2013/11/11 ポッキーの日
スイートチョコレイトゲーム
「
ある日曜日の午後。
部屋で雑誌を読んでいたわたしに、幼なじみの彼がそう声を掛けてきた。
ふいに、窓がカタカタと音を立てる。外を見ると、冷たそうな風に吹かれて、枯れ木に残った最後の一枚の葉っぱが揺らされていた。
最近めっきり寒くなった。ついこのあいだまでは日差しが強くて、少し外にいるだけでもチョコレートのように溶けてしまいそうだったのに。今では寒くてコートなしでは出掛けられない。
そう考えると、そろそろ新しい服も買わなくてはいけない。体型は、よくも悪くも近年変わりがないから、去年着ていたものも着れなくはない。だけど、流行がある。わたしだってこれでも女子だ。しかも高校生。流行りの服の一着や二着、持っていなければなんとなく恥ずかしい。だから今年はニットのワンピースやボアブルゾンが欲しいと思っているところだ。
ぬくぬくした部屋でゆったりとくつろいでいる今はさすがに買い物へ行く気にはなれないから、来週末にでも彼を連れて出掛けようと思う。ついでに、最近できたクレープ屋にも行きたい。結構おいしいと評判なんだ、あそこ。
「……え、お菓子?」
そういえば、と顔を上げる。
さっき聞こえてきた声を思い返すと、そんなことを言われたような気がした。
わたしは隣にいる彼の顔をまじまじと見つめる。
「そう、お菓子」
「お菓子か。うん、まあ、お菓子ならいつでも食べたいが」
「だよね。じゃあ、あげるよ」
「いや」
ぱっ、と手のひらを彼に向ける。
「きみからそんなことを言うなんて珍しい」
「そう? いつもあげてるじゃん」
「いつもはわたしがねだるからくれるんだろう。自分から差し出すなんてことは今までになかった」
「そうだっけ。そうだったかな。まあいいじゃない、そんなこと」
「よくない。おかしいぞ。怪しいな。……なにか裏があるのか?」
「やだなあ、なにもないよ」
顔の前でぱたぱたと手を振る少年。
わたしは、そんな彼を訝しげに見据えた。
ふと昨晩のことを思い出す。
昨日の夜、そろそろ寝ようと思っていたとき、突然彼から電話が掛かってきた。内容は、「明日、美夕ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」というもの。なにか用事があるのかと問うと、とくにないと言う。どこかへ出掛けたりせず、二人で部屋の中でのんびり過ごしたいらしかった。そんなことは今までにほとんどしてこなかったから、すごく不思議に思った。とはいえ、わたしにもこれといった用はなかったし、こんな関係だからお互いに空いているなら会うのが普通かと思い、わたしは「いいよ」と返事をしたのだった。
それで、今日。彼は太めのカーゴパンツにパーカーというラフな格好でうちに来た。普段は制服姿がほとんどだから、こうして私服を見るたびになんだか新鮮な気持ちになる。
部屋に招いて、互いに腰を下ろす。さあなにをしようと思ったところで、やることはとくにない。ほぼ毎日顔を合わせているから話題だって大してないし、わたしの部屋にはテレビがないから映画を借りて見ることもできない。ゲーム機なんかも家にはないし、まあ、あるとすればトランプやオセロみたいなレトロゲームなんだけど、二人でやろうという気にはいまいちなれない。
だからわたしは、一人でファッション雑誌を読んで、来週末にどんな服を買おうか考えることにした。彼は彼でスマホを眺めてゴロゴロしているから、放っておいてもいい。構ってほしければ向こうから寄ってくるだろうし。
……そんなとき、言われたのが「お菓子を食べたくないか」の一言だったというわけだ。
突然すぎるだろう。怪しすぎるだろう。こんなの訝らないわけがないじゃないか。
「まあね、たしかにわたしは、出会ってから今日までに何度もきみにお菓子をせがんできたよ。きみだってわたしに与えるために、いつもお菓子を持ち歩いてくれていた。うん、嬉しかったよ。嬉しかったさ。そりゃあね、自分で買わなくたって食べたいと思えばいつでもお菓子を差し出してくれる人間が常に隣にいれば、誰だってそう思うだろう。だけど、どうだ。今までに一度だってきみからお菓子を譲ってくれたことはあったか。ないだろう。ないよな。なのにどうして今になっていきなりそんなことを言い出したりするんだ。怪しいことこの上ない。なにか裏があるに決まっている!」
彼を指さす手をぶんぶんと上下に振りながら言う。
彼は苦笑し、それから頬を掻いた。
「……美夕ちゃんって、たまに心にナイフを突き立てるようなことを言うよね」
なんだ、それは。傷ついたということか? 今のせりふのどこに傷つく要素があるんだ。わけのわからないやつだな。
「俺にだって、たまには自分から美夕ちゃんにお菓子を差し出したい気分のときもあるよ。裏なんてない。親切心だ。そんなまっすぐすぎるほどの優しい心を、美夕ちゃんは
悲しげに俯き、彼が言う。わざとらしく瞳にうっすらと涙を浮かべたりして。
