カエル先生のひとりごと

三日月次郎

第1話 教員の自白主義

 「山田の財布な、おまえが盗ったんだろう?」


 「盗ってません。」


 「おまえがやったとしか思えないんだよ。」


 「僕じゃありません。」


 「お前が盗るのを見てた奴もいるんだよ。」


 「僕じゃないです。」


 「んじゃ、なんでお前のカバンに入ってたんだ?」


 「わかりません。」



 というような教師と生徒のやり取りを、僕らはどれだけ繰り返せばいいんだろう?

 

 無実を訴える生徒は本当にやっていないかもしれない。あるいはウソをつき続けているのかもしれない。あるいは、ウソをついているうちにそれが本当だと信じてしまったのかもしれない。

 

 こんなとき教師が聞きたい言葉はたったひとつ。


「すみません。僕がやりました。」


 この一言で、すべては解決に向かう。そう信じている教師は今も多い。


 「もう、いいだろ? 頼むからさあ、やったって言ってくれ。そうすれば悪いようにはしないから。もし、認めてくれたらお前がやったことをチャラにしてやるよ。停学とかにしないから。な? お前がやったって言ってくれよ。え? やってない? 困ったなあ。よおしわかった。もしお前が認めてくれたら、先生、かつ丼おごってやるぞ? え? やだ? うな重? もう、しょうがないなあ。え? やっぱりやだ?

 わかった、もうこうなったらおまえが山田から盗った五千円、先生が出すよ! な?ほら五千円。もってけドロボー!」


 自白をとるのに必死すぎて、こんなことを言いだす教師もきっといるだろう。


 いろいろ間違っているので、どこから話せばいいかわからなくなるけど、とりあえず一番間違っているのは、「自分の罪を認める発言は真実である」という思い込みである。冷静に考えれば、本当はなにもやってない人間が「僕がやりました。」と言う例はこの世の中にいくらでもあるだろう。

 

 あと、もう一つ、「真実は明らかにできる」という思い込みである。


 たとえば、誰もいない部屋のテーブルにケーキがあった。そこにA君が入って行って、出てきた。A君の口の周りにはクリームがついており、テーブルにあったはずのケーキは食べられていた。僕らはA君が入っていくところと出てきたところしか見ていない。

 

 誰がケーキを食べたのか?


 そりゃ、A君に決まっている。だよね?A君?


「いや、僕じゃありません。僕が部屋に入った時には、もうケーキは食べられていました。そんで、口の周りになにか冷たいものが当たったと思ったら、それがクリームでした。僕がドアを開けたときに、小さな影がドアのすき間から出ていくのが見えました。ひょっとするとあれコロボックルだったかも…。」


 ああ、そうかあ、コロボックルかあ。ごめんごめん疑っちゃって。コロボックルが君に罪を被せるために君の口の周りを狙ってクリームをぶつけて逃げたんだよねえ。そうかあ。そうなんだねえ。


 という話があったとしよう。


 厳密に言えば、A君の話をすべて嘘だと決めつけるほどの知識を我々人類は有していない。なので、A君のコロボックル話が本当だった可能性はゼロではない。ならば、はたしてA君はケーキを食べたかどとがめられてもよいのか?


 答えはYESである。


 ここまでこれだけ変なこと言ってきた割にはまともな結論でしょ?ただし、ので、僕らは宿命的に。どんなことに関しても。(これ大事。)


 なので、A君に対する俺の言葉は次のようになる。


 「君が、コロボックルを見たという話をしようが神様を見たという話をしようが、それは君がケーキを食べたという話をするのと同じことで、その場にいなかった先生が真実を知ることはない、ということに変わりはないのだよ。本当のことを言えば、人間は誰も真実を知ることはないんだよね。まあ、それはムズい話だから置いといて、つまり、君が何を言っても、俺にはホントに起こったことはわからないんだよ。だから、人間はある出来事が起こった時に、『原則としてその場に居合わせた、その出来事を起こしうるものに責任を持たせる』という約束をしたんだ。残念だが、今のところほかの誰もコロボックルを見ていないので、ここで重要なのは『A君がケーキを食べることができた』ということと、『他にケーキを食べることができたやつが確認されていない』ということ。本当にコロボックルがいるかもしれないし、個人的にはいて欲しいとさえ思う。でも、コロボックルがそこにいたことが証明できない限り、俺はコロボックルがそこにいた可能性もココロに浮かべながら、A君に責任を持たせることができるんだよ。」


 だって、そういう約束だから。


 え? そんな約束した覚えがない?


 自分がした覚えがないけど守らなきゃいけない約束があるんだよ。世の中にはね。しかもわりとたくさん。


『動かぬ証拠』という言葉があるけれど、この言葉は『証拠』が動くものだということを暗に示している。『ホントの事実』を知ることは僕らには不可能なので、『証拠』によって推測されることを『事実』と名付けてよいという約束を僕らはしている。


 だから、口の周りにクリームをつけて誰もいない部屋から出てきたA君は、本人が認めようが認めまいが、本当はコロボックルがいようがいまいが、そんなことは関係なく「ケーキを食べた」のだ。


 そして、その『事実』はだいたい『ホントの事実』に近い。


 でも、『事実』と『ホントの事実』が違うってことを知っているのは大切なことなんだよね。こうやって考えると、死刑とか廃止した方がいいって思ってる人は、そういうことがよくわかっている人だと思う。


 だって、もしホントにコロボックルがいたら、A君かわいそうじゃん。死刑とかになったら取り返しつかないじゃん。(まあ、ケーキ食べたくらいじゃ死刑にはならないが。)


 

 長い話だったけど、結局、なにか起こった時に生徒の自白は無くてもいいのです。「黙ってねーでなんとか言えよコラ!」というのも必要ありません。それよりも、「君が大人になって罪を犯して警察に捕まったときには、自白を強要することは禁じられているんだから、黙っててもいいんだよ。」と教えてあげましょう。



 「先生、それでも俺、やってません!」


 「そうか、ざーんねん。でも、これこれこういう状況で、こういうことがあったんだよね。これ、間違いないよね。」


 「ええ、それは間違いないですけど…。」


 「あと、これこれこういうこともあったの。そしたらやっぱ君のせいだということに決まりました。」


「俺がやってないって言ってるのに、勝手に決めるんですか?」


「うん。君がなんて言おうと関係ないの。」


「それ、ひどくないですか?」


「ひどくないの。だって、逆に君のせいじゃないことが起きたときは、いくら君が『俺がやった』って言っても君に責任をとらせたりしないからね。君がなんて言おうと関係ないの。」


「でも、俺やってないって言ってるのに…」


「うん。君が『やってない』って言うことは、君がやってないことの理由にならないんだよね。もしそんなことが理由になるなら、どんな犯罪を犯しても『やってない』って言えばやってないことになっちゃうもんね。」


「…」


 これで解決。めでたしめでたし。 


 え?生徒にそんなひどいことは言えない? ゆっくり話せば、きっと正直に話をしてくれる? そう思う先生はそうすればよいと思います。ホントに。 もう、俺に言わせればそれは趣味の世界なので、なにがいいとか悪いとかじゃないんだよね。


 自白・告白を素直に真実として受け止める気質は日本人に独特なものかもしれない。ちょっと自分の身を振り返れば、自分自身の善悪について他人に正直に言うことがどれだけ難しいかがわかると思うが、自分にできないことをどうして他人ができると信じられるんだろう? フシギ。


 あーあ、なんだか長くてつまらなくなっちゃったなあ。失敬失敬。

 


 


 


 


 

 

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