おまえ本当に俺のカノジョなの?

落合祐輔/MF文庫J編集部

第1話

     第一章 自分リスタートで手にした理想


第一話


 学校は社会の縮図であると、どこかの哲学者は説いている。

 けどはっきり言って、俺はその考えを理不尽極まりないと思っていた。


 当人は『縮図である。なので社会での生き方を学校という与えられた環境でたくさん学びなさい』と言いたいんだろうけど、身をもって学んだときには再起不能なところにまで突き落とされるのが学校だ。


 なぜなら縮図である以上、受けるダメージも濃縮される。一般社会での『些細なミス』程度でさえ、学校では致命傷になりかねない。

 義務教育のたかだか九年の間に、そんなことで癒えない心の傷を負い、それを抱えたまま社会に出ろ? それが学びだって? ふざけるなと言いたい。


 ……けど悲しいかな、そんな理不尽こそが社会の揺るがぬ現実であり、真理でもある。


 だからもし社会の縮図から転げ落ちてしまったときは――素直に逃げてしまうのが一番だ。別にそれは恥ずかしいことじゃない。


 なぜなら、俺こと小(お)野(の)瀬(せ)優(ゆう)哉(や)も逃げた口だし。

 そりゃあもう、すたこらさっさとね。


 中学までの義務教育が終われば、一気に選択肢は広がる。逃げの一手を選び、新たな環境とまっさらな状態で、自分の違う可能性を模索するのも大いにありだ。極端な話、高校へ行かないって選択肢もある。


 ただ将来のことをちょっとでも考えるなら、せめて高校はちゃんと卒業しておきたい。そう考えるのはもっともな話。俺もそれについては結構悩んだ。


 悩んだ結果――俺は、高校への進学を前提に『逃げる』ことにした。


 逃げた先の新天地で、まっさらな状態から自分の新たな可能性を模索し、今度こそ青春を謳歌してやると心に決めた。


 ……まあ要するに、『高校デビューを目指すぜ!』ってことだ。


     § § §


 高校デビューを決意した中学三年の中頃から季節は流れ、一年と半年後。

 高校二年の五月の頭。ブレザーを着ていると汗ばむことも多くなる、そんな時期。


 始業前の喧騒をかき分けるように教室へ踏み込んだ俺は、近くのクラスメイトにいつもの調子で声をかける。


「よう菊地、おはよう」

「おーす、小野瀬。さっそくなんだけど、今日の英語の和訳んところ見せてくんね?」


 顔の前で手を合わせて頼み込むのは、この二年三組の教室内で一番の仲と言っても過言ではない友人、菊(きく)地(ち)翔(しょう)太(た)だ。


「なんだよ、またやって来てないのかよ」

「やって来たって! ただ、わかんないから白紙のまま持ってきただけ」

「それを『やって来てない』って言うの! しょうがないな、あとでそっち行くよ……」


 彼のそばを通り過ぎながら、俺はそんな悪態をつく。

 教室内を歩きながら、俺はゲラゲラ笑いながらバカなことをやってる男子達や、グループでダベっている女子にも軽く声をかけた。


「はよー小野瀬ー!」「小野瀬くんだー。おはおはー」


 みんなが返してくれる返事を耳にしながら、俺は自分の席に腰を下ろす。

 すると、席に着いたばかりの俺の下へ、ひとりの女子生徒が小走りにやってきた。


「優哉優哉! おっはよー!」


 上だけジャージを着ているその女子生徒は、とびっきり明るい笑顔を俺に向けてきた。


「おはよう……てか、相変わらず遙香はうるさいなー。朝から元気すぎるでしょ」

「はあ? 朝だから元気なんでしょうよ。むしろあたし的には、優哉のテンションが低すぎなんだと思うわけであります! ……へへっ」


 ピシッと敬礼したあと、クシャッと崩した笑顔を見せたこの子の名前は、美(み)山(やま)遙(はる)香(か)。陸上部に所属する、とにかく天真爛漫なのが持ち味の女の子だ。


