太陽の物語

「俺……俺が……?」

「そんなに驚く事かなー?」


 首を傾げている夏菜にはわからない。今の一言が、どれだけ俺の内側をかき乱しているかなんて。


「っていうか元ちゃん自身も思った事ない? えっちゃんに似てるなーとか」

「全然……」


 そんな事思うわけがないだろ。そっくりになりたい。なってやろうと真似してみても、全然無理だ、こんなの違うって匙投げちゃったくらいなんだからよ。


「そうなの? でもさでもさ、えっちゃんが元ちゃんに言ってたんだよ? 元気はあたしに似てるーって。覚えてない?」

「そんな事…………あ……!」


 覚えている。っていうか、思い出した。大切な事なのに。忘れてなんかいないはずなのに。どこか他人事のような感覚で、頭の中をフワついていた。貰った言葉を認められずにいたからなのだろうか。


 えっちゃんとほんとのバイバイをする前日。えっちゃんの病室に六人で行った最後の日。みんなそれぞれにえっちゃんに宛てた手紙を書いたんだ。そしたら、俺ら一人一人にお返事するから順番に病室に入ってくれって言われたんだ。そのトップバッターに選ばれたのが俺だった。


 団地で大暴れしていた頃よりやつれてしまってもまるで衰えない眩しい笑顔を浮かべながら、えっちゃんは俺に言った。


 えっちゃんみたいだね、元気は。えっちゃんが笑ってると楽しいでしょ? それと同じで、元気が笑ってるとえっちゃんも楽しいし、すっごく元気になれるんだ。えっちゃんだけじゃなくて、千華も美優も夏菜も修も奏太もみんなみーんなそうなの!


 少し言葉が前後しているかもしれないけれど、こういう言葉を貰った。それに俺はなんて返していいかわからなかったから首を傾げるばかりだったけど、はっきりと覚えている事がある。


 俺は、笑っていた。辛いのも寂しいのも泣きたいのも全部全部我慢して。


 俺が笑っていると元気になってくれるんだって言うなら、いっぱい笑って笑かして、いっぱい元気にしてあげたかったから。


 それに、嬉しかったんだ。えっちゃんに似てるって言われた事も。俺が笑ってると楽しいし、元気になるんだと言ってくれた事も。本当に本当に、嬉しかった。


 それが、最初で最後。えっちゃんみたいだなんて言われたのは、あの病室の中でだけ。


 あの日、あの数分間。ほんのちょっとの時間だったけど、俺には出来たのかな。えっちゃんを元気にしてあげる事が。


「っ……」


 ここまで思い出してふと気付く。目頭が熱くなっている自分に。そしてもう一つ。


「な、なあ……なんでお前がその話知ってんの?」

「ふえ!?」

「あの話をした時って、一人一人順番に病室に入って話してたはずなんだが。あの日以外にえっちゃんとそんな話をした記憶ねーぞ」

「そ、それはねっ、あのねっ、えっとねっ、えとえとあのあのそのこのどこのあの……」


 慌て始めた夏菜になるべく悟られないように親指で目元を拭うと、指の腹がきらりと輝きをまとった。


「白状します……あの時ね……元ちゃんとえっちゃんが話してる事……病室のドアの直ぐ前で待ってたら……聞こえちゃったの……ご、ごめんなさいっ!」

「いや、いいんだけどさ……」


 大方、えっちゃんととっても仲良しだった元ちゃんだから心配だなあとかそんな理由で、ドアに張り付いて出待ちしてたんだろ。幼稚園で悪さやらかして先生に怒られた時とかもそうだった。俺が怒られてる部屋の直ぐ前で、いつでも夏菜は待っててくれてたもんな。


「えと…………こ、こほんっ!」

「露骨な誤魔化し入りました」

「そ、そういうのじゃなくてっ。とにかくっ、えっちゃんの言ってた事は全部本当だし、全部私たちが知ってる事だよ。えっちゃんと元ちゃんはそっくりで、元ちゃんが笑ってると私たちは楽しい気持ちになるし、元気になれるの」

「いや全然違うだろ。俺とえっちゃんは」


 えっちゃんにはごめんなさいだけど、えっちゃんの評価が絶対だと思わない。事実、俺はえっちゃんに憧れて、えっちゃんの真似をしようとして、空回りするばかりで何も変わらなかったんだから。


