第4話 光が当たる世界には影が存在する
御主人がブラックキマイラを仕留めたのは一瞬のことだった。
御主人の手によって繰り出された槍での一撃は、ブラックキマイラの真上から背中の中心を──そこにある奴の心臓をあっさりと貫いていた。
首が三つあるブラックキマイラは、その頭がひとつ落ちた程度では死なないという。無事である残り二つの頭が失われた頭の分の役割も補って命を保たせるのだそうだ。
だからそれを防ぐために、御主人は奴の心臓を直接潰したのである。先程御主人が自らに施した魔法の力によって、腕力を通常の何倍にも強化させてブラックキマイラの強靭な体を一撃で貫通するという所業を可能にしたのだ。
心臓を潰されたブラックキマイラの巨体がぐらりと傾ぐ。
横倒しになっていくブラックキマイラの体の上から飛び降りる御主人。彼が地面に着地すると同時にブラックキマイラの体も横へと転がり、そのままぐったりとして動かなくなった。
うぉおおお、と周囲から歓喜の声と拍手が湧き起こる。
「あんな魔物を一撃で……流石勇者様だ!」
「勇者様がこの街にいて下さって良かった……勇者様がいらっしゃる限り、この街は安泰だ……!」
「勇者殿、お怪我は──」
先程御主人にブラックキマイラや現場の状況を説明してくれた憲兵が走り寄る。
怪我も何も、御主人が一方的にブラックキマイラを仕留めたのは彼も見ていたと思うのだが。あの状況で御主人の方が魔物に手傷を負わされているなんてありえないと思う。
それでもしも御主人が何らかの怪我をしているとしたら、それは──
「ああ、大丈夫ですよ。こいつがこちらに反撃して来れないように死角から攻めましたか……らっ!?」
御主人は槍を背負い直しつつ憲兵の方へと歩き出そうとして、盛大に足を滑らせて、こけた。
仰向けにひっくり返った御主人の足が宙を蹴る。その足の裏にひっついていた潰れた芋が、小さな欠片となって地面へと落ちた。あの芋はおそらくブラックキマイラが食い散らかしていた食べ物の残骸だろう。
茹でたジャガイモを踏んだだけであそこまで派手に転べる人間は、世界中の何処を探したとしても御主人だけだと思う。
御主人の鎧が石畳にぶつかってけたたましい音を立てた。この場に満ちていた歓声や拍手が一瞬で途絶えて、気まずそうな沈黙が一気に広がる。
御主人に駆け寄った憲兵も、この空気の中どういうリアクションを取ればいいのかが分からずに困っているようだ。申し訳ない。
それでも、彼も街の治安と民を守るプロの兵士だ。すぐに平常心に戻ったかのように顔を取り繕うと、のたのたと身を起こそうとしている御主人に右手を差し伸べた。
「どうぞ掴まって下さい。勇者殿に大きなお怪我がなくて何よりですよ」
「ああ、すみません。背負ってる武器が引っ掛かって起きづらくて……ありがとうございます」
そりゃ、あれだけの武器を身に着けてたら動きの妨げになるのは当然なのではなかろうか。
鎧は身を守るためのものだから仕方ないにしても、御主人はもう少し持ち歩く武器を厳選して数を減らした方が良いと思う。
差し出された手に掴まって御主人が身を起こすと、矢筒から矢がばらばらと零れて落ちた。
全くもう。御主人は普段から剣や槍みたいな相手を直接叩く武器を好んで振り回しているんだから、その分体を激しく動かす機会が多いことをもう少し自覚してほしいものだ。使うこともあるのだろうから弓を持ち歩くなとは言わないから、せめて簡単に中身が零れないように矢筒の身に着け方を考慮してほしい。
私は早足で御主人の元へと歩み寄り、散らばった矢を前足で掻いて一箇所に集めた。
全てを集め終えたところで、立ち上がった御主人が私の頭を撫でてくれた。
「ありがとう、ブランカ。すまないね、荷物をお前に持たせてしまって」
