倉庫①(平成31年2月20日)
「小畑のじいさん」といえば、この界隈の子供たちの間でその名を知らぬ者はいなかった。自宅の前の通りで遊ぶ子供たちを何かと怒鳴り、ホースで水を撒き散らして追い払い、家の庭に入ったボールを隠したりするじいさんの存在は子供たちにとっては脅威であり、当時まだ幼稚園児だった月島あさひも、十歳上の姉と五歳上の兄から教えられるまま「おばた・のじーさん」(だと、あさひは認識していた)の脅威についての講釈を鵜呑みにし、やがて実体験を通してその恐ろしさを知った。さらに成長するにつれ、じいさんが随分と前に奥さんに先立たれたこと、子供たちとも長年疎遠であることなどを知るにつけ、じいさんはじいさんなりの人生を歩んでいる人間であり、じいさんは我々を脅かす化け物ではなく、したがって「最近カラスが減ってるのは小畑のじいさんが捕まえて食ってるから」等の噂は嘘であると理解していった。
そして今、前の通りをのろのろと徘徊する群れの中の一体、元・小畑のじいさんの姿に、あさひは倉庫の屋上から狙いを定めている。あてもなく淡々と歩き回る姿は、むしろ昔のじいさんより大人しいくらいである。ただ、油断は出来ない。屋上とは言っても、高さはせいぜい四、五メートルであり、こちらの存在に感づかれる危険性も高い。呼吸を整え、顔が正面を向いた瞬間、シャッターを切って素早くへりに身を隠した。
速やかに吐き出されたポラロイド写真を手に取り、カメラを脇に置くと、口の端に咥えていたスルメをタバコのように人差し指と中指の間に挟んで、ゆっくりと白い息を吐いた。ポラロイド写真には、小畑のじいさんだった化け物の像がうっすらと浮かび上がりはじめている。再びスルメをしゃぶり、仰向けになって空を仰ぐ。夕暮れの空が徐々に赤みを増していく。こうして一人黄昏ることができるのも、夕方の見張り役を買って出た特権である。写真の出来上がりを確認すると、あさひはカメラを持って立ち上がり、スルメを口に放り込んで、屋上の真ん中に三つ並べてあるソーラー式の懐中電灯の一つを取って、倉庫の中へと戻った。
倉庫の一角に敷いた自分の布団の上で、月島保(たもつ)は毛布にくるまって一心不乱に、しかし体力を消耗しないよう穏やかに、鰹節を削り続けていた。昔ながらの削り器を使いつつも、その削り方は通常のそれとはかけ離れたものである。保の関心は鰹節の本体の方に集中しており、少し削っては形を確認し、削り器の刃に当てる箇所やその角度を少し調節しながら慎重に削っていく。削り器の中に溜まっていく削り節は、もちろん貴重な食料ではあるものの、今の保にとっては副産物に過ぎない。その手に握った鰹節を、より薄く、鋭利に仕上げるべく、淡々と削り続ける。そうして何時間経ったのか、とにかく、大分手元が暗くなってきたことに気づいた頃、妹のあさひがはしごを伝って屋上から戻ってきた。なにやら満足気な顔である。
「小畑のじいさんゲットした」
「ふ~ん、マジか」
倉庫に避難しはじめて二ヶ月近く、あさひの写真の数も増え、何やらトレーディングカードの様相を呈してきているが、それはそれで現状を乗り切るための彼女なりのテクニックのようなものなのだろうと、保は納得している。が、妹の方は保のリアクションが大層不満だったらしく、バカみたいに口を開けて固まっている。確かに生返事だった感は否めない。一瞬、鰹節を削る手を止め、たった今聞いた言葉を改めて振り返ってみた。「おばたのじいさん」……一つの疑問が浮かんだ。
「小畑のばあさんじゃなくて?」
あさひは脳みそがクルンと一回転するような衝撃を覚え、一瞬言葉を失った。小畑の『ばあさん』とはどうしたことか。小畑のじいさん、女の人だったの?そんなはずない、一人称「わし」だったはず。
「え、じいさんでしょ…!?ほら!」
撮ったばかりの写真を差し出されたところで、離れて撮ったポラロイドに写るそれが元々じいさんだったのか、ばあさんだったのか、そんなことは保にわかるはずもなかった。じいさんと言われれば確かにじいさんに見えるし、ばあさんだと思えば当然ばあさんに見える。格好もジャージだ。いやしかし、保が幼少期に恐れおののいたのは小畑のばあさんである。「ちんぽ切るぞ!」と言われたこともある。しかし、ばあさんは旦那を早くに亡くし、子供もない、孤独に暮らす未亡人であり、そういう意味では同情の余地こそあれ、「じいさん」呼ばわりされる筋合いなどないはずだ。大体、そもそも妹に小畑のばあさんのことを教えてやったのは自分ではなかったか。
「いや、ばあさんだよ、あの人は」
「『わし』って言ってたよ」
「え?」
「わし…」
「『あたい』じゃなくて?」
「『あたい』なんてマンガでしか言わないよ!」
「『わし』だって言わないでしょ」
「あそこは双子だよ」
こちらを向いて固まってしまった弟と妹に、月島潤はもう一度念を押した。
