居酒屋(平成31年2月6日)
エイヒレに七味マヨネーズを少しつけて口に運び、しばらく何かを考えるように咀嚼した後、小さな猪口に注いだ燗酒をキュッと飲み干し、平原が誰にともなく言った。
「これは考えようによっては我々の勝利なんじゃないかと思うんですよ」
「っていうか、日本酒止められてるんじゃありませんでしたっけ?」
平原から一席空けて隣、入口近くのカウンターの角に座る杉浦がすかさず尋ねた。
「ミキちゃん、その通りです。確かに僕ぁ医者に止められてます。醸造酒全般。許されてるのは蒸留酒だけ。しかも一日一杯。守ってないけども」
「ですよね」
平原は二杯目をあおって続けた。
「しかしね、それこそが重要なんです。本題につながるいい質問してくれたんだ、あなたは」
「はぁ…」
「つまりね、医者はなぜ僕の酒量を制限するのか。これ、長生きのためでしょう」
「まあ、そうですね」
「ミキちゃんは二十…?」
「二十五です」
「だからまあ、まだそこまでピンとこないかもしれないけども、人は長生きのために色んなこと我慢したり、気ぃつかったりしてるわけですよ、若い頃から健康のために色々やってる人もいる」
「私の周りにもいますね、確かに」
そう言いながら、杉浦は傍らに置いた一升瓶からグラスに日本酒を並々と注ぎ、メンチカツを頬張った。
「これは結局ね、人間はいつ死ぬのか自分ではわからないっていう不条理なルールを問答無用で突きつけられてるってことに原因の一端があるわけですよ。だから、自分の寿命の手綱を自分で握ってるかのような全能感を少しでも味わいたくなる」
「なるほど」
「それも死に対する姿勢の一つとしてはいいんだけども、僕はそういうことは一切してこなかった。ミキちゃんも今のところはしてない。こうして真っ昼間から呑んでる」
「そうですね」
「めんどくさいと。どうせいつ死ぬかわからないなら、気持ちいいほうがいいと。ただ、世間からは割りと白い目で見られてきたわけですよ。飲んだくれで、タバコもやめないし」
杉浦はちょうどタバコに火をつけたところだった。
平原は反対側に振り向いて、カウンターの奥に座る店の最古参、迫田に聞いた。
「迫田さん、γ‐GTP、いくつですか?」
迫田は「いいちこ」を飲む手を止め、口をあんぐりと開けて赤ら顔で答えた。
「なんだそらぁ」
「いや、ご存知ないなら結構。くだらん数字です。ちなみに、普段病院には?」
「ほけんしょ持ってねえ」
「さすがです」
平原は杉浦の方に向き直り、三杯目をあおった。
「と、いうようにね、我々は大体こんな調子なわけです。ちなみに僕は会社の健康診断でγ‐GTPについては毎回言われてきました。要は肝臓にキテるよ、ってことですね」
「これ何の話でしたっけ?」
「つまりね、いつ訪れるかわからない死に対して、だからこそ節制して健康を保とうというグループと、我々のように好き勝手気持ちよくやるグループとに分かれる。そして比較的、前者のほうが知的で高潔な人間とされてきたわけでしょう」
「まあ、酒飲みのほうがだらしないでしょうね。喫煙者も肩身が狭いし」
「そう。しかしここへきて、『死がいつ訪れるかわからない』という前提が崩れつつあるわけです。我々はもう数年保つかも怪しい」
「ですね」
「長生きができないことがほぼ確定した以上、今まで健康に気を使ってきた人達の努力は徒労だったということになりぁすよ。何のために酒を我慢して、たばこをやめて、皇居の周りを走り回ってたのか。人んちの周りをぐるぐるぐるぐる…」
「あんだけ大きければ人んちも何もないですよ」
「まあ、とにかくね、これは我々の勝利ですよ。好きなように酒飲んでたばこ吸ってきた我々は結果論としては正しかった。迫田さんも保険払わないでその分飲めた。これ正しかったんですよ」
「なるほど」
「こと、この空間に関して言えばね、もう我々は死ぬまで飲めばいい。噛まれる前に酩酊して、噛まれても何も感じないし、覚えてない、これでいいわけですよ」
「はっ」
杉浦は苦笑し、迫田は奥で静かに拍手を送った。平原は、やりきったという様に四杯目をあおった。
バンッ!
