プロローグ

 


「おじようさん」

 呼びとめられた瞬間しゅんかん心臓しんぞうが飛びねた。

 えてすぐには反応せず、ゆっくりと振り向く。重くてはばの広い、中年女性の体は使いにくい。それに、あまりびんな動きをしてもあやしまれるだけだ。

「いやですよ、ご主人様。あたしゃお嬢さんなんて歳じゃありませんよ」

 そう答えると、声をかけてきた人物は不敵に笑った。

 このしきの主人、イーディスはぼうの若者だった。闇夜の黒髪くろかみあざやかないろひとみ。上質な服をまとい、耳や首には贅沢ぜいたくに宝石をあしらった装身具がかがやいている。その全てが彼の富貴ふうき象徴しょうちょうしていた。

「そこで何をしている」

 イーディスの隣にいる従者が口を開いた。片手で抜き身の剣を構え、主人より半歩先にかばうような体勢で立っている。眼光はするどく、一分のすきもない。

 肉づきのよい体をらし、胸を張って答える。

「あたしゃ清掃せいそう係のメイドです。掃除そうじをするのが仕事です」

「こんな夜中に? 熱心だな」

 からかうようにイーディスが言い、ゆるく一つにった黒髪が揺れた。

 時刻は真夜中。屋敷の者はみな寝静まり、風にそよぐ木々のざわめきだけが聞こえてくる。

 ここは屋敷の東塔だ。母屋おもやと塔をつなぐ渡り廊下ろうか鉄柵てっさくで堅く閉ざされ、せん階段の上の宝物庫には侵入しんにゅうけの魔法陣まほうじんかれていた。

 それが今ようやく張りめぐらされたわなを無効化し、宝物庫のかぎを開き、目の前には山と積まれた金貨が光っている。あともう少しというところまで来ているのだ。ここで引き下がるわけにはいかない。

 ふところに手を入れるのと、従者がナイフを投げつけてきたのは同時だった。

 首を軽くかたむけることでナイフをかわし、懐から出した小さな球体を床にたたきつけた。たちまち黒いけむりが立ち上り、視界がさえぎられる。

煙幕えんまく……!」

 従者は舌打ちした。

 だが、その瞬間、螺旋階段を突き上げるように強い風が吹き、煙は一瞬いっしゅんでかき消された。

「なっ……!」

 驚いて動きが止まったところを、イーディスに両手首をつかまれ石壁いしかべに押しつけられる。


「掃除は掃除でも、金庫をからにするのがお前の仕事だろ? アルメリア・アストリッド」

 

 名前を呼ばれた瞬間、硝子ガラスくだけるような音がひびいた。

 丸々と肥えた中年女性のからげ、代わりに蜂蜜はちみつ色の髪、蒼い瞳、華奢きゃしゃな体格が戻ってくる。

 これが、本来のアルメリアの姿だった。

 突然の変貌へんぼうに驚いた様子もなく、アルメリアの瞳を間近でのぞき込むと、イーディスは朗々ろうろうとした声で告げた。

「表向きは俺の屋敷にやとわれた住み込みのメイド、ハンナ。だがその正体は、金持ちの家にしのび込み、お宝をごっそり奪う盗賊とうぞくってわけだ」

 アルメリアは拘束こうそくを振りほどこうとするが、力の差は圧倒的だった。

 鮮血せんけつを思わせるその目が、何もかもを見透みすかす緋色の視線をそそいでくる。アルメリアは目をらさず、こうからイーディスをにらみつけた。

「五年前に暗殺》された国務大臣ジャスティス・アストリッドのむすめ滅亡めつぼうしたはずのアストリッド家の生き残り……随分ずいぶんさがしたぜ」

 ぎくりと背筋が強張こわばる。

 ――何でそれを。

「ま、世間的には一家心中ってことになってるがな」

 表情から動揺どうようを読み取ったのか、イーディスは軽い口調でつけ加えた。

「当時十一だったから、今は十六か。何の後ろだてもないガキが、この小さな島国でよく五年もげ回ったもんだよ。相当かくれんぼが上手じょうずだとは思ってたが、やはり《まじない》で姿を変えてたようだな」

