卵をさがす日々

@shami101

第1話 

 私の夢は、お母さんになることだった。

 夢?というかそれは予定。大学生が抱く、「今通っている大学を卒業したら、とりあえずはどこかの会社に就職して働くのだ」という意識と同等の、わずかな差はあれど確実にやってくる未来。

 夫や子どもより早起きして洗濯をする。たまには手作りのジャムやパンで朝ご飯にする。子どもの手を引き、ベビーカーを押して散歩に出かける。ケーキ屋や薬局の前の古ぼけたプラスチックの人形に挨拶をする。自分の将来を想像するときは、必ずその類の情景が頭に浮かんだ。働いているかどうかは、どちらでもよかった。働いてもいいとは思っていたけどそれはおそらく家計のためのパート程度であり、自己実現とか、自分の生業という意識からくるものではなかった。時代錯誤と苦笑されようと、つまらない女だと言われようとかまわなかった。それが私の理想だったから。



 それがどうやら叶わないとわかって、さて私は、どうすれば良いのだろう。



 朝は大体6時半ごろ起きる。トイレへ行き、顔を洗って髪を束ねる。やかんでお湯をわかす間に、台所で適当なストレッチをする。何年か前まで習っていたヨガを思い出しながら、でも面倒な部分はすべて省いてかなり自己流に。沸いたお湯をカップに入れて、カーテンを開け、ベランダに出る。まだ白っぽいピンクがかった朝の空をぼんやりと眺め、ちびりちびりと白湯を飲む。飲み終わったら、さて今日も一日よろしく、と心の中でつぶやく。誰にともなく。出勤のない私の儀式のようなものだ。

 新聞受けから朝刊を取り出してテーブルに置き、タイマー設定してあった炊飯器を開けてかきまぜ、味噌汁をつくる。大体このあたりで、私の夫が起きだしてくる音がする。時計をちらりと見る、7時5分。

「おはよう~~」

「おはよう。榮ちゃん、目玉焼きとだしまきどっちがいい」

「めだまやき~~」


 うなるように言って洗面所へ消えていく。跳ね放題の寝ぐせで、頭がだいぶへんな形になっている。182cm、グレーのスウェットの上下を着て、もふもふのボアのルームシューズをはいている(築30年のこのアパートは板張りで、冬はとても寒い)榮太郎は、本当にくまのようだ。出会って7年、恋人になって6年、結婚して4年。もとから老け顔の同い年の彼は32歳の今、見た目と実年齢がだいぶ一致してきているように思えた。


 目玉焼き、アスパラとベーコンの炒め物、ねぎとわかめのお味噌汁に、白ご飯。いただきものの味のりをテーブルにならべ、ほうじ茶を入れていると、寝ぐせを直しひげを剃っていっぱしの社会人のような顔をした榮太郎がやってきて席に着いた。

「いただきます」

「はいいただきます」

テレビをつけるのは、いつも榮太郎だ。かわいらしいアナウンサーが、事件や政治のトピックを説明してくれる。2人でそれを聞きながらああだこうだと言い合う。

「今日、晩御飯は?」

 接待や部署内飲み会の多い営業職の榮太郎にこれを聞くのは、私の朝の習慣だ。これを聞くたび、奥様みたい、と思う。あなた、今日の晩御飯は?実際私は今、榮ちゃんの奥様、以外の何者でもないのだけれど。

「いる。9時ごろになるから、下によるよ」

「わかった」

 のりをぱりぱりとかじりながらうなずいた。下、というのは私のいちおうの職場だ。

「今夜は、何にするの」

 榮太郎は食べ終わった食器を手早く重ね、流しに運びながら私に聞く。

「どうしようかなあ。今日は来る人が多いみたいだから、大鍋で作っておけるような。豚汁とかカレーとか」

「あ、俺豚汁がいい」

「じゃそうしましょう」

 おぅ、と榮ちゃんはうれしそうにうなずき、スーツの上着を着ると、コートとカバンを片手に持つ。7時50分。勤めている人はすごいなあと思う。毎日同じ時間に起き、支度をして、間に合うよう一つの場所に通うのだ。2年位前まで私も当然にしていたこと。世の中の流れ。その果てしなさを思う。

 玄関まで見送りに出る。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます。桃、今日は、出かける用事はないの?」

「別に。スーパーは行くけど。どうして?」

「そっか。いやなんでもないけど。じゃ、行ってきます」

 榮ちゃんはもう一度行って、ドアを開ける。ふりかえりざま、

「下さ、嫌になったらいつでもやめていいんだからな」

 と言った。私が何か言う前に、足早に去っていく。

 

 出かける用事ないの‽榮ちゃんはしょっちゅう私に聞く。友人とランチ、ヨガのおけいこ、服を買いに出かける、そういうことを私にしてほしいのだ。しかし私が行くのは、近所のスーパーとクリーニング屋と銀行。徒歩10分の商店街ですべてが済んでしまうのだった。

 榮太郎を送り出してしまうと、私は朝ご飯の後片付けをして少し新聞を読む。家の中を片付けてそうじきをかけ、お風呂を洗った。回していた洗濯物をちゃっちゃと干す。時計を見ると、9時半を指していた。

 インスタントコーヒーを入れて、ひとやすみする。頭の中で今日の献立を考える。豚汁、豆腐サラダ、ひじきの煮物……あとはスーパーで安くなっているもので何か一品。

 今日は8人分作る予定だ。



 『池澤荘』という古風な名前の築30年のこのアパートは、4階建てで、1フロアに2部屋の全八戸。結婚して3年目の去年、私たちはここに越してきた。至って普通のアパートで、台所もお風呂もトイレも個別についている。けれど奇妙な点が一つあった。大家さんの清子さんは榮太郎の叔母さんで、一階に住んでいる。一階のもう一部屋は彼女の意向で食堂として開けてあり、店子は入れないことになっていた。その部屋のドアには小さいホワイトボードが下がっており、月曜から金曜の表になっている。夕飯を希望する人はそこに名前を書く。食堂の担当者が、それを見て夕飯を用意するというしくみだった。住人たちは、19時から21時半の好きな時間にやってくる。

 その「食堂のおばちゃん」が、今の私の仕事なのだった。




 

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