と、大きな音が店内に鳴り響いた。ビクッと体を震わせた杉浦は、すぐ背後にある店の入り口をにらんだ。突っ張り棒を噛ませた引き戸に変化はない。カウンター越しに黙ってそれを見つめていた店主の辻に向けて、そして半分は自分自身にも言い聞かせるように、杉浦は言った。
「やっぱり戸を外すような能はないみたいですね」
墨田区向島の住宅地の一画にある大衆居酒屋「つじや」は、完全に包囲されていた。
隅田川に架かる橋や都心につながる地下鉄の封鎖によって界隈の事態が収束しはじめ、安心してしまった、どころか、調子に乗って呑みに来ちゃった常連の面々であったが、一体どこからどうやってこの短時間に湧いて出たのか、とにかく久しぶりに一杯引っ掛けて上機嫌で帰ろうとした時には、全く手遅れな事態となっていた。そして、こうなったら呑む以外にやることがない、ということに一同は気づいた。
大きな物音によって水を差された格好になり、店内は再び沈黙に包まれたが、辻がふと何か思い出したかのように板場の裏から二階の自宅へと消えたところで、杉浦が話し始めた。
「関係ない話であれなんですけど、ここって今、どうやって仕入れとかしてるんですかね?」
「ああ、言われてみれば。乾物はまだしもねえ…」
と言いながら、平原は食べかけのエイヒレを手に取って口に運び、その流れで再び飲み始めた。
「豊洲だってとっくにやられちゃってるし、物流も止まってるわけじゃないですか。魚は辻さんが釣ってこられるにしても…」
「お酒だって切らしてないし、値段もそのまま…」
「そうなんですよ、すごくないですか?」
杉浦は話しながら少し元気を取り戻し、やはり一升瓶の続きを再開し始めた。
「こかぁ、先々代からのツテが色々あんだよ、やみぃちの頃からの」
先程から途切れることなく「いいちこ」を飲んでいる迫田が割って入った。
「先々代はヒロポンもさばいてたってぇから」
「マジすか…」
と、上の階からギシッと音がした。
思わず一同が注目する中、階段を軋ませながら一段ずつ降りてきた辻は、大きな甕を抱えていた。そのままゆっくりと板場を出て、杉浦と平原の間に甕を慎重に置く。鏡開きの樽ほどはあろうかという大きさの甕を凝視しながら客一同は、上がった息を整えるように深呼吸する辻の言葉を待った。が、辻はそのまま黙って甕のフタを開けた。
身を乗り出した平原と杉浦、そして席を立って近くまでやってきて迫田は、その中をのぞき、息を呑んだ。甕をたっぷりと満たした、液体とも固体ともつかない白濁した何か。かすかな粒立ちが粥や甘酒を連想させるものの、しかし同時に溢れ出すアルコールの香りは、今まさに何億何兆という微生物が躍動しているような野性的な気配を漂わせていた。思わず目が合った杉浦に、平原が言った。
「にごり酒…なんていう爽やかなものではなさそうですねえ」
「こりゃ、どぶろくかぁ…」
辻に確認するように迫田がつぶやいた。辻は静かに頷き、口を開いた。
「先程の平原さんのお話、私もその通りだと思いまして。皆さんにぜひこれを飲んでいただこうと……」
「それはありがたい。しかしあの、これは大将がご自分で?」
「はい。秋田のひいじいさんが残したレシピを代々受け継いできました。店で出すのは私の知る限りでははじめてですが……」
「これって…違法ですよね?」
杉浦が恐る恐る聞いた。
「おっしゃる通りです。味には自信があるんですが、密造酒なのでお客さんにお出しするわけには行きませんでした……」
「この状況で酒税法もへったくれもありませんな」
「平原さんのお話を聞いていたら、これのことを思い出しまして。一人でこっそり楽しむだけでは惜しいと前々から思っていたもんですから……」
三人の客は席を詰めて並んで座った。辻が甕のどぶろくに柄杓をとぷりと差し入れ、一合枡になみなみと注いでそれぞれに供し、自分の分を持ってカウンターの向こうに戻った。平原が仕切りはじめる。
「では、迫田さん、乾杯の音頭を」
「あんたぁやれよ」
「いえ、ここはやはり最古参の迫田さんに」
杉浦と辻も頷いたので、迫田は観念して照れくさそうに音頭を取った。