「私もそう思う」

「似てるんじゃないのかよ」

「似てるけど違うの。当たり前でしょ? だって、元ちゃんは元ちゃんだもん」


 そんなの当たり前だと。お前は、えっちゃんじゃない。お前は、松葉元気だろうと。微笑みながら、夏菜は言う。


「元ちゃんとえっちゃんはすっごく似てるけど全然違う。でもね、元ちゃんもなれてるの。みんなの太陽みたいな人に!」

「……俺が?」

「うんうん! あ! そんな事なくないんだからね! 私が言うんだから間違いないんだからっ!」


 また否定されると思ったのか、先手を打ってきやがった。


「あーでもねでもね、それはあくまで今日までの元ちゃんの話ね!」

「う、うん?」

「これからの元ちゃんはもっと凄くなるんだから!」

「いやお前に断言されても……」

「え? だって、元ちゃんならなれるって私知ってるもん。それにね、えっちゃんも望んでる事だと思うんだー」

「望んでる事?」

「えーっと……えっちゃんなら……うーんと……あそうそう! 多分こんな感じ!」


 さっきの誤魔化しとは違う、喉の調子を整えるような咳払いを一つ挟んで、普段そんなに笑うっけくらいにっこりして、大きく息を吸い込んだ。


「あたしにそっくりだなんて凄い事なんだぞー元気ー! でもねでもねっ、いつか元気が大きくなったら、えっちゃんみたいになるんじゃなくて、えっちゃんよりずーっとずーっと凄い人になって欲しいなー! えっちゃんはそういう元気が好きだなー!」


 固まる俺。そして夏菜。冷たい風がぴゅーっと、俺らの間を走り抜けて行った。


「……は、はい……おしまいです…………」


 口を開いた途端、大きなくせに小さな夏菜に早変わり。膝に顔を埋めてしまった。


「えっちゃんのモノマネか?」

「うぅ……」


 顔を隠したまま首を縦に振っている。俺が受けたダメージに負けず劣らずの被害を被ったらしいが、完全なる自爆。自業自得だ。


「恥ずかしい……」

「じゃあやんなきゃいいのに」

「だって……わかりやすいかなって……でもでもっ、えっちゃんなら今みたいな事……言うんじゃないかなって……」

「……だな。絶対言うよそれ」

「でっ、でしょっ? だよねだよねーっ」

「絶対言うとは言ったけどモノマネが似てたとは言ってねえかんな?」

「あぅ……」


 更に縮こまってしまった。やり慣れてない事やるからだ、おバカさんめ。


 しかしまあ、えっちゃんならそう言うんだろうな。なんなら一字一句間違っちゃいないレベルでえっちゃんのトレース出来てたと思うわ。俺にだけじゃなくて、あいつらにも同じような事言うのだって目に浮かぶな。


 自分を目標にされるのは嬉しい。でも、自分止まりの人間になって欲しくない。そんな思いがあるのかな。


 そういえば、千華の耳にタコが出来るんじゃねえかくらい言ってたもんな。今はママの方が可愛いけど、大きくなったらママよりも可愛くなってねって。


 いつの日か、あたしを越えていけ、って。


 決まって千華は、もっちろん! って返すんだ。あの二人のやりとり、大好きだった。


 もちろん自分の願望もあるんだろうけど、千華ならばきっと、えっちゃんよりもデカくて可愛いヤツにになれるって信じてくれている、何よりの証だったと思うんだ、あの言葉は。


「え、えと…………私たちは……えっちゃんたち十二人の子供だから。いつか、パパママ軍団より凄い大人になる。私たちらしいまま、強くなって欲しい。それが私たちに望まれてる事だと思うの」


 親父とお袋。奏太パパと奏太ママ。修パパと修ママ。美優パパと美優ママ。夏菜パパと夏菜ママ。朝陽さんと、えっちゃん。


 自分の事で手一杯なもんで考えた事もなかった。みんなが、俺たちにどうなって欲しいと思っているのかなんて。


 みんな、俺たちに期待してくれている。俺たちを信じてくれている。俺たちを応援してくれているんだ。自分のガキが自分よりも小さく纏まっちまうなんて事、望んでるわけがねえんだよな。自分より可愛いくなれってえっちゃんが千華に願うのも、当たり前の事なんだ。


