遠くへ行きたい

わたなべ りえ

第1話


 遠くへいきたい……。


 冬の海の深い深い群青ぐんじょうを見たい。

 心が真っ青に染まるくらいの青を見たい。

 虚しさと釣合うような本当に冷たい青に出会ったら、何かが変わるかもしれない。

 そんな……気がした。



 ごとん、ごとん、とレールの繋ぎ目の音がする。

 凍りかけた曇りガラスにバッテン印を書いたら、隙間からトタン屋根の海が見えた。

 規則的に並んだ、三角屋根の住宅街。トタンはやや錆が浮いている家ばかりで、青い色がにごっていた。色はあるのだけれど、どこか無彩色に見えて、それでいて表面的で浅い感じがする。

 重たそうなどんよりとした雲よりも濃い灰色の煙が、家々の煙突から上がっている。するはずもない炭のにおいを感じた。

 さらに手のひらで霜を溶かして窓を拭き、流れる景色をぼおっと見ていたら、つい口から言葉が漏れていた。


「遠くへいきたい」


 列車は満員だったが、この寒いデッキには私と由香子しかいない。

 まるで他人同士のように目もあわせず、私は外を見ていて、由香子は連結部近くで小さくなって線路の音を聞いていた。

 だから、私の独り言だった。彼女の反応は期待していなかった。

 紺のダッフルコートの袖口に手をいれて、押し黙ったままの由香子だったが、小さくこくんとうなづいた。


「そうだね……このまま……遠くへいっちゃおうか……」


 列車に乗ってから、初めて由香子が口をきいた。



 ***



 まさか、落ちるとは思ってはいなかった。

 由香子も私も、星北大学英文科は楽勝だと思っていた。だから、二人で仲良く待ち合わせをして、いっしょに合格発表を見に行き、手を取り合って喜ぶことはあっても、暗くなることはないと思っていた。

 なのに……。


 ——二人揃って番号がない。


 気が遠くなりかけた私を支えたのは、由香子のほうだった。


「大丈夫だよ、国際コミュニケーション科があるから」


 星北大は三年前まで女子大だった。国際コミュニケーション科なるわけもわからない学科は男子学生を募集するために創設されたもので、英文科のすべり止めにもなっている。英文科のレベルは落としたくはないが、学生はほしいと思う私立大学の奥の手だ。


「ほら、ちゃんと番号が……」


 ぐったりしている私の横で、由香子の声が凍りついた。

 由香子の受験番号は、国際コミュニケーション科にすらなかった。




 帰り道は、真っ白だった。

 前日の雪がまだ白く、きれいなままだった。そして、またしんしんと降り始める。

 私と由香子は、四年間これから通うつもりだった大学の門を出て、駅までのどこまでも白い道を歩きつづけた。

 やっとたどり着いた駅は、外に比べて薄暗くて、がやがやとうるさい。人がいっぱいだった。

 水溜りとまではいかないが、床は雪が溶けて濡れていて、革のブーツの中が気持ち悪くなってきた。靴下が湿っている。

 雪で遅れがちの列車を待つ人たちが、駅の中央にあるストーブの前にたむろして、ゴム靴の焼ける臭いやウールの焦げたような臭いをさせている。

 各々の濡れたコートから湯気が上がり、寒いのにどこか蒸して息が詰まるようだ。

 私も由香子も、押しつぶされるような重たい空気の中で、ただ列車を待っていた。


 人のいないところに行きたかった。

 心のすべてを真っ青にするような、冷たい青が見たかった。

 心がカチンコチンに凍りついて、冷え切った心でお互いに寄り添えるような、そんな絶望に浸りたかった。


 一応は受かった私に、由香子はかける言葉を無くしている。

 私も、言葉を無くしている。


 一緒に見に来なければ良かった。本当は。

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