「じゃあ、なんだ、乾杯」
全員が黙って枡を軽く差し上げ、どぶろくに口をつけた。かろうじて固体の状態を保っている米が口の中にどろりと侵入し、猥雑で野卑な味と香りが広がる。全員、黙って固形分を軽く咀嚼し、飲み込んでから深い溜め息をついた。
「荒々しいですねえ……」
「すごい……」
「いやあ、なにかこう、口から喉を野武士の軍勢に蹂躙されたような気分ですよ」
「ひさしぶりだぁ、こういうのは」
カウンターの向こうで黙々と仕事をしていた辻が三人の前に皿を差し出した。
「これ、よろしければ……」
「これは…!?」
平原は思わず身を乗り出した。艶めかしい光沢、黒を予感させる怪しくも鮮やかな赤、今もなお生体としての機能を保っているかのような瑞々しい断面。それは紛れもない、レバ刺しだった。
「これも私が個人的に楽しんでいたものでして……」
「いやあ、僕、大好物だったんですよ…!」
「禁止になってから何年だ?」
「忘れもしませんよ、あれは六年前の七月でした…」
「私、はじめて食べます」
「いやあ、これは上物ですよ、ミキちゃん。はじめてのレバ刺しがこれとはうらやましい」
皿に添えられた白髪ネギとおろしニンニクを乗せ、塩とごま油をつけ、三人はレバ刺しを口に運んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
レバ刺しの官能的な食感に、生食の禁止という事実が背徳感を上乗せし、皮肉にも最高の薬味として働いた。そこに追い打ちをかけるどぶろく。三人は身悶えするように深いため息を付いた。再び入り口の戸が音を立てたが、誰ひとり見向きもしなかった。
レバ刺しが片付いたタイミングで、辻がすかさず次の皿を出した。花びらの様に盛られた白身魚の薄造り。中心にはもみじおろしとアサツキが添えてあった。レバ刺しの余韻に恍惚としていた三人が色めき立った。
「フグ…!?」
「ここではフグぁ出してませんでしたよね?」
「免許がないもんですから……」
三人の客が思わず息を呑んだのを見て、辻が付け足した。
「自分で言うのも恐縮ですが、処理の腕は確かです……遠州灘の上物なので、お味の方も保証できます……」
「どうやって持ってきたんですか、それ?」
辻は静かに微笑んだ。
てっさからはじまり、唐揚げ、焼きフグ、てっちりと、三人はフグづくしを堪能し、店主の辻もそれらを供しつつ順調に呑み、甕のどぶろくは残り半分ほどになっていた。平原が入り口の戸を見つめて言った。
「まだいぁすかねえ?」
杉浦がすくっと立ち上がり、戸を開け放つと、目の前に思いっきり警官が立っていた。平然とした表情だが、右腕がない。杉浦は異様に着ぶくれしたその体を何のためらいもなくスニーカーの足裏で押し込むように蹴飛ばし、それを起点にした外の将棋倒しには目もくれず、ピシャリと戸を閉め、振り向いて言った。
「大学までずっとテコンドーやってたんぇす、わたし」
「ぃよっ!」
迫田の拍手に杉浦は会釈で応えた。
「あれぁこの辺の駐在さんぇすか?」
「ええ、真面目で誠実ないい方でした……フグを買った帰りに声をかけられた時はヒヤヒヤしたもんです……」
甕からどぶろくを注いで席に戻った杉浦が言った。
「だぁらこそ我々がねぇ、おまわりさんの分も呑まなきゃいけないんぇすよ」
「でも、もうこれ雑炊の流れっすよねぇ」
三人はカセットコンロの上の土鍋に残るてっちりのスープを見つめ、顔を上げた。辻がいない。裏の階段を上がっていく音が聞こえた。
「……」
「……」
「……」
入り口の戸が鳴った。それを合図にしたかのようにゆっくりと迫田が枡を持って立ち上がり、甕までよたよたと歩いてどぶろくを注ぎ、席に戻った。平原も手元の枡をぐっと呑み干し、どぶろくを注いだ。階段がまた軽くきしみた。
辻が甕の横に置いた小ぶりな樽の中には、ぎっしりとぬか味噌が詰まっていた。
「ここぇきてぬか漬けとぁ、乙ですなぁ」
「ええ、ただ、ぬか漬けとは言っても少し特殊なものでして……」