 そんなえっちゃんが、えっちゃん未満の存在であろうとするクソダサい俺を見て、笑ってくれるわけねーじゃんか。


「ああ……」


 こんなにも簡単な事に、どうして気が付けなかったんだろう。


「あーも……」

「元ちゃん?」

「寒くてブルっただけ。続けてどーぞ」

「う、うん……」


 悪い、冷えてなんかないんだわ。寧ろ熱いし、痛いまである。


 ずっとずっと冷えていた部分が微かに熱を帯び始め、急激に発生した寒暖差に体内のあちこちが悲鳴を上げている。強張る頬。震える手。酸素を求める金魚みたいにパクパクと不恰好かつ勝手気ままに動く口。バチバチとスパークし、何かが弾け飛びまくりで大荒れ模様の脳内。それと、微かに滲む視界。


 こんなにも当たり前で、こんなにも簡単な事に気が付いた途端、こんなにも痛い。痛過ぎて耐えられそうにない。でも耐えなきゃ。耐えなきゃダメなんだ。だって俺、気付いちゃったんだから。


 俺が愛する俺の世界を、俺に見られてなくとも支え、形作ってくれていた願いや祈りに。ならばもう、この痛みを知る以前の世界に戻る事も、縋る事も許されない。


「ぐっ……!」


 だから考えなきゃ。歯を食いしばって痛みに耐えながら考えるんだ。俺はこれからどうしたらいい? どうしたらえっちゃんを喜ばせてあげられる? あーいや、ちょっと待て俺。違うって。まず第一に考えなきゃいけないのは、俺自身の事だろ。


 やりたい事は逃げ腰で。なりたい自分は像を捉えられないままで。何もかもが中途半端なままここまで生きてしまった。どんどん臆病になっていく自分をどうする事も出来ないままに。


 それを悔やんでも仕方がない。もう取り戻せない物ばかり数えていては、大切な人たちの願いや期待に背を向けたままになってしまう。それはとてもとても、いけない事だ。


 だからこそ今日だ。今しかない。いきなりなんて難しいのかもしれないけど、臆病なだけの自分のまま自分を終わらせたくないのなら。この瞬間から、新しい道に進まなきゃ。ここを、松葉元気の未来を大きく左右する分岐点にするんだ。

 

「えと……だからね、私はそうなりたいの。それでね、いつかみんなに恩返しをしたい。育ててくれてありがとう。楽しい事とか嬉しい事とか、たくさん教えてくれてありがとう、って」


 黒い髪を夜風に踊らせながら語る夏菜が、たくさんの大切な事を教えてくれた今から。


 今日、この寒空の下で。松葉元気は、松葉元気をスタートさせるんだ。


「……お……」


 なんだ、まだビビってるのか俺。ああビビってるとも。でもよ、こんなにもシンプルな事だったんだからもう見えてんだろ? 俺はこれからどうするべきなのかも、どうなりたいかもさ。


 ほら、言えよ。ビビっていようともいけるさ。だって、それでも踏ん張ってこれたんだ。この十八年間、あいつらの前で。


「お?」


 まるで俺を正義のヒーローか何かを見るみたいに見てくれていた、こいつの前で。


「……俺もだ」

「元ちゃんも?」

「おうよ!」

「わっ!」


 あぐらの姿勢から勢い付けて後ろに倒れて半回転し、十四号棟の一番高い場所のど真ん中に突き刺すくらいの勢いでドンっと、二本の足でしっかりと立つ。


 いやー改めて立ってみるとめっちゃ眺めいいなここ。ここじゃない、何処か知らない世界まで見えちまってるよ。ヤベーわマジ。超寒いけどな。


「俺もなってやるよ」

「え?」

「お前の言うような、超つよつよな俺にさ」

「元ちゃん……!」


 何がそんなに嬉しいのか、めっちゃ笑顔になってらっしゃる。嬉しいのはこっちなんだけどなあ。


 こうしてお前とここにいる事も、俺の隣がいつでもお前だった事も。こんな俺でも強くなれるんだって教えてくれた事も。


 何もかもが嬉し過ぎて、いい具合の言葉が見つからねえよ。


「にしても、あのパンチ力のある大人たちを越えるかあ……めっちゃハードル高くね? いや高いな。ヤバい高いな……なんだかんだと社会的につよつよなヤツばっかだし……世界的に有名な億万長者いるし……」