 ――この男は私を捜していた。五年前の事件のことも知っている。

 ――なら、お父様とお母様を殺したのは……。

 心臓が凍りつく思いで、アルメリアは彼を見上げる。

「けど、ちょっとに落ちないんだよなー」

 と言うと、イーディスはアルメリアの耳元にくちびるを寄せ、低くささやいた。

「お前、何で生きてんの?」

 瞳孔どうこうが開き、息が詰まってのどがひきつる。

「五年前の事件でアストリッド大臣が死んだとき、やかたにいた奥方と子どもも一緒に殺されたはず。その後、何者かが証拠隠滅しょうこいんめつのため火を放って館は焼失しょうしつ。だが、なぜか焼け跡から子どもの遺体いたいは見つからなかった。骨の一本さえな」

 体がふるえ出す。背中に冷たい汗がにじむ。アルメリアはごくりとつばを飲んだ。

「さて、これは一体どういうことかな? 説明してもらおうじゃねえの」

 ――どうすればいい?

 力の差は歴然、しかもイーディスの背後には従者がいる。今ここで屋敷の床がくずれでもしない限り、逃げ出すのは困難だ。

 かといって、あきらめるわけにはいかない。せめて、せめて『あの子』が無事逃げられるまでは――。

 何とかして時間をかせごうと、アルメリアは語り出した。

「さすがはイーディス様。その若さで、この国を裏で牛耳ぎゅうじるだけはあるわ」

 たっぷり皮肉のこもった物言いに、従者の腕がぴくりと動く。

 イーディスはそれを目で制すと、軽く笑った。

「それは買いかぶりってもんだ。俺はただの商人だよ、ちょっともうけてるだけのな」

「イーディス・クラウン。二十五歳。この国唯一ゆいいつの商業組合であるガリア商会の会長。表向きは農作物から工芸品まで手広く売買を行う商人。でも裏の顔は、国内最大の民間軍事組織『ゴッドアイ』の総領そうりょう依頼いらいに応じて派遣はけんする用心棒という名目で養成した武装構成員を各所に配置し、国内の金の流れを監視かんし・統制している」

 よどみない台詞セリフを聞きながら、イーディスは余裕の表情を崩さず口の端をり上げている。

 だが、アルメリアの次の発言が波紋はもんを引き起こした。

「『ゴッドアイ』はもともと、為政者いせいしゃ専横せんおう対抗たいこうするため結成された自治組織。七年前、先代総領であるヴォルチェ・クラウンが創始し、他の自警団の吸収合併がっぺいにより拡大。三年前、先代と、跡継ぎと目されていた彼の実子が死去。そして、であるあなたが総領の座についた」