辻がそう言いながらぬか床から取り出した小ぶりな茄子のような物体は、ぬか味噌をしごき落とすと、変色してくすんだタラコのような、さらに正体不明な姿を現した。それにすかさず反応したのは杉浦だった。
「フグの子…!?」
「卵巣のぬか漬けというやつぇすね。ミキちゃん、若いのによくご存知で」
「私、能登の出身なんです」
「フグの卵巣には猛毒があるんですが、こうして二、三年漬けておくことで無毒化されます……」
「なんで毒が抜けるのか解明されてぁいんですよ」
「テトロドトキシン、たまらんですなぁ…」
「うまいのかこれぁ」
「味の方は保証します……」
「っていうか、もちろん作るのに許可いるんですよね?」
辻は静かに微笑んだ。
スライスして供されたフグの子を、三人はそれぞれに一切れずつ取って恐る恐る口に運び、辻も自分用によけておいた端の部分をパクっと口に入れた。乳酸菌によって制圧された卵巣は複雑な旨味と強い塩気に満たされ、致死性の毒の残党への猜疑心がスパイスとなってそれらを増幅した。そこへなだれ込むどぶろく。一同は黙々と食べては呑み、呑んでは食べた。辻は次から次へとぬか床に眠っていたフグの子を掘り出してきたが、三人の客は「一体何本あるのか?」という疑問に立ち止まる暇もなく、ひたすら呑んだ。
ついに甕の中は空となり、それぞれの枡に最後の一杯を残すのみとなった。辻は達成感と一抹の寂しさに酔いしれるようにゆっくりと口をつけた。天井を仰ぎ見る平原の頬には一筋の涙が伝い、迫田は枡を持ったまま赤ら顔でうとうとと船を漕いでいた。杉浦は何ら躊躇なく最後の一杯を一気に呑み干し、たばこを一服つけ、煙を吐き出しながら忌々しげに口を開いた。
「やっぱただ黙って喰われるってのはなっとくいかないんぇすよえ」
「戦う…ということですか……?」
「いや…戦うってか…あいつらってほっといてくんないじゃいすかぁ…それがムカつくんぇすよね…だぁら、積極てきに倒したいわけじゃないすけど…そっちがくんならやんぞっていう…」
「目的地がほしいすな」
最後の一杯をしみじみと味わっていた平原が割って入った。
「わけもなく外にでてえじきになるんじゃあアホらしいです…どこかへ行くために出る…それを邪魔しようつなら…そうはさせんぞというね…」
「それですよ…!はしごしましょう…!ちょこまかじゃまするならぶっ飛ばしてやりゃあいいんれすよ…」
「行くなら立石に向かって荒川を渡るのがいいんじゃないでしょうか……」
「わたれんすか?」
「橋は封鎖されてる可能性が高いですが、舟のツテはあります……」
「いいですなぁ、立石っ…」
「こっそり呑ませてる知り合いの酒屋があります……」
「いいですなぁ…!」
「きまりぇすね」
「では……」
辻は板場から消火器を出して空になった甕の側に置き、さらに店内や二階の自宅から武器になるものを速やかに集めた。消火器が三本、刺又が二本、ガスバーナー、消毒用のアルコールスプレー、スタンガン。
「ずいぶんそろいましたなぁ…これぁ…」
「すたんがん…!」
「食糧目当てに人間が押し入ってくる可能性もありますんで、念のため色々と……」
「なうほど…いやこらぁいけますよ」
「みきちゃんのてこんどーもありぁすからね」
杉浦は身軽にスタンガンのみを持ち、平原が消火器と刺又、辻が消火器と刺又にガスバーナーとアルコールスプレー、寝起きの迫田は消火器のみという装備に落ち着いた。
杉浦が入り口の戸の前に立つと、平原と迫田が絵に描いたような千鳥足で杉浦の後ろに付き、最後尾に辻が陣取った。
「いきゃすかぁ…」
杉浦がそう言うと、応えるかのように戸が二度鳴った。
戸を開け放つと、赤みがかった西日を背負って先程の駐在が現れた。杉浦はまたしても躊躇なくこれを蹴飛ばし、外へと躍り出た。平原、迫田がフラフラと続き、最後に辻が店の戸を後ろ手にピシャリと閉めた。
大衆居酒屋「つじや」の店内には、アルコールと、ぬか味噌と、雑炊にし忘れたフグのだしの香りが微かに漂っていた。
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