くしくしと毛を掻いてくれる御主人の指先が気持ちいい。私は尻尾を振りながらウォンと小さく鳴いて返事をした。
御主人は私の背中に括り付けられている薬草入りの袋を、縛っているロープを解いて取り上げた。
このロープは、御主人が日頃から携帯している旅道具のひとつだ。人間の小指ほどの太さしかないが頑丈な素材でできており、巨大な象一頭分の重さにも余裕で耐えられるほどの強度があるらしい。本当かどうかは分からないが……それで、薬草を詰めた袋を私に括り付けて持たせていたのである。見栄えは悪いかもしれないが、私が袋を口に咥えて運ぶよりも安定した運搬手段であると言えるだろう。そもそも私は犬だから、自分の見栄えのことなど気にもしてないし。
ロープを片付けて薬草入りの袋を抱え上げた御主人は、憲兵の手から彼が拾ってくれた矢を受け取って、小さく会釈をした。
「ありがとうございます。お手数を掛けました」
「いえ、こちらこそ魔物討伐への御助力、感謝致します。後始末は我々だけでも問題ありませんので」
「そうですか? では、僕はこれで帰りますね。……行こうか、ブランカ」
私は返事をして、先に歩き出す御主人の後に続いた。
……せっかくハーワード通りに来たのだから、何か美味しい食べ物にでもありつけるかとほんの少しばかり期待していたのだが。まあ、御主人が此処に来る前にブラックキマイラが派手に暴れたせいで屋台は無残に吹っ飛んでおり商人たちも避難していて此処にはいないから、現在営業している店もない。食べ物を貰うのには無理のある状況だということくらいは理解はしていたけれど。
と。その時だった。後方から、御主人のことを呼ぶ奇妙な声が聞こえてきたのは。
「……流石は勇者ノ紋を持つ者の力よな。こうモいとも容易く我ガ眷属を屠るとハ……愉快、愉快」
人の言葉ではあるが、何処となくくぐもっている上に変な訛りがあって微妙に聞き取りづらい。
ひっ、と周囲の人々から次々悲鳴が上がり、場がどよめく。
「……そ、そんな……あの魔物、まだ生きて……!?」
「!」
生きている。その一言に、御主人は一瞬で険しくなった顔を後方へと向けた。
私たちが視線を向けた先にあるのは、先程御主人に心臓を貫かれて絶命したブラックキマイラの死骸。
死んでいるはずのそれが──山羊の頭に付いている眼を赤く光らせて、御主人のことをじっと見つめていた。
「少しハ余輩ノ退屈を紛らわセる役には立ってくレそうよナ。そうデなければツまらヌ」
「な、何だあれは……アンデッド、なのか」
「……いえ。違います。あれは何者かがあの死骸を口寄せの傀儡として操っているようですね。高い魔力を持つ魔道士とかが時々そういう手段を使うんですよ」
何でも、魔法を操ることができる者の中には、私のような犬や猫、鳥、魔物のような生き物や鏡、壺、人形などの物に自分の魔力を宿らせて自分の代わりに言葉を喋らせたり手足のように操ることができる技を使う存在がいるらしい。世に広く知られた、いわゆる『正規の魔法』とは異なる手段なので、魔法とはまた違う能力であるらしいが。
御主人は袋を抱えたまま、油断なくブラックキマイラを見据えている。
「何者だ。それだけの芸当ができるほどの魔力を持つからには、一介の魔道士ではないようだが」
「余輩ヲその辺ノ塵芥共と同列視さレルのは不愉快であル故な。イずれは顔を合わせルノであロうが、答エてヤろう」
山羊の口でぐっくっくと器用に含み笑いを漏らしてみせながら、奴は皆が注目している中、己の名を告げた。
「余輩ハ──ネルグリュウス・ドール・ヴラクラッカ。数えテ五代目トなる、現代の魔王であル」
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