田所ちひろ、歩く。(平成30年12月26日)

流血した肩を押さえながら高井戸駅方面からよたよたと歩いてきた中年のサラリーマンは、狭まっていく視界の端に、駅方向に歩いて行く人影をかろうじて捉えた。ゆっくりと立ち止まり、制御を失っていく体を何とか動かし、じりじりとそちらに向き直った。ああ、そっち、に、行っちゃ、いけ、ないと、もっと、思いま、丼、です、べき…


半ば制圧されかかった彼の脳は、その思考を声帯や舌、口周りの筋肉の運動に的確に反映させるにはもはや手遅れであり、ただ絞り出すように弱々しい唸り声を上げるのが精一杯であった。そして彼が自分の意志によって発した最後の音波は、数メートル先、スマホを手に歩く若い女性まで届いた瞬間、その耳に装着しているヘッドホンのノイズキャンセリング機能によって速やかに相殺され、静かでだだっ広い駐車場に当てもなく響いた。田所ちひろの世界には、激しく転調を繰り返すアニソンが鳴り響いている。


三十メートルほど前方、駐車場の向こうからゆっくりと近づいてくる人影には気づかず、田所ちひろは手元のスマホゲームに夢中である。推しキャラが出るまでガチャを回し続ける。無料分で引き当てられなければ課金も辞さない構えだ。後方では、先ほどのサラリーマンが背筋を伸ばし、淡々とした表情で近づいて来ていたが、幸か不幸か、田所ちひろは歩くのがとても速い。完全に正気を失った背後のサラリーマンをぐんぐんと突き放し、前方に向かって一直線に駐車場を突っ切っていく。


田所ちひろはガチャを回し続けるスマホの画面の外、視界の上端に映った何者かのつま先を瞬時に捕捉し、小刻みなステップで素速くこれをかわした。うつむいたまま人にぶつからず歩くテクニックは、彼女が長い学生時代を通じて無意識に会得したものだ。田所ちひろに向かってのろのろと伸ばされた手は、あと数ミリのところで空を切った。田所ちひろは歩く。ガチャを回す。推しキャラが出ない。


環八通りは打ち捨てられた乗用車や大破した消防車などで塞がっており、信号機だけが人知れず機能していた。田所ちひろのヘッドホンからの微かな音漏れ以外、響くのはだらしない足音たちばかりである。横断歩道を渡るため、一瞬ちらりと目をやって青信号を確認すると、田所ちひろは横断歩道を渡り、駅方向へ歩く。赤信号で立ち止まっていたら彼女に向かって大集合だったであろう者たちを後方に引き連れて。


駅へ行くまでにはもう一つ、十メートルほど先にある信号を渡らなければならない。ガチャの結果が芳しくない田所ちひろは、今度は信号を確認すらせず、前方を行く通行人(ではないのだが)の足の動きを頼りに横断歩道を渡る作戦に出た。すぐ後ろにいる彼女に気づかず、よろよろと歩いて、うまい具合に横断歩道に差し掛かったその足から「つまり信号は青」という情報だけを読み取り、田所ちひろは再びスピードを上げてこれを抜き去り、横断歩道を渡りきった。実際には信号は赤だったが、確かに車は走っていなかった。


あとは駅前の歩道橋までひたすら真っすぐ進むだけである。駅に近づくに連れて数が多くなる足を次々と抜き去って進む。抜き去られた者は後を追い、さらに周りからも着実に吸い寄せられ、田所ちひろの率いる集団は芋づる式に数を増やした。何ら主張のないデモ隊の先頭を切って、田所ちひろは歩道橋へと向かう。小さく舌打ちをしたのは、ガチャの結果が思わしくないからだろう。


前からやってくる足をほぼ無意識にかわしながら、田所ちひろは環八の上を横断して行く。すぐ横を並行に走る高架上では、無人の高井戸駅ホームが異様な存在感を放っていた。階段を降りて、歩道橋からそのままつながった駅舎へと、田所ちひろは入っていく。後ろの歩道橋は建設以来、最高の混雑となっていた。遠くカラスの鳴き声がこだまする駅前で、彼女の耳だけがアニソンに満たされている。駅の向こうではトラックが炎上していたが、重度の鼻炎持ちの田所ちひろの鼻腔に、その煙の臭いは届かなかった。

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