「大丈夫! 元ちゃんなら絶対大丈夫っ!」

「マジ?」

「マジマジっ! だってサッカーの時とかもそうだったもん。相手が強くて有名なチームだったりすごーく体の大きな人たちであればあるほど、元ちゃん燃えてたもん!」

「あー」


 そういえばそうだった。相手が強ければ強いほど、障害が多ければ多いほど燃える。そんなガキじゃんか、俺ってヤツはよ。


「だから大丈夫っ。目の前にあるのがすっごい高い壁なら、それを乗り越えようって時にこそものすっっっっごいパワーを発揮するのが、私たちの元ちゃんだもん!」

「……だな!」

「うんうんっ!」


 そうそう、簡単だ。大きい壁なら、飛び越えりゃいいんだよ。


 そう言い聞かせ、小せえ体に小せえ肝っ玉詰め込んで、いつだってギラギラにメラメラで乗り越えてきたじゃんか。


 松葉元気は、そういうガキじゃねえか。


 なんだ、あるじゃん。俺には俺が、ちゃんとあるじゃんか。こういう俺を大きく強くしていきゃいいんだよ。


「はは……!」

「元ちゃんなんかいい感じだねっ!」

「うん? そうか? うーん、まあそうかもなー!」


 あーも、なんか久し振りだ、この感じ。どうして忘れてたんだろうな。


 ねえケイトさん。宿題その一に、俺なりの答えが用意出来たかもしれません。それを次会った時に胸を張って伝える為にも、ここから始めようと思います。


 心底憧れたえっちゃんよりも。そのえっちゃんの想いを独り占めしたクソデカい男、東雲朝陽よりも。俺の前でカッコいい背中を見せ続けていてくれる親父よりも。その親父を支え続けるパワフルなお袋よりも。あいつらのパパママよりも。あいつらよりも。そして、夏菜よりも。


 目に付く大切なもん全部を越えて。期待に応えて。すっげーでっけー男に。誰かの代わりなんかじゃない、唯一無二の存在に。この団地を離れちまうあいつらが、俺のいる団地に帰ってきたいと思えるような。どこにいたって見落とす事などないような、超ビッグで超イカした男になるんだ。チビなりにさ。


 大丈夫。俺ならなれる。まだ怖いけど、それでも大丈夫だ。だって、俺の事を一番知ってる女の子が言ってくれんだから。


「な、一つ確認」

「何?」

「俺って、やっぱ強い?」

「強い強い! つよつよー!」


 松葉元気は強いんだ、ってさ。


「そっか…………なら! マジつええとこ見せてかねーとなー!」

「見せて見せてー!」


 キャーキャーと笑顔で叫ぶ夏菜の姿は、白藤夏菜過激派のドンこと浅葱美優が夏菜の前で時たま見せる姿に似ていて、なんだか愉快な気持ちになった。


「でもっ」

「うん?」

「頑張り過ぎないでね?」


 なんだそりゃと首を傾げる俺を見てや、夏菜はくすくすと微笑んだ。


「これは自論なんだけど、強い人だから弱くない、って事じゃないと思ってるの」

「ほーん?」

「どんなに強い人でも、弱い所がちゃんとある。それはいけない事じゃなくて、むしろ人間として当たり前の事だと思うの。もっと言うと、どんなに強い人でも、ずっと強いままでいるのってものすごーくエネルギーを使う事だと思うし、抱えなくていい苦しみを抱えちゃうんじゃないかと思うの。そうなったらきっと大変だよ。抱えちゃった物をどうにかするのって」

「だから頑張り過ぎるな、ってか」

「うん。でもね、本当に強い人って意地も強かったりするから、きっと言ってくれないんだよね。今大変だよー辛いよーとか。大丈夫って私が聞いても、大丈夫だよーって言うだけだと思うの」

