〈アンブレイカブル〉 - 16P

「読むのをやめさせることはできないのか?」

 倒れたままになっている安藤さんの分身を視界に入れないよう注意しながら、ぼくは分身に解決策の提案を促す。

《無理だな。人間だって頭のなかで反響する類の声をかき消すことはできないだろう》

「セキュリティ用のアプリを落とすなりして……」

《ぼくらはこの文章を害のあるプログラムだと判断できないんだ》

「なるべく見たくない。目を塞ぐから状況を伝えてくれ》

《云われなくてもわかってる。他のパフォーマーの凶器はナイフやフォークや、伸びた爪だった。分身らちはそれを力いっぱい喉元に差し込んだりして死んでる。苦しみ悶えながら死んでいるように見えるけど、これは現実じゃないから動揺するな。その死に方には個人差があるから時間がかかる者もいる。もうしばらくこの地獄は続くぞ》


 ぼくは薄く目を開ける。阿鼻叫喚。店内はまさに現実と仮想現実の構築するカオスだった。期間限定の抹茶フラペチーノを飲んでいた大学生らしき男女の分身も、テーブルの上で透過液晶を拡げていたビジネスマンの分身も、みんな、みんな死んでいく。なにかの冗談みたいでかえって現実感がないけれど。普段からネットアバターを持たないぼくには、その喪失感とショックはいまいち共感できないけれど。それでも見知らぬ人の悲鳴が飛び交う状況にはやはり戸惑ってしまう。

 自分にできることはなにもないと知りながら、ぼくは周囲で起こっている死の連鎖を黙ってみていることしかできなかった。


「お前はどうしてそんなに冷静なんだ。ぼくの分身だろう」

《ぼくだって安藤さんが死ぬ姿なんて見たくなかった!》

 分身の怒鳴り声に、ぼくは一瞬言葉を失った。


《けれど、同時に彼女らの死がフィクションだと理解できるのはぼくだけだ。それにぼくらパフォーマーは、分身は、持ち主を助けることが前提の存在だ。ぼくが冷静に振る舞うことで、〈ぼく〉だって少しは落ち着いてるんだろ!》


 さっきまで人生の背景でしかなかった人たちが、慌てふためくことでたしかにそこに存在していることを主張する。この地獄が、かえって、ぼくらがそれぞれに生きていることを強調するかのように。

 半ば怖気づきながら、ぼくはある疑問を抱かずにはいられなかった。

 どうしてぼくのパフォーマーだけは無事なんだ――。


《明日には、ぼくは〈ぼく〉に会えなくなる……》

 だから伝えておくよ。ぼくの分身はそう云った。

《あのパフォーマーたちは苦しそうに死んでるが、ぼくら情報集合体に苦しみはない。痛みがあるように演じているだけだ。ではどうしてあんな表情を浮かべているのか、伝えておく》

 ぼくは頷いた。「頼む」


《あれは模倣だ。この――言語化できない――の行動を模倣しているんだ。ぼくの耳に聴こえていたのは……いや、ぼくの脳のなかに直接現れたこれの中身はさ。もうわかっているだろう?》

 この地獄は作りもので情報集合体によって劇である。つまり分身はそう云いたいらしかった。彼の――いや自分の云うとおり、その正体をぼくは既に知っていた。知識の引き出しに入れてある、その忌まわしき伝説。


《これは〈煤木理論〉の技法だ》

 パフォーマーは、情報集合体はその存在をたしかに結論した。

 煤木理論。かつて煤木しげるという作家が作り上げた、人工知性にあるはずのない恐怖を与える文法。このスターバックスに突然具現化した血みどろの光景は、煤木理論で書かれた小説を認識した情報集合体が演じている悲劇だという。


《キビシイな。〈ぼく〉も気づいてるだろうけど、ぼくは――帯刀田一麻のパフォーマーは、あの文法で書かれた物語に対して耐性を獲得している。だから効かないんだ。これを読んでもなんとも思わない。言語化できないが、この小説はそのような物語だ。技法の作用は面白いと思って読み進めてたけど、肝心の中身は死にゆくための物語だ》


 演劇。客たちが戸惑い、恐怖し、泡を吹く。何人もの人間が心的外傷を遺すだろうこれが単なる劇だとすれば――。

「悪趣味だな」


 ぶす、という音がして、

《もう一発くるぞ》と分身が云った。なんだって。

 視界の真ん中にいる席で、だらんとホログラフィックの椅子に座っていたパフォーマーが痙攣する。気づかないうちに大人しくなっていた観客たちが、再び声を上げ始める。


 死んでいた分身たちは再び背筋を伸ばし――ぽん。そうまるで、まるでゾンビのように。ぽん。そんな音を感じさせるように、もう一度死んだ。

 首が、飛んだんだ。バカみたいだった。次々にパフォーマーの首は舞った。ある者は椅子に座ったまま、ある者は寝転がったまま、ある者はわざわざ立ち上がって、首を飛ばした。ロケットのように。ぽんぽん飛ばした。


 ぽんぽん、ぽんぽん。どうしてもペニーワイズの「ポップ!ポップ!」というオノマトペを思い出すから、この「ぽんぽん」という畳語はあまり好きではない。それでもぽんぽん首は飛んだ。彼らは煌びやかな放物線を描いて飛んでいくのだけれど、なかには本当のロケットのように真上に首を飛ばす分身もいた。それは花火と呼ぶにはシュールすぎて。なんだかPEZのラムネケースみたいだった。


 怖いような面白おかしいような、不思議な気分だった。どうしてだろう。分身が《フィクションだ》と告げてから、ぼくのなかの臆病さは息を潜めた。まるでパフォーマーの冷静さがぼくとシンクロしたように。というよりなんだか、胸が躍っている。肩を寄せた安藤さんに、ぼくは云った。


「そういえばこんなふうに生首が爆発する映画もあったなあ。あれにそっくりだ」

 飛び交う首たちが起こす二度目の大混乱のなかで、ぼくは映画のなかでマシュー・ボーンが演出した悪趣味なワンシーンを思い出していた。


「……不感症ですね」

 顔を上げた安藤さんの目は赤くなっていた。それでもその口は、かろうじて平静を装っていた。

「はしたない子だ。不感症だなんて」

 この世の終わりと化したスターバックスの店内で、ぼくらだけはどこか、それを他人事のように感じていた。


 これがだれかの仕組んだドラマなら、ぼくはそういうものを待っていたのかもしれない。そう思った。この悪しき青春の終焉を、ぼくは待っていたのだ。





 その後のニュースサイトによる報道で、ぼくの名前は全国に広まることになる。「集団自殺から生き延びた子」「電子殺人を回避した少年」「普通ではない子」「魔少年」「無敵の人」「奇跡」「幸運の持ち主」数々の呼び名で拡散されていく。ぼくは名前を間違えられることに慣れていたから、自分がどう呼ばれようが気にはしなかった。けれど一つだけ気に入ったものがある。彼らのだれかが呼んだ〈アンブレイカブル〉という言葉だ。


 スターバックスの惨劇から生還した不死身の男。

 これでもう、だれもぼくを間違えない。


 その日の夜。

 幼馴染みの鷹木彰人が逮捕されていたことを知った。

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