 背丈は平均的だが、陸上で鍛えられたモデル並みの細身なスタイルが特徴。

 スカートから伸びる素足も引き締まっていて、ほんのりと小麦色なのが健康的だ。


「んなことより、聞いてよ優哉!」


 遙香は顔をグッと俺に近づける。近い近い。


「あのね、昨日あたしさー」

「え、やだ」

「練習でさー」

「だから、やだって」

「人が話してんだから最後まで聞くの!」

「強引だな! まあいいや。んで? どうした?」


 遙香はとにかく体を動かしていないと落ち着かないタイプだった。

 普通に話しているだけなのに赤茶色のセミロングがサラサラと揺れる。


「昨日、自己ベスト叩き出したの。二〇〇メートルで二十七秒五二! いぇいっ!」

「へぇ、おめでと。てか、それって早いの?」

「んにゃ? ぜーんぜん。あははっ」

「全然かよ!」


 ケラケラと遙香は笑った。

 とんでもない記録を叩き出したかのような口ぶりだったから、なんか拍子抜けだ。


「女子の二〇〇だと、高校の記録が二十三秒台、日本記録ともなれば二十二秒台だからね。まだまだ上には上がいるわけですよー」

「でもあと三秒ちょいにまで近づいたんだろ? 充分すごいことじゃん。自信持てって」


 俺は別段足が速いわけじゃないから、やっぱり記録を出せる人って素直に尊敬できる。

 だから、思ったまま感じたままの素直な感想を口にした。


 すると遙香は、ちょっとだけ面食らったような表情を作ったあと、にへら~と笑う。


「あんがと。でもその三秒の壁がさ、実はめちゃくちゃ厚いし硬いのよ」


 と、照れ臭そうに続けた。


「それこそまるでAティ……んにゃ、なんでもない」

「……ん?」


 なんだ? 急に言いかけたのをやめたりして。


「まあ、並の選手じゃなかなか破れない記録だからさ! もっと練習がんばんないとなーって話! あと優哉に自慢したかった」

「なんだよそれ。……まあ、がんばれよ。応援してるからさ」

「うん! ありがとっ」


 ニパッと笑う遙香。自然とこっちまで顔が綻んでしまう。

 遙香が自分の元いた女子グループに呼び戻されたのは、ちょうどそのときだった。


「そんじゃね、優哉っ」

「おう」


 軽く言葉を交わしてから、遙香は俺の元を去っていく。


 遙香とは去年も同じクラスで、ああいった人懐っこい性格なのもあって、わりとすぐ仲よくなった女子生徒だ。むしろこのクラス内だけでなく、同学年の女子生徒の中ではダントツで仲がいいんじゃないかな。お互いを下の名で呼び合っているぐらいだし。


 しかも遙香は、明るく笑顔を絶やさないかわいらしさや、爽やかで軽快なノリと話しやすさから、校内でもけっこうな人気の女の子だ。


 そんな子が、こうして登校して早々俺に話しかけてきてくれる。変に緊張するような間柄ではなく、気を遣わずに冗談も言い合える、言わば友達以上恋人未満な距離感で。


 素晴らしい青春模様だ。俺はこの感動をじっくりと味わうように目を閉じた。

 一方で心はさっきからウキウキのうはうは。うっかり顔がにやけそうなのを隠す。 


「なーに鼻の下伸ばしてんだよ小野瀬ー」


 突然、ガシッと肩を組まれる。

 驚いて顔を向けると、菊地がニヤニヤしていた。


「早くノート見せてくれよぉ。授業始まっちゃうって」

「わかったわかった! 準備するから首は絞めるなって! ギブギブ!」


 菊地の腕を叩いてチョークスリーパーを解かせる。ぶつくさ文句を言いながら自分の席へ戻る菊地を眺めつつ、俺はノートを取り出して席を立った。


 ……これが俺の、いつもの朝の光景だ。


 窓際の席で静かにひとりの世界を楽しんでいるわけでも、スクールカースト上位グループの一員になって教室を牛耳ってるわけでもない。

 みんなとのほどよい距離感、気持ちいい環境、ゆるーい交友関係。

 これこそが、高校デビューを決意した俺が求め、そして手に入れた青春だった。


 ――ふと、俺のポケットの中でスマホが震えた。

 取り出してみると、遙香からラインが届いていた。

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