとまず安全なところで停車し、彼女に言われるがまま車を降りた。辺りはそろそろ日が暮れようとしている。風が冷たい。

 向き合った原さんは、少し怒っているような、あるいは緊張しているような、要するに何かを言いたそうな顔をしていた。

「これは、私のわがままなんですけど、こういうときは、きちんとしてほしいんです。さりげなく、ついでにって感じじゃなくて……一生に一度のことですから」

 原さんは目を合わせないで言った。恥ずかしさをこらえているのだろう。

「ごめん……ちょっと無神経だったね」

 そうだ。これは伝われば良いという類いの言葉ではない。反省して、もう一度気合いを入れ直す。

「原さん。僕と結婚してください」

 顔を上げた原さんと目が合った。眼鏡の奥の瞳はそれまで見たことのないような感情――恐らくは大いなる歓び――を湛えていた。

「はい」

 頷いて、原さんは僕の胸に顔を埋めた。僕は彼女の背中に腕を回した。

 僕にできることはそれほど多くない。だけど、原さんだけは僕が護ってみせる。彼女を笑顔にするための努力は惜しまない。そして子供を授かることができたら、可能な限りの愛情を注ごう。僕たちは生きるチャンスを与えられたのだから。

 そんな誓いを込めて原さんの髪を撫でると、彼女もそれに応えるように、僕をきつく抱きしめた。

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Mars 土芥 枝葉 @1430352

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