011 『オーライアー姫花』
「往来安全と言う言葉があるだろう」
確かどこかの道とかに、そんな石灯篭が立っていた気もする。
「その往来安全が何だって言うんですか?」
「往来安全だ、どうだい? この言葉は安全だと思うかい?」
「そりゃ、安全って入っているのだから、安全なんでしょう」
「いいや、往来安全の中にはライアーが含まれる。つまり、嘘だ」
「屁理屈じゃないですか」
しかし、姫先輩はそんな事は気にも止めずに、「まぁ、聞きたまえ」と話を続ける。
「物事は何事も疑わなければならない。たとえ、オーライと言われても素直にバックしてはいけない」
来安とライアーをかけて、その次は往来とオーライをかけた。一体どんな脳みそをしているのだろうか、この先輩は。本当によく頭が回る人だ。
その言葉遊びとも取れる駄洒落は、はっきり言ってお洒落な言い回しであり––––いや、実際に回っているのは口なのだが、でも口は出力装置に過ぎないので、やっぱり回っているのは頭なのだが––––なんとなく、彼女の話を聞き入ってしまう要素にはなっていた。
しかし、何を言いたいのかはさっぱり分からない。
「あの、姫先輩?」
「なんだ」
「その……結局、往来安全って何なんですか?」
「本来は、道行く人の安全を願って建てられた石灯篭に刻まれている文字だ」
やっぱり、俺の記憶は正しかったらしい。
「しかし、殆どの人がその文字を読むことが出来ない」
「何故ですか?」
「古い文字が使われているからだ」
姫先輩はそう言うと、メモ用紙を取り出し、彳辺に、山と書いて、山の下に土を付けた。
「これで、『往』と読む」
「全く分からないですね」
その文字は見た事もなければ、おそらくパソコンや、スマホの変換にも登録されてないような漢字であった。当然読めない。ただ、山と土を行き来するのを『往』と言うのは、理に適っている気もする。
「他の文字も大体こんな感じだ」
姫先輩はそう言いいながら、メモ用紙に残りの漢字も記入した。最後の『全』以外は、どれも見たこともない漢字だ。
「どうだい、読めるかい?」
「読めないです」
「そうだろう、つまりそこに石灯篭が立っていて、"何か書いてあるな"とは、分かるのだが、"何て書いてあるか"は、分からないわけだ」
「つまり、英語で書かれているようなものですか?」
ニュアンスは合っている、と姫先輩
「要はそこに書かれている文字が読めなければ、旅の安全を願われていても、気が付かないという事だ。仮にわたしが、クメール語で君に『愛している』と言っても、君にとっては意味の無い事になる。អូនស្រឡាញ់បង」
「ネェイティブ!」
クメール語などという、普通に生活をしていたら、一生知らないような言葉で告白されてしまった。
だが、俺には姫先輩がなんて言ったのかは当然分からないし、そもそも本当にクメール語なる言語を話したのかさえ怪しい。実際はなんか適当な事を即興で言っただけかもしれない。
知らなければ分からない。つまり、姫先輩が言いたいのは、こういう事だろう。
「要は、知識は多い方がいいって事ですか?」
「いや、一概にはそうとは言えない。イチゴミルクに使われている合成着色料『コチニール』の話くらいは君も知っているだろう」
聞いた事はある。確か、虫を原材料に使用しているとかいうアレだ。知った時は悶絶モノであった。
知らない方が幸せというのも確かに存在する。
世の中には、知らない方がいいこともある。
「時に君は、ブラジルで使われているポルトガル語が、どういうものか知っているかい?」
話が飛んだ。いや、俺が飛んだと思っただけで実際は––––つまり姫先輩の中では会話を飛ばした可能性もある。
「普通のポルトガル語じゃないんですか?」
いや少し違う、と姫先輩。
「例えば、リオなどのブラジル北部では、『R』を『ハ』と発音する事がある。ほら、ロナウジーニョもホナウジーニョと発音する事があるだろう」
姫先輩はロナウジーニョを知っているのかと、ちょっとした驚きもあったのだが、きっと何でも知っているのだろう。妙に博識だし。
「このRをハとする発音はポルトガル語にはないもので、ブラジル独自のものなんだ」
「英語でもアイルランド訛りは分かりづらいと聞いた事があります」
と、俺は知っている限りの知識を披露し姫先輩に無駄な対抗をしてみた。
「そうだ、英語を話せたとしても、それはほんの一部でしかなく、ちゃんと扱う為には、訛りも含める必要がある。例えばリヴァプール訛りでは、食べ物––––つまり、『Food』の事を『Scran』と言う。これは普通に勉強していたら、分からない事だ」
「日本語における方言みたいなものですか? 京都弁とか、博多弁とか」
「厳密には違うが、分かりやすく理解するならそれで構わない。それに、昔の流行の言葉も知っておく必要もある」
「それは日本で言う所の『ハイカラ』とか、『チョベリバ』とかですか?」
「いや、『候』や『拙者』だ」
「武士⁉︎」
「五百年前、それこそ二千年以上前から言葉は存在しているんだ。百年前の小説を読んでみたまえ、知らない言葉ばっかりで驚くぞ」
確かに百年くらい前に書かれた『吾輩は猫である』の文中には、いきなり『書生』と言う言葉が出てくる。こんな単語が日常会話で出てくる事は稀であろう。
話を最初に戻そう、と姫先輩。
「往来安全の文字が、昔の文字だと言うのは先程話したね」
「話したの大分前に感じますけどね」
姫先輩は古い文字で『往来安全』と書いたメモ用紙を指差した。
「君はもうこの文字が往来安全だと読めるだろう?」
「そりゃ、今姫先輩に教わりましたから」
「でも君はわたしに教わらなければ一生この文字は読めなかっただろうし、ブラジルのポルトガル語が少し違うだなんて知らなかったはずだ」
姫先輩は「でもね」と話を続ける。いや––––今までの話を全否定する。先日ノ割に言われた言葉で。
「今の話は全て嘘だ」
「……マジですか?」
「ほら、分からない。知識が無いから分からないんだ。判断材料が足りないから、分からない。嘘か真か見抜けない」
「そんな事言われたら、何も信じれないですよ……」
「そうだ、だから人は学ばなければならない。知識を得なくてはならなない––––遅刻はダメだぞ」
姫先輩はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
姫先輩も遅刻をしているし、そもそも遅刻したのは姫先輩のお使いのせいなのだけれど、俺は何も言い返せなかった––––ちょうどチャイムが鳴ったからだ。
「さぁ、授業は終わりだ。教室に戻りたまえ」
「姫先輩は教室に行かないんですか?」
「私はそろそろ帰る」
フリーダム過ぎる。遅刻と早退のダブルコンボである。だが、俺は姫先輩と違って教室にいかなければならない。
部室を出ようとカバンを持ち立ち上がるが、姫先輩に呼び止められた。
「なんですか?」
「マヨネーズ代を渡そう」
姫先輩はそう言って、一万円札を差し出してきた。
「こんなに、受け取れませんよ」
「何を言っている、一ヶ月分だ」
どうやら、またマヨネーズを買いに行かされるようだ……。
とりあえず、帰りに一つ買っておけば次に頼まれた時に、遅刻する事はないだろう。
ある意味、一つ学んだとも言えかもしれない。
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