わたしは鼻を鳴らした。わたしに自らお菓子を差し出したい気分のとき、か。
「それが今だって言うのか?」
「そうだよ」
「下心なしでお菓子をあげたいと?」
「そういうこと」
顔を上げた彼は、コクコクとうなずいてみせた。
どこかきなくさい気がする。……が、まあ、そんなふうに思ってくれるのはありがたいと思う。彼がわたしを想う気持ちは、普段の行動から伝わってくるから。
わたしは右手を差し出した。
「なら、ありがたくいただく。お菓子は三度の飯より好きだからな」
もらえるときにもらっておこう。
すると、彼は「そう」と言って、バッグの中から一本のポッキーを取り出す。それから、それを口にくわえると、わたしのほうを向き微笑んだ。
「じゃあ、ん」
ん、て。
「……なにをしてるんだ?」
「見ればわかるでしょ。ほら、早く。ん」
いや、なんていうか。
……見ても全然わからないのだが。一体なんだ、この状況は。
「……なんの冗談だ?」
眉根にくっきりと深いしわを寄せて訊く。彼はポッキーをくわえながら器用に言った。
「これが冗談に見える?」
「冗談にしか見えない」
「本気だよ」
本気って、どんな本気だ。
わたしは首をかたむけた。
「わたしにどうしろと」
「あれ、美夕ちゃん、これ知らないの? 俺がこっち側から食べるから、美夕ちゃんがそっち側から食べるんだよ」
……一体なんのために。
たった十数センチのお菓子をどうして二人でわけなきゃならないんだ。理解できない。
わたしは溜め息をついてかぶりを振った。
「食べかけならいらない」
「まだ食べてないよ」
「口に入ってるじゃないか、一部分」
「大丈夫、大丈夫。先っちょだけだから」
先っちょだけって。
いや、まあ、そうだけど。
でも。
「……それ、こういうときに使う言葉なのか?」
「なんのこと?」
「いや、なんでもない」
わたしにもよくわからない。
眉根を揉みながら、もう片方の手を伸ばす。
「なんでもいい。とにかく、新しいポッキーをくれ」
「新しいポッキーって?」
「開けていないほうのポッキーだよ。一箱に二袋入ってるだろう。ポッキーはシェアしやすいようにそうなってる。ありがたいことにな」
言うと、彼は心底不思議そうに首をかしげた。そんな態度に、わたしも同じように首をかしげる。二人で鏡のように頭をかたむけ合っていると、
「ないよ」
「は?」
「新しいポッキーなんてのはない」
彼がはっきりとそう言った。
「どうしてないんだ」
「持ってきてない」
「数本でいいから」
「これが最後の一本だよ」
数秒間、なにも言わずにお互いの顔を見つめ合う。徐々にわたしは頬を膨らましていき、最後にははっきりとくちびるをとがらせた。
一本しかないなんて、意味がわからないじゃないか。
「残りはどうした」
「美夕ちゃんちに来る前に俺が食べた」
「きみ、あんまり甘いもの好きじゃないだろう」
「それは、まあ、そうだけどね。とにかく、ないものはない」
「ないのに、どうしてわたしにそれを食べるか聞いたんだ」
「あるじゃない。一本」
「一本はあるうちに入るのか?」
「入るでしょ。一本だけでもあるんだから。というか、俺はね、この最後の一本を食べてもらいたいんだよ、美夕ちゃんに」
「そんなことを言ったって、それはもうきみが食べているじゃないか」
「だから先っちょだけだし」
「先っちょだけでも食べてるだろう」
不毛なやりとりが続く。
わたしは頬を膨らませたまま訊いた。
「結局は、わたしにそれを食べろと?」
彼はゆっくり深くうなずいた。
溜め息しか出ない。彼とは付き合いが長く、もう何年も一緒にいるが、たまにわけのわからないことを言ったりする。きっと彼には理由があってそうしているのだろうけど、残念なことにわたしにはそれが全然伝わってこない。わたしが疎いだけか? ……まさかな。
「さあ、早く」
「急かすな」
「急かすでしょ。チョコが溶けちゃう」
「溶けないよ。今日は寒いんだから」
「すぐに暑くなるって」
なんだ、その言い方。
目を細めると、彼がニヤニヤと怪しい笑みを浮かべる。
「……なんだか嫌な予感がする」
「気のせいだよ」
「いや、嫌な予感しかしないぞ」
「考えすぎだって」
「そんなわけはない。きみがそうやってニヤついているときは、大抵わたしによくないことが起きるんだ」
「そんな、人を悪魔みたいに」
悪魔みたいなものだろう、きみは。……いや、悪魔というより魔王か。天使のふりをした魔物というか、羊の皮をかぶった狼というか。
「違うよ」
くわえたポッキーを上下に揺すりながら、彼は言う。
「俺は悪魔でも狼でもなくて、美夕ちゃんの彼氏」
目をみはる。頬がかあっと熱くなっていくのがわかって、わたしは急いでかぶりを振った。
……まったく、またきみはそうやって恥ずかしげもなく堂々と。
「ああ、うん。まあ、そうだな、知ってる。……きみはわたしの彼氏だ」
「だよね。だったらできるでしょ。ポッキーゲーム」
その言葉に、わたしは目を丸くした。数回まばたきをしてから、彼の顔を見る。
……ポッキーゲームだって?
