倉庫③(平成31年4月17日)

正直な所、月島保はこの生活がそこまで嫌いではなかった。不満は腹が減ること、風呂に入れないこと、電気がないこと、性欲の行き場がないこと、音楽が聴けないことくらいだ。結構ある。結構あるが、別にいいじゃないかという気持ちが常にどこかにある。こうして屋上で一人、朝焼けの空を見てる時には、特にその気持ちが強くなる。ひと冬、毎日のように拝んできたことで、今ではその中にある日々の小さな変化まで楽しめる域に保は到達しつつあった。春になってからは特にいい。地上を程よく暖めにやってきた穏やかなヒーローがいよいよ登場する、壮大な変身シーンのようだ。


毎日夜中に起きて、屋上で朝焼けを見て、定期的に屋上に上がって見張りをし、妹と交代した後は八時間ひたすら暇を潰す。そう悪くはないと、保は思っている。考えようによっては、実家を適当に手伝いながら暮らす日々とそこまで変わらないかもしれない。


しかしそれも、あくまで「持続可能なら」だ。食料などのことはもちろんだが、問題は気候である。冬の寒さは確かに堪えたが、寒いのはまだいい。毛布にくるまっていれば何とかなる。だが、暑さはどうだろう。保は、こういう異常事態が起こったのが秋から冬にかけての時期だったのは、唯一の救いだったと思っている。冬はそもそも閉じこもるのに向いている。自然にあまり逆らわないから無理も少ない。だが、夏はどうだろう。


朝焼けの向こうから姿を現した太陽に見惚れながら保は思った。この関係は今がピークだ。暖かな風が吹き、微かに鰹節の匂いがした。保が屋上に持って上がってきた段ボール箱には、この冬、一心不乱に削ってきた鰹節たちが入っている。思いつきで始めた鰹節製のナイフ作りは保の冬を予想外に豊かにしてくれた。はっきり言って、意味はほとんどない。鰹節を鋭く、鋭く、肉を切り裂くほど鋭利になるまで加工したところで、せいぜい乾物の入った箱や袋を開けやすくなる程度のことだろう。まして、それを持って外へ討って出るなんて、土台無理な話だ。バカバカしいにも程がある。


保は箱に入った無数の鰹節の中に慎重に手を入れて一本取り出すと、屋上のへりから下を覗いた。何度夜が明けようが関係ない、相変わらずの徘徊の光景である。手に握った鰹節。保のこの冬の余暇を全投入して削り上げられ、研ぎ上げられた最高傑作。その刃は、朝日が作り出した空のグラデーションすら、オレンジと青の真っ二つに切り裂いてしまいそうな暴力的な緊張感を放っている。だからなんだ。意味はほぼない。しかしそうは言っても、試してはみたい。この儀式を節目として、何か他に没頭できることを見つけよう。保は下に向かって狙いをつけると、ナイフ投げの要領で鰹節を投げ放った。


もちろんそんな心得はない。アクション映画か何かの記憶を頼りに適当に投げたに過ぎない。軽く手を振って、この冬と別れるように。しかし、鰹節は進行方向に向かって見事に回転し、ちょうど刃がもう一度前を向くタイミングで保が狙ったハゲ頭に到達するや、まるで最初からそこに存在していたかのように平然と突き刺さった。


たんっ


と、乾いた音が百分の何秒か遅れて響いた。倒れもせず、血すら出ず、鰹節の刺さったハゲ頭は下の道を徘徊している。あまりにも上手く刺さってしまったために絶望するタイミングを逸した保は、しばらくの間、ただぼおっと下を眺めていた。ふと上を見ると、もうすっかり青空が広がっている。一旦倉庫に戻ろうと振り返って歩き出した瞬間、保は立ち止まって直前の記憶を辿った。何か今、おかしなものを見た気がする。


下の道を、大きなカートを押したホームレスが歩いている。どこからどう見てもホームレスだが、背中に赤ん坊をおぶっている。よく見れば、カートにも小さな子供が数人寝ている。そうだ、あのカートは保育園の先生がよく子供たちを乗せて押して歩いてるやつだ。周りを布団か何かでカバーしてあり、道を徘徊する障害を押しのけて進んでいく。そして、押しのけられた奴らは見向きもせずにまた徘徊を続けている。これだけ多くの情報を処理しなければいけない状況自体が久しぶりなのもあって、保の脳内は完全に渋滞し、苦し紛れに出てきた結論は非常に雑なものだった。


……人さらい?


その結論とは関係なく、保は過ぎ去っていく背中に思わず声をかけた。


「…あの!」

「うおっ…!」


道中の視線がこちらに集まり、振り向いた男もそれをたどって保を見つけた。カートをその場に残して、保にゆっくりと近づいてくる群れを大分乱暴に押しのけて戻ってきた男は、保を見上げて不思議そうに言った。


「よく生きてたなあ」

「あの…なんていうか…」


保に向かって集まってくる者たちを突き飛ばし、蹴飛ばしながら、男は話を続ける。


「ああ、おれぁだいじょぶなんだ、なんか知らんが。あいつらも」


男は置き去りにしたカートを顎で指した。ぽつんと孤立したカートの中で、子供が一人起き上がって鼻をほじってる。大丈夫なのか。いや、大丈夫だそうだ。確かに大丈夫そうではある。しかし、そんなことがあるのか。一体どういうことなんだ。戸惑う保の背後から、突然声がした。


「保っ!」


外の声を聞いたのであろう、姉の潤が屋上に上がってきていた。


「なんか、おじさんが…」


ほとんど説明になっていない弟の言葉を無視し、潤は屋上のへりに近づいて下を見た。情報量が多い。先に男が話しかけてきた。


「あんたら何人生き残ってんだ?」

「全部で三人です」

「ふ〜ん、いるとこにはいるもんだな」


と、言いながら、集まってくる奴らを投げ飛ばし、蹴飛ばす。しかし、こいつらはこのホームレスには見向きもしてない。明らかにこちらだけを見ている。ハゲ頭に刺さってるのは保が削ってた鰹節か?いや、そんなことはどうでもいい。潤にはひとつ、心当たりがあった。


「あの…」

「ああ」

「素っ裸で走ってる女の人知ってますか?」


姉は一体何を言い出したのか。保は耳を疑った。どうもここひと月ほど、珍しくぼおっとしてることが多いとは思っていたが、やっぱり精神的にもかなりしんどくなってたんだろうか。


「はあ…!?」


ああ、知らないのか。


「前に一度ここを通ったのを見たんです。あなたと同じで平気みたいで」


男は潤の言葉に苦笑いした。


「悪いけど、おれは見たことないな。ところであんたら、食いものあるか?」


考え込む姉の代わりに保が答えた。


「うちは乾物屋なんで、そういうものならまだ多少あります」

「おお、いいね。じゃあなんか色々持ってくるから、交換しよう。しばらく中入って静かにしてればこいつらも忘れるだろ、バカだから」


男は再び、カートを押して去っていった。保は男の背中におぶわれている赤ん坊が終始ぐっすり寝ていたことに今更ながら感心しつつ、見送った。姉はまだ考え込んでいる。素っ裸の女の人とやらのことを考えてるのだろうか。何が何だかさっぱりだ。頭がぼおっとする。


「戻ろうか」

「…うん…」


保は鰹節の入った段ボール箱を片手に抱えて、姉に続いて倉庫に下りていった。昨日までより、またほんの少し調子を上げた太陽が屋上を照らしていた。

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