「あーいるなーそういうタイプ」

「元ちゃんもそういうタイプだからね?」

「そうか?」

「そうだよ」


 やっぱりわかってないと言いながら苦笑している。まあ、わかってたらここまで自分拗らせてないしな。


「だから私は…………元ちゃんのそういう部分を知りたいの」


 軽めの深呼吸を一度挟んで。


「頑張れない部分も知りたいの。いろんな元ちゃんを教えて欲しいの」


 膨れた頬を赤らめ、少し恥ずかしそうに。


「元ちゃんから言わせたらありがた迷惑っていうか普通に迷惑かもしれないけど、それを知っていればいざって時に、出来る事が必ずあるから」


 それでも、ひたすら真っ直ぐに。


「元ちゃんって器用なくせに不器用だし、目立ちたがり屋さんなのに恥ずかしがり屋さんだし照れ屋さんだし、よくない話はあんまりしたがらないのもわかってる。だから余計に抱え込んじゃって、この場所に置きに来てるんだよね」


 俺の目から視線を逸らさず。


「でもね、この場所を頼るより、私を頼って欲しいの」


 俺より少し年上なんだけど、ばっちり年下にしか見えない童顔で。


「元ちゃん一人じゃどうしようもない事とか、誰かに助けて欲しい時とか、絶対来ると思うから」


 まるで、ずっと年上のお姉さんみたいな。


「そんな時、一番最初に頭に浮かぶのが、私の顔だったらいいなって思うの」


 淡い微笑みを浮かべながら。


「今はまだ元ちゃんの遥か後ろにいるけど、遅いなりに全速力で追い付くから」


 いつでも夏菜の前を歩いていたはずの俺に向けて。


「それでね、元ちゃんが辛い時とか、一人で歩くのが苦しい時は、私が元ちゃんを追い越しちゃうの」


 夏菜は言う。


「それでねそれでね、私が元ちゃんの手を握って、引っ張ってあげるの」


 私が。


「まだまだへっぽこで頼りない私だけど。辛い事とか苦しい事とか悲しい事とか泣きたい事とか、もう全部全部の事から……」


 大きくて小さな背中で。手で。全てで。


「元ちゃんの事、守ってみせるから」


 俺を。絶対に。


 「……そか……」


 こんなのもう、告白以上だ。単なる好意だけとも慈愛や親愛とも違う、もっともっとデカいもんだろうが。


 なんだよそれ。強過ぎるだろ、お前。


「…………はっ!?」

「……どうした?」


 一人でテンパり出し始め、明後日の方向を向いてしまう夏菜。


 ああ、それ助かるわ。今こっち見られたら早速お前を心配させちまうし、お互い収拾付かなくなりそうだし。


 どうして泣いてるの?


 なんて、今言わせたくないじゃん?


「あ、あうぅ……は、恥ずかしいぃ……いっぱい……恥ずかしい事言っちゃった……」


 ほんとだよ。勘弁してくれ。


 口には出せない小さな文句と両目から溢れる雫をまとめて拭い取る。 大丈夫。今直ぐにでも取り繕ってみせるさ。明るいなりに卑屈に生きてきた十余年で会得してしまった下向きな特技なんでな。変なとこで役立っちまった。


「……なあ」


 ほら、もう元通り。あーごめん嘘。口元がヒクつくのをどうしようも出来ないわこれ。しかもなんだこれ。なんでこんな、心臓うるさいんだよ。


「な、なに……?」

「俺の事、お前が守る、だっけ?」

「はうっ!?」

「男のセリフだろそれ」

「でもでも本心だし……そうしたいと思うし……大切な事だと思うし……」

「それでもやっぱ言わねえって。うん、普通は言わないわ」

「あうぅ……」

「まーたふにゃふにゃあぅあぅして……デカイ事言っておきながら……やっぱ頼りねえなあ夏菜は」

「め、面目無い……でもでもっ。私だってやる時はやるんだからっ」

「俺が困った時とかか?」

「そ、そうそれ! 元ちゃんの誰より近くで、誰より力になるの! 私ならそれが出来るって、私は信じてるの!」


 まだ恥ずかしそうにだけど、チラチラとしか俺の目を見れてないけど。言えるんだな。そんなにも強くて、他の誰にも出来そうにない事を。


 本当、凄い女の子だよ、お前は。


「……じゃあよ、もしも俺がなんかどうしようもないってくらい辛い目に遭った時とか」

「私が元気付けてあげる!」

「いやセリフ食い過ぎ!」

「何かに悩んでるなら私も一緒に悩むし解決もしちゃう! 元ちゃんが泣きたい気持ちになった時は……えと……元ちゃんの分まで私が泣いたりも出来るっ!」

「なんだそりゃ」

「わ、笑わないのーっ! とにかくっ! 元ちゃん一人じゃ大変な事でも、私と一緒なら大丈夫! た、多分っ!」


 林檎みたいに真っ赤に染まった頬の高さまで握り込んだ二つの拳を上げながらふんすふんすと鼻息を荒げる姿は、短い人生の間で何度も何度も見てきた姿。夏菜がこういう仕草をする時は決まって空回りしたりしちまうのだが、今回ばかりはそうじゃなさそうだ。