「なんだ、これはゲームだったのか」
「え、知らなかったの?」
そんな意外そうに言うな。わたしにだって知らないことくらいある。だいたいポッキーでゲームができるなんて知らなくて当然だろう。誰だ、そんなことを考えたやつは。
「やろうよ、ポッキーゲーム」
「ゲームは好きじゃない。目が悪くなると小さい頃から母さんに止められていた」
「これはそういうゲームじゃないから平気だよ」
「そういうゲームじゃなかろうと、まったく平気に見えない」
そう言って、わたしは彼に背中を向けた。腕を組んで、鼻を鳴らす。誰がやるか、そんなゲーム。わたしはもう騙されないぞ。
「美夕ちゃん」
「うるさい」
「美夕ちゃんってば」
「知らない」
なにを言われても振り返ってやらない。ずっと背中を向けていると、ふいに溜め息が聞こえてきた。
「なんだ、残念。美夕ちゃんは俺からの勝負を棄権するっていうんだね」
……勝負だって?
肩越しに小さく振り返り、彼を睨みつけながらわたしは言う。
「……その言い方はやめろ」
「だってそうじゃないか。俺に負けるのが怖いから逃げてるんだ」
くわえていたポッキーを指先につまんで軽く揺する。
まったく、一体なんだっていうんだ、きみは。
強気な態度が気に入らない。自分に絶対的な自信があるところも気に入らない。その薄く吊り上がった口もとも、人を食ったような目つきも、視線も、言葉遣いも、――どう言えばわたしの気持ちが揺れるのかを知っているところも、なにもかもが気に入らない。
「きみはまたそうやってわたしのことを、」
「俺、知ってるよ。美夕ちゃんは昔から、とっても負けず嫌いだってこと」
体ごと振り返り、叫ぶように言った言葉も止められる。彼の人差し指が、わたしのくちびるにそっと触れた。
「俺がゲームに負けたら、なんでもいうことをひとつだけ聞くよ。その代わり、美夕ちゃんが負けたときは俺のいうことをひとつ聞く。そういう賭けがあったほうがおもしろいよね。どう?」
くちびるから指が離れる。触れた指先のぬくもりが体の中へと流れ込む。わたしは手の甲でくちびるを隠し、弱々しい視線で彼を睨みつけた。
「……なんでも、か?」
「うん。なんでも」
「これから先、わたしにずっとお菓子を献上していけというのもか?」
「お安いご用だ」
ふうん。そうか。お安いご用か。
わたしは口の端が吊り上がるのを感じた。負けず嫌いなくせに、いつも彼には負けている。それも、ずっと昔から。それが悔しくて仕方なかった。いつか見返してやりたいと思っていた。それが今、ようやく叶うわけだ。なにせ賭けるのはお菓子だ、負ける気はしない。きみのお小遣いはすべてわたしへの献上菓子代で消してやる。少し痛い目を見るといい。
「やる? やらない?」
訊かれて、一本のポッキーを差し出される。わたしは彼の瞳を見つめ、一度だけ大きくうなずいた。やるに決まっている。
「そうこなくっちゃ」
満面の笑みを見せながら、再びポッキーを口にくわえる。そんな彼を呆れながら見て、わたしは床に置いていた雑誌を本棚へと戻した。
「けど、ひとつだけ約束をしろ。ゲームはやるが、変なことはするなよ」
「変なことって?」
「このあいだのハロウィンのときみたいなことだよ。あ、愛のあるいたずらだかなんだか知らないが、……ああいうのは、わたしは苦手だ」
顔を赤くしながらぼそぼそと呟くと、彼はくすりと笑った。
「了解」
彼は床から立ち上がり、ベッドの上へと座り直す。それから、おいでおいでと手招きをしてわたしを呼んだ。素直にそばへ寄り、隣に座る。見慣れない私服姿の彼がこんなに近くにいると、なんだか変に緊張してしまう。わたしも、もうちょっとかわいい格好をしておけばよかった。せめてショートパンツじゃなく、スカートくらいはいておけば。……って、なにを考えているんだ、わたしは。そんなこと、今は関係ないだろう。それに、今日はとくにどこかへ出掛ける予定はなかったし、だから、そんな、べつに。
「どうしたの、美夕ちゃん」
「い、いや、なんでもないっ」
「そう。じゃあ、やろっか。ポッキーゲーム」
ふん、望むところだ。
と、そこまで考え、ふと気づく。
さっきからポッキーゲームと言っているが、それって。
わたしは彼の目を見つめ、首をかしげた。
「ところで」
「ん?」
「ポッキーゲームってどうやるんだ?」
それを聞き、彼はふっと笑みを浮かべた。それから、わたしの頭を大きな手でぐりぐりと撫でると、優しげな声でこう言った。
「それは、今からじっくり教えてあげる。まずはお互いを見つめ合うところから始めようか」
(「スイートチョコレイトゲーム」終わり)
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