ラブリーデイ(平成31年4月3日)

春の匂いに誘われて思わず荷台のドアを開け放ち、たまらなくなった田沢孝宏は野外での自慰行為を決行した。配達物の中に入っていた有名アイドルグループのメンバーの写真集。当初はこの女性の名前も顔もよく知らなかったが、山の上でひと冬を共に過ごした今、もはや恋人も同然の存在となっていた。ズボンを下げ、草花の芽吹く地面に膝を付き、暖かな風を纏った手でちんこを握り、田沢はこの冬の悲しみを昇華するように全身で春を感じながら、脳内で彼女を抱きしめた。今までの人生で感じたことのない開放感だった。結婚を発表して、ついに堂々と外でデートができるようになった芸能人のカップルは、ちょうどこんな気持ちなのかもしれない。そう田沢は思ったが、性器を露出してる時点で絶対に違った。


ぶぉふっ!


田沢はピタリと動きを止めた。なんだ、今の音は。恐る恐る、音のした方に目をやると、大きく、黒い、毛むくじゃらのかたまりがあった。熊だった。二メートルはあろうかという巨体をしっかりと支え、ほぼ直立不動の姿勢で立っている。反射的にちんこと写真集を隠そうと体が動き始めたその刹那、田沢の生存本能がストップを掛けた。急な動きをしてはいけない。昔、テレビか何かで見たことがある。熊は臆病な動物だから、下手に動くとかえって刺激してしまうのだ。かと言って、「死んだふりをする」というのも迷信である。田沢は熊と目を合わせたまま、ゆっくりと立ち上がりながら正対しようとした。不思議と、ちんこは握ったままだった。


が、長くトラックの荷台に閉じこもっていたことによる運動不足や、体の衰弱、そこに緊張や動揺が重なった結果なのか、田沢は足がもつれて仰向けに転倒してしまった。天を仰いだ瞬間、田沢はちんこを握ったまま死を確信した。しかし、首を持ち上げて見た正面の熊は、意外にもまだ直立不動でこちらを見つめていた。


ぶぉふっ!


熊は後ろに向き直ると、前足をついて向こうへ歩きはじめた。段々と小さくなり、やがて自分の陰茎の向こうに消えていく後ろ姿を、田沢はそのままの姿勢で見送った。肝の据わった熊でよかった。熊、はじめて見た。思えばオナニー見つかったのもはじめてだ。学生の頃から細心の注意を払ってきたが、流石にこれは防ぎようがなかった。なにせ熊だ。様々な感情が押し寄せた結果、田沢はしばらく空を見上げて放心した。馬鹿みたいに晴れていた。


山を下りなければいけない。ネット通販様々、荷台に積まれた食べ物や水、毛布、防災グッズなどをやりくりして何とか冬は越えたものの、もう限界だった。下の世界の現状をダメ元でも確認しに行こうと、田沢は決心した。もしかしたら、もう他の場所に移動してるかもしれない。数によっては中型トラックで蹴散らせるかもしれない。燃料が手に入ったら、そのままもっと遠くへ行けるかもしれない。ここでまた熊に遭うかもしれないことを考えれば、そちらの希望に掛けたかった。


立ち上がってズボンをはき直し、田沢は近くの崖から市街地を見渡した。死んだはずの街に桜が咲いていた。大きな公園なのか、桜が集中しているあの一点。あそこへ行こう。田沢は直感的にそう決めた。食料とも燃料とも何の関係もないが、とにかくそうしたいと思った。何にしても、明るい内に行ったほうがいい。田沢は矢も盾もたまらず、久しぶりにトラックの運転席に座り、アクセルを踏み込んだ。


                  ※


焼け落ちたガソリンスタンドの前を通り過ぎ、トラックを徐行させながら田沢は街をつぶさに観察した。とにかく、人っ子一人いない。建物も外から見る限りではもぬけの殻である。襲われる心配もなさそうな、しかし生存者もいそうになければ食料も手に入りそうにない、良くも悪くも張り合いのない街を宅配トラックで抜けて行く。奥にのぞく、腹の足しにもならない淡い希望に向かって。とにかく田沢は桜が見たかった。


公園の入り口が見えた瞬間、田沢は急ブレーキを掛けそうになった足を必死に制御し、極めてゆっくりとトラックを停め、エンジンを切った。気づかれていないだろうか。公園は花見客で一杯だった。全員が直立不動で、ただ上を見上げている。本当に桜を楽しんでるんだろうか。そんな心が残っているとは到底思えなかったが、とにかく桜の下に大集合しているのは事実である。田沢は物音を立てないよう、ゆっくりとトラックを降り、公園を周りから見回してみた。


どうやら公園一帯がこの調子らしい。そして、そうだとするとものすごい数だ。気付かれでもしたら手に負えない。田沢は運転席に戻って呆然とした。食料も燃料もない、桜もろくに見られない、でも山に戻ったところでどうなるというのか。どん詰まりだった。ぼおっと、ただ桜を見上げる無表情な花見客たちを、田沢はただ、ぼおっと見つめていた。と、公園の奥に何かが見えた。無数の頭たちの向こうから近づいてくる、大きく、黒い、毛むくじゃらのかたまり。


熊だ。さっきの熊だ。実際にはそれは定かではなかったはずだが、田沢はそう確信した。自分を追ってきたのか?いや、そんな訳はない。単純なことだ。暖かくなったから、餌を求めて山から下りてきたんだろう。熊に反応を示す者はおらず、また熊の方も周りに立っている物には見向きもせず、一直線にこちらに近づいてきた。なぜか徐々にスピードを上げ、最終的には周りの障害物をボウリングのピンのように弾き飛ばしながら公園を出て、トラックにまっしぐらに突進してきた。


「うわぁぁああああああっっっ…!!!!」


田沢は思わず大声を上げながらトラックを急発進させ、どこへともなく飛ばした。ガソリンメーターは、エンプティまでは若干の余裕があるものの、あてもなく走るにはかなり心もとない、そんな辺りを指していたが、それどころではなかった。


ぶぉふっ!


暖かく静かな街に、熊の声とトラックの走行音だけが響いた。

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