 イーディスの顔色が変わったのを見て、アルメリアはすかさずそのあごめがけて頭突ずつきを食らわせた。思わずイーディスが体勢を崩し、力が緩む。

 その隙に腕をほどいてけ出したが、すぐ金縛かなしばりにあったように全身の自由を奪われた。すさまじい力に上下左右から圧迫あっぱくされ、呼吸すらできずに立ちくす。

 背後から近づいてきた従者に羽交はがめにされ、首筋に剣を押し当てられる。

「それ以上喋しゃべれば殺す」

「おいおい。そんな命令してないぞ、ベオ」

 イーディスが軽く手を振ると、硬直こうちょくが解けて呼吸が戻った。

 アルメリアは横目でベオと呼ばれた従者を見やった。どうやら、今のは彼の《まじない》らしい。数秒の間、他者の動きを止められる能力といったところか。

「その情報、だれからどうやって仕入れた?」

 問いかけに対して、アルメリアは沈黙ちんもくつらぬいた。

「簡単に調べられるようなネタじゃないんだがな……」

 ひとごとのようにイーディスはつぶやく。

「私を殺せば、あなたやゴッドアイに関する不利益な情報が外部に流れる手筈てはずになってる。強大な組織とはいえ、あなたたちには敵も多い。どうなるか楽しみね」

「貴様っ」

 ベオの締め上げる腕に力がこもり、アルメリアは痛みに顔をしかめつつも不遜ふそんに笑う。

「どうする? イーディス様」

 イーディスはしばらく真顔で、値踏ねぶみするようにアルメリアを見つめていたかと思うと、

「……合格だ」

「は?」

「お前のその調査力と、数日でここまで辿たどりついた手腕しゅわんを買ってやる」

 彼はピアスをはずし、アルメリアの足元に向かって投げ捨てた。室内のあかりをびて輝くそれは、朝露あさつゆつらねたような白銀にエメラルドを散りばめた、精巧せいこうな造りの逸品いっぴんだった。

 ピアスとイーディスを交互こうごに見比べたアルメリアだが、長い指で顎を持ち上げられて上を向かされる。

「盗賊として雇ってやるよ。それは前金だ。任務を成功させれば命は取らない、見合うだけの報酬ほうしゅうは払う」

「任務? いや、それより合格って何よ。まさか私をためしてたとでも言うの」

「そのまさかさ」

 イーディスはにやりと笑う。

 だが、アルメリアには信じられなかった。

「私を……殺すつもりじゃないの?」

「言ったろ? 雇ってやるって。今のところは生かしておいてやるよ。任務に使えそうな奴を殺すのはもったいないからな」

馬鹿馬鹿ばかばかしい」

 アルメリアは吐き捨てた。ハンナの変装を見抜いていたのなら、最初かららえればいいのだ。それを悠長ゆうちょうに泳がせておいて、合格? 意味が分からない。それに目的が何であれ、五年前の事件を知った上で自分を雇うだなんて、どうかしている。

「信じる信じないはどうでもいいけどな。とにかく、にはやってもらうことがある」

「任務だか何だか知らないけど、あんたに利用されるくらいなら死んだほうがましよ」

「そんなこと言っていいのかな?」

 イーディスは目を細めると、うすく笑った。

「お前が死んだら、大事な弟はどうなる」

 全身から血の気が引いた。

「お前らがペアで動いてることは分かってるんだよ」

 心臓が縮み上がる。わずかに残っていた強がりと意地は消え、心が恐怖きょうふめ尽くされていく。

「残念だが、俺にはったりは通用しないぞ。商人は情報が命だ、取引する品については調べ尽くして当然」

 アルメリアは最後の悪あがきを試みた。

「弟なんていない。このぬすみは、私一人でやったことよ」

「だから無駄むだだって言ってんのに……」

 イーディスは溜息ためいきまじりに言う。

「ま、いいや。証拠を見せてやるよ」

 彼が手を叩くと、扉のかげから両手足をくさりに繋がれた少年が姿を現した。眼鏡めがねをかけた知的な眼差まなざしは、アルメリアの瞳と同じように蒼く澄んでいる。

 その瞬間、アルメリアは動いていた。

「何……っ!?」

 ベオが驚愕きょうがくの声を上げた。それもそのはず、アルメリアは喉元に水平に押し当てられていた剣をつかんで回転させ、あろうことか自分の首ごと背後のベオの肩をしたのだ。勢いに任せて一切手加減しなかったため、アルメリアの指と首筋からは血がき出していた。ベオがあと少し剣を引くのが遅ければ、彼は重傷を負い、アルメリア自身の首も太い動脈どうみゃくをえぐられていたことだろう。

 刹那せつなに生じた機会をとらえ、アルメリアは弟に向かって突進した。だが、すぐに体が動かなくなる。目だけを動かして見ると、ベオが《まじない》を使ったらしく、右の手のひらが強く握りしめているのが分かった。