「小畑さんとこは双子のじいさんとばあさんだから。はい、終わり。話しすぎると喉乾くよ。保はもう寝な、六時なんだから…んんっ…!」
布団の上で座ったまま両手を伸ばして体の凝りをほぐし、枕元に置いた500mlの水のペットボトルを手に取った。潤からすれば、弟と妹がそれぞれ、小畑のじいさんばあさんの片割れしか知らないということのほうが信じられない話である。あの忌まわしい双子の年寄り。潤の幼少期にはすでに年寄りだったのだから、今は一体いくつなのか。知ったことではないが、とにかくあんなに嫌なじいさんも、あんなに嫌なばあさんもいない。それがよりによって二卵性双生児とは。二つも着床しやがって。ペットボトルのフタに水をそっと注ぎ、口が触れないようにしてズズッと二杯すすった。
「おわり、寝な」
このパターンになったら、もはや異論反論は受け付けられない。あさひにもそれはわかっている。だからこそ、「小畑の双子のじいさんばあさん」というとんでもない新情報への好奇心を飲み込んで、保は大人しく寝る支度をはじめたのである。少なくとも、一旦は間を置くしかない。
「…潤ちゃん、おはよう」
「はい、おはよう。見張りおつかれ」
「月島乾物店」は明治の終わりに創業し、以来四代に渡って御徒町で乾物を商ってきた。月島潤は、三代目である父の早逝に伴って若くして店を受け継ぎ、四代目として店を切り盛りする一方、姉として当時まだ学生であった弟と妹の面倒も見てきた。今こうして三人揃って生き残っていられるのも、近所に押し寄せた異変を察知し、自宅件店舗に併設された倉庫への立てこもりを決断した潤の英断によるところが大きい。
「じゃ、ちょっと上見てくぅかぁ」
潤は煮干しを一尾くわえ、ついでにあさひの口にもくわえさせて、さっさと屋上へ上がってしまった。これから八時間、潤は一時間おきの見張り、保は睡眠、そしてあさひは自由時間である。「自由」と言えば聞こえはいいが、電気も使えない乾物屋の倉庫での八時間は、漫然と過ごすにはかなり長い。倉庫の角の床に敷いた自分の布団に座り、懐中電灯を照らして、毛布にくるまって、改めて小畑のじいさんの写真を眺めてみる。いや、潤ちゃんの言うことが本当なら、これは今や「小畑のばあさん」の写真である可能性もあるのだ。なんてことだ。豆やかんぴょうや麸、高野豆腐などの乾物が置かれた中央の棚の向こう、倉庫の対角からは、早くも保の寝息が聞こえてきている。少し腹が立った。
ポラロイド写真の中の小畑のじいさん、か、ばあさん。ジャージだ。見分けられる可能性ゼロだ。ピントの問題もあってか、フレームの中にぼんやりと存在する小畑のじいさんかばあさんは、まるで半透明のじいさんとばあさんが重なり合って写ってるみたいだ。あさひは背後に積まれた昆布の段ボール箱を少し持ち上げた。今はこの箱の間が個人的な収納スペースになっている。食べ終わったスルメの袋を取り出すと、チャックを開けて今まで撮りためた写真とペンを取り出し、隅に書かれた日付順に写真を布団の上に並べてみた。最後に小畑のじいさんかばあさんの写真の隅にも日付を書き込み、端に置く。
単に一番新しい、ということもあるにしても、三十枚ほどある写真の中、小畑のじいさんかばあさんは一際輝いて見えた。近所のローソンの腕毛の濃い店長、妙に色気のあったヤクルトのおばさん、うちでホタテの干し貝柱ばっかり買ってくありがたいおばあちゃん、あと、ほとんど知らない人たち。この写真の先には、ただ徘徊して噛み付く以外に未来がない。しかし、小畑のじいさんかばあさんは違う。じいさんかもしれないし、ばあさんかもしれない。じいさんなら、ばあさんはどこかで生きてるかも知れないし、ばあさんなら、じいさんはどこかで生きてるかも知れない。もちろん、どちらも感染している可能性も高いし、感染してなくても死んでしまった可能性もある。いずれにせよ、この写真はまだシナリオの分岐点である。かろうじて次の展開を残している。他のものは実質的には遺影のようなものだ。
あさひはそれを脳内で具体的に言語化はしていない。ただしげしげと写真を見つめ、深く息を吸って吐いた。風呂に入っていない自分の体臭と、近くに積まれた段ボールの臭い。その奥から、昆布の匂いがした。小さい頃から当たり前のように嗅いできた匂い。やっぱりいい匂いだ。口にくわえた煮干しの味と合わさって出汁ができた。あさひは小畑のじいさんかばあさんの写真だけを残して他を袋にしまい、昆布の段ボール箱の間に戻すついでに今度はスケッチブックと鉛筆を取り出した。写真の横にスケッチブックを広げる。少しずつ違いを付けながら、じいさんとばあさん、それぞれの絵を描くつもりである。あさひは白紙に向かいはじめた。倉庫のシャッターがガタっと音を立てたが、あさひには聞こえなかった。
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