 だって今、こんなにも頼もしい。こんなにも、近くにいて欲しいと思う。


「とことん頼りないな……」

「な、なんかごめん……」

「額面通りに受け取んなよ。真面目か」

「へ?」

「俺が何を考えてるかはお前の想像にまかせるよ。ん」

「ん?」

「手」

「手?」

「いいからほらっ」

「のわっ!?」


 ふらふら揺れる右手を掴み、無理矢理に夏菜を立ち上がらせる。混乱しながらも転んだりする事なくしっかり立ち上がった途端、見上げる事を強制させられる格好になった。くそぅ……やっぱデケェなこいつ……負けてらんねえなあ……!


「び、びっくり……いきなり手引っ張ったら危ないよっ」

「……約束するよ」

「や? やややっやや約束ぅ?」


 右手を繋いだままである事が気になるのか、どうにか平静を装おうと努めながらも全然出来ちゃいない夏菜。はいはい可愛い可愛い。そのまま聞いていてくれ。


「俺は……お前を頼るよ」

「はぇ?」

「何かあったら、お前を一番に頼る。いつでも。何処にいても。それでいいんだろ?」


 こんなの傍迷惑な話でしかない。聞きようによっちゃただの依存でしかねえし。でもさあ、この子ってばちょっと変わった所があるからさ。


「……うんっ!」


 喜んじまうんだ。笑顔になっちまうんだ。こんなにも面倒な事を全力で引き受けて、全力でこなしちゃうんだ。そして、やり遂げちまうんだ。


 そういう夏菜だから、放っておけなかった。だから、ずっと近くにいたんだ。


「なら、お前もだかんな」

「私も?」

「あったりめーだろおバカちゃん」

「おバカちゃん!?」

「なんで俺だけが夏菜みたいなへっぽこに強制的に頼りっ放しにならなきゃいけないんだ。そんなの違うだろ」

「へっぽこ!?」

「お前には俺と違って、頼れるヤツがたくさんいると思う」

「それは」

「例えば、今日の俺の予定をブッチさせてこの状況を作ったヤツとかな」

「はうっ!?」

「まあ誰かはわかんねーし、今更それはどうでもよくてだ……どれだけ頼れるヤツがいたとしても、俺を頼って欲しい。一番最初に頼らなくてもいい。ただどうしても、最後には俺を頼って欲しい」

「元ちゃん……」


 夏菜の右手を握る手に力が入ってしまっていけない。痛い思いさせちゃってないかな。


「あんまり考えなくていいよ。俺がそうしたいってだけなんだから。何、心配すんな。俺なら何もかも解決出来るから。なんて言ったって俺は……松葉元気様だからよ!」

「……うんっ!」

「へへ……!」


 小さな頃から変わらない、何処か小動物みを感じる笑顔が、俺の事まで笑顔にしてくれている。さっきは俺が笑うとうんたらかんたらーって言ってたけど、夏菜は夏菜で俺の事わかってねえとこあるよなあやっぱ。まあ言わんけど。だって恥ずかしいじゃん。


 お前の笑顔が、いつだって俺を笑顔にしてくれてたんだ、なんてさ。


「なーに、安心してくれていいぞ。俺はこの場所で、自分に嘘を言った事がねえんだ」


 何せ、嘘に出来ない辛い事や悲しい事を吐き出す場所だったからな。


 けど、今日を最後にしよう。そういう、下向きの事を吐き捨てに来るのは。だってこれからは、頼る先を変えるんだから。


「そうなの?」

「そ」

「そうなんだね……」

「そうなんだよ」

「……そっかそっかー!」

「だからそうなんだってば」

「えへへー!」

「何笑ってんだ」

「んふふー!」

「いやわかんねえから!」


 もはや意味不明に近い言葉の交換をしていると、繋いだ右手を縦に揺らし始めた。負けじと俺も縦に揺らし始めると、更にわけわからん空間になっちまった。いつも手を繋いで帰っていた幼稚園からの帰り道を思い出すなあ。