「くっ……」

 見えない拘束を引きちぎってでも進もうとするアルメリアに、少年は言った。

「姉さん、落ちついて」

 少年の後ろでもう一人の従者が剣を構え、喉元に突きつけている。それが目に入ると同時に、イーディスが言った。

「それ以上動くと、弟が死ぬことになるぞ」

 先ほどより短い時間で金縛りが解けると、アルメリアは床に崩れ落ちた。

 ベオが容赦ようしゃない力で右腕をひねり上げてくる。腕がへし折れるかと思うほど壮絶そうぜつな痛みがおそったが、アルメリアは眉すら動かさなかった。

 激しい憎悪ぞうおのこもった瞳で、低く、

「放せ」

 ベオはぞっとした顔で呟いた。

「こいつ……痛みを感じないのか」

 もちろん、そんなはずはない。首や指からは血がどくどくと流れ、腕は死ぬほど痛む。いつ殺されてもおかしくない状況だ。しかし、恐怖や痛みにまさる圧倒的な力が、アルメリアを突き動かしていた。

「やれやれ。まるで野生のけものだな」

 イーディスはどこか愉快ゆかいげに言った。

 床にしたたり落ちた血は、点々と赤い花を咲かせている。

 彼はしゃがみ込み、アルメリアと目を合わせると、口を開いた。

随分ずいぶんと無茶するねえ。首、血だらけだぞ?」

 だが、アルメリアの瞳はイーディスを素通りして、弟しか見ていない。

「イーディス様。この女、俺が今ここで」

「黙ってろ、ベオウルフ」

 冷徹れいてつな表情で言い伏せ、イーディスは少年の方へ向かう。

「いやー、うるわしき姉弟きょうだい愛だ。なあ? 弟君」

「ティルザ!」

 さけんだアルメリアをよそに、イーディスはティルザの耳元で何事か呟く。

 すると、ティルザはがっくりと項垂うなだれるようにしてうなずいた。

「ティルザ、ティルザ!! っ放せっ!!!」

 ベオの腕の中でもがくアルメリアに、ティルザは静かに「姉さん」と呼びかけた。

 それだけで、アルメリアの瞳に光が灯る。

「落ちついて。僕は大丈夫だから。とにかく今はこの人たちに従おう」

「でも……」

 ティルザは泣き笑いのような表情で、首をかしげてみせた。

「ね?」

 アルメリアは長い睫毛まつげを伏せ、だまっていたが、やがて顔を上げて言った。

「……分かった。あなたたちに従う」

「いい子だ」

 イーディスは満足げに微笑ほほえむ。

「ベオ、放してやれ」

「よろしいのですか」

 驚いたようにベオは問い返したが、イーディスはあっさりと頷く。

 解放されたアルメリアは、よろめきながらティルザに駆け寄り、強くしがみついた。

「ティルザ……ごめんなさい、私……」

「ううん、しくじったのは僕だよ。ごめん姉さん」

 アルメリアは弟の頭をで、無事を確かめるように何度も肩や背中をさする。

怪我けがはない?」

 平静をたもとうとしても、出たのは今にも泣き出しそうな弱々しい声だった。

 ティルザはゆっくりと首を振り、もう一度繰り返した。

「大丈夫だよ。何もされてない」

 前髪を上げてひたいを見せ、にっこりする。アルメリアが額に口づけると、ティルザも同様に彼女の額に口づけた。

 そしてようやく腕を離し、大きく息をつくと、アルメリアは警戒けいかいを解除した。

 両手を上げた状態で立ち上がり、イーディスに問いかける。

「で? 私に何をさせる気」

「まあ、そうあわてるなよ」

 彼は意味深いみしんに笑うと、鍵を取り出してティルザの両手足の縛めを解く。これにはティルザ本人だけでなく、ベオも驚いたが、イーディスは「いいんだよ」と言い含めた。

「お前も、もう下がっていいぞ」

 イーディスはもう一人の従者に命じると、ベオに向き直った。

「ベオ、止血してやれ」

「……かしこまりました」

 ベオは渋々しぶしぶといった様子で懐から布を取り出し、包帯の要領でアルメリアの指と首にきつく巻きつけた。今更いまさらながら痛みが込み上げてきて、思わず顔をしかめる。

「痛いか」

 イーディスに問われ、アルメリアはそっぽを向いた。

「別に」

「意地張るなよ。痛いに決まってんだろ」

 じゃあ何で聞くのよ、とアルメリアは思ったが、口には出さないでおいた。

 とにかく今は耐えるしかない。ティルザの命がかかっているのだから。

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