「まあ…………そんなだからさ」

「うん」

「今ならどんな事にだって嘘も偽りも誤魔化しもなく答えるぞ。逃げずに。ちゃんと」

「元ちゃん……」


 ブンブン揺らす手を止めて、目を丸くする夏菜。どうやら、意図は伝わったらしい。


 何せ今のは自分で宣言したようなもんだからな。今日まで嘘をつき、偽り、誤魔化し、逃げていた事があるのだと。


 すげー元気もらったし、勇気もらったし、強さをもらった。だから俺も俺なりに、返せるもので返さなくてはいけない。


 これはズルでもなんでもないし、なんならあの金髪の悪魔(下戸)に陥れられたまであるんだけど、数週間前に俺は知ってしまっていた。今夜の夏菜は、とびっきりの言葉を用意しているのだと。


 それを言わせてあげなきゃ。このままここから降りて、いつも通りでいようと努めるのは絶対に違う。


 もう、とっくに認めているんだ。


 何もわからないフリをしてきたのは。気が付かないフリをしてきたのは。夏菜から寄せられる気持ちにじゃない。俺自身の気持ちにだ。


 気が付けば十年以上。毎日毎日、自分を誤魔化し続けてきた。


 いっつも俺の後ろを歩く女の子。元ちゃん元ちゃんと甘ったれて、そのくせ助けを求める事はなかなかしないし、こっちから助けようものなら礼こそ言うけどちょっぴり不機嫌になったりするし。直ぐにあわわあわわするかと思えば急に頼もしくなってみせたり、やっぱりへっぽこだったり。鬱陶しいと感じた事もあるよ。俺にばっか小言寄越すしさあ、宿題やってなかったら強制的に勉強タイム設けたりとか。やってらんねえっての。


 そういう全部を引っくるめると、簡単な言葉になる。


 特別。大切。松葉元気を形作る上で、絶対に欠かす事の出来ない存在。


 ああもう、なんか悔しいな。でもこれ以上、嘘にするわけにいかねえよ。

 

 全てを知っていながらこの子から逃げるのは、もうしない。俺も、正しく俺を伝える。ついさっきそう決めたんだ。


 それが出来ない松葉元気になんて、もうなりたくないんだよ。


「じゃあ…………一つ、言っていい?」

「いいぞ」

「すーっ…………はーっ…………」

「深呼吸なんてしてどした? まさかまたはちゃめちゃな事言い出すんじゃねーだろうな?」

「ううん、そういうのじゃないの。ずっと昔から言いたかった事だったから……ちょっと緊張しちゃって……」

「もうちょっと待ってた方がいい?」

「ううん。もう待つのも待てするのもおしまいだから」

「そっか……」

「……元ちゃん」

「おう」

「大好き」

「んか」

「私と……付きあってください」


 男の俺からとか、そんなのどうでもよかった。今日この日、夏菜の決心を形にする事にこそ、大きな意味があるんだ。


「……返事するその前に、いいか?」

「う、うん……」


 だから、その次でいいんだと思う。


「夏菜が好きだ」

「…………ほえ?」


 ずっと隠してきた、ずっと変わらない俺の心を伝えるのは。


 大切じゃないわけがない。特別じゃないわけがない。嫌いになんてなれるわけがない。こんなにも大切に思われて。こんなにも特別に思われて。好きにならずに、いられるわけがない。


 いつからかずっとだ。ずっとずっと、こうだったよ。


「俺と付き合ってくれ」


 どんなにブンブン振り回してもテンパっても決して離そうとしなかった俺の右手から、夏菜の温もりが少しだけ遠退いた。


「なんだよ、ボケっとしやがってよ。言うだけ言って満足しちまったんかこら。まだやるべき事あるだろーが。あ、それでいくと俺にもあるか。いいぞ、付き合うか。つーか付き合ってくれお願いします。はい! 次お前の番な!」

「…………う」

「う?」

「っく…………うぇ……うぅ……!」

「おっと!」


 グッと手を引かれた。いや違うわ。夏菜がへたり込んだだけだ。


「ぐすっ……うぁ…………ふぇ……」

「おいおい……」


 小さな頃みたいに大きな声で泣き叫ぶなんて事はないけど、拭っても拭っても溢れ続ける雫を左手だけでなんとかしようとする姿は、あの頃と何も変わっていなかった。


「何か言う前に泣いちまったら正しく伝わらねーって」

「ら、らって……らってぇ……!」

「あーじゃあもう何も言わなくていいから首だけ振ってくれ。よーしじゃあもう一度言うぞー。俺と付き合ってくれ。はい、どーすんだ。ほれほれっ」


 一向に泣き止みそうにない夏菜を急かしてみると、直ぐだった。


「うん……うんうん……!」


 右手は俺と繋いだまま。左手で口元を隠しながら。何度も何度も、首を縦に振ってくれた。


「うっしゃ。んじゃまあこれからも……うん? これからも? なんかおかしいような気が……まあいいや! これからもよろしくな! 夏菜!」

「う……うぐふぅ……うえぇぇ……!」

「わーバカバカ声デカイって!」


 ねえ、ケイトさん。第二の宿題、あったでしょ? 夏菜とあいつらが俺にとってなんであるか。どうして大切なのかを考えろ、ってヤツ。


 あいつらがなんであるかって問題は答えを急がない方がいいっつーか、俺が勝手に答えを出せた気になっちゃいけないんだと思うんですよね。だって俺一人だけの事じゃないですし。って事でちょっとお時間もらいます。代わりに、ケイトさんが誇張してたとこだけ答えますよ。


 どうして俺にとって夏菜が特別なのか、でしたよね。いやほんと、呆れるくらいシンプルな答えが出ましたよ。


 どう特別とか言われても困るんですよ。特別に決まってるんだから。


 だって、好きなんだもん。


「げ、げんちゃ……」

「ん?」

「……め……めりーくりしゅまふ……」


 ああそうだ。今日、イブじゃん。俺の誕生日じゃん。日付け変わった途端に夏菜たちが押し掛けて来るあの瞬間がピークだからすっかり忘れてたわ。


「メリクリ! 最高の誕生日プレゼントをありがとよ!」

「ぐすっ……う、うぇ……!」


 言葉になりきらない感情を吐き出し続ける夏菜の背中を摩りながら夜空を見上げる。神様の所へ遊びに行ってしまったまま帰ってくる事のないあの人に、俺の心を届ける為に。


 えっちゃん。俺ね、えっちゃんより好きな人、出来たよ。


 そういえば、えっちゃんの言ってた通りになったね。ほら、言ってたじゃん。えっちゃんよりも大切にして欲しい女の子がいるんだって。それが誰なのか、俺自身が気付く日がいつか来るって。


 その、気付く日ってヤツ、もう来てたよ。具体的にいついつだってちょっと答えるのは難しいな。今日っちゃ今日だけど、遥か昔って言えば遥か昔だし。今と昔とじゃ、熱さというか重さというかその辺色々違う気がするんだけどね。難しいよなあ、人。でも、俺が夏菜に押し付けようとしてるもんはすげーシンプルなの。


 俺、本当に好きなんだ、夏菜の事が。


 うん。ほんと、これだけだわ。


 近いうちに報告に行くよ。あいつらと一緒にでもいいけど、ここは夏菜と二人で行こうかな。次回に限り、その方がえっちゃんも嬉しいんでしょ?


 わかってんじゃんかー! でかしたぞー元気ーっ!


 どんなに暗い世界の中でも燦然と輝くえっちゃんの笑顔が夜空に見えたような。聞き間違えるわけのない溌剌とした声が夜風に混じって聞こえたような。そんな気がした。


「……はは……!」

「う、うぇ?」

「なんでもねーからこっち見んな」

「んにゅ」


 すっかりぐしゃぐしゃになっちまった顔を左手で無理矢理下に向け、その隙にもう一回。ほんのちょっとだけ、泣いておく事にした。


 今日くらい許してよ。メソメソするのは今日で最後! なんで宣言が出来るほどまだタフじゃないもんでね。


 けど。いつか。そう遠くないうちに、なってみせるから。


「……ありがとね……」


 太陽みたいに眩しかったえっちゃんよりもっともっと眩しく輝く、世界一の幸せ者に!

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