第3話 それでも人は御主人を勇者と呼ぶ

 何とか無事に買い物を済ませて帰路を歩く御主人と私。

 その後ろ姿を、遥か後方から走って追いかけてくる者の存在があった。

「……ああ、良かった、勇者様……!」

 呼びかける声に気付いて振り向く御主人と私の視界の中に、一人の男の姿が映っていた。焦げ茶色のブリオーを身に纏った、金の髪に顎鬚を生やした壮年の男だ。

 この服装は、平民と呼ばれる一般的な身分の人間の殆どに見られるものだ。色合いが地味でこれといった装飾もないので、商人のような特別な職に就いている者ではないことが一目で分かる。商人などは刺繍が施されているもう少しだけ派手で高級そうな服を着ていることが多いので、そこで区別することができるのだ。

 因みに私は犬なので、その人間がどんな仕事をしている人物であるのかは服装を見なくても分かる。その人物の匂いを嗅げば大抵は一発だ。料理屋や酒場を営んでいる人間であれば食べ物の匂いがするし、武具を販売している人間であれば金属の匂いがする。医者や薬師であれば苦そうな薬の匂いがする。私はあの匂いはどうも好きにはなれない。

 この男からは……砂っぽい木の匂いがする。多分この男は何処かの倉庫とかで荷物運びの仕事をしているのだろう。平民と呼ばれる人間がしている仕事としては、まあ普通の内容のものだ。

 男は御主人の傍まで駆けてくると、目の前で息を切らしながら立ち止まり、膝に手を当てて背中を丸めて呼吸を整えた。

 ようやくまともに喋れる程度に呼吸が落ち着いたところで、やけに慌てた様子で御主人に言う。

「勇者様、ハーワード通りに魔物が! 売り子の女子供が襲われて、怪我を……どうか、魔物の討伐に力をお貸し頂けないでしょうか!」

「……ハーワード通りに、ですか?」

 ハーワード通りとは──この街の中に、そういう名前で呼ばれている区画があるのだが、露店商が多く集って店を開いている通りなのだ。

 露店商は、一般的な建物で経営している店とは異なり、店主が異国から旅をしてきた旅人であることが多いため、地元では普通だと手に入らないような珍しい品物を色々と売っている。御当地の特産品を専門に売っている移動式の店、といったところか。露店商が売っている品物には人間が着る服や宝飾など実に様々なものがあるが、ハーワード通りで商いをしている露店商は、どういうわけか食べ物関係の品物を売っていることが多い。中には露店料理という手軽に食べられる料理を提供している店もある。そういう理由もあって、あそこはいつも美味しそうな匂いが漂っているのだ。

 ひょっとしたら、その魔物とやらは匂いに誘われて何処からかやって来た奴なのかもしれないな。私も御主人に連れられてあの通りの傍を通る時は、つい匂いに誘われて中まで入ってしまいそうになるし。

 御主人は男の言葉に頷いて応えた。

「分かりました。すぐに向かいましょう」

「ありがとうございます! 宜しくお願いします!」

 男はがばっと体を二つ折りにして御主人に礼を言うと、すぐに元来た道を引き返していった。

 御主人は抱えていた薬草入りの袋を抱え直すと、傍らの私に言った。

「……お前は先に家に戻ってなさい。僕はこれから魔物退治に行ってくるから」

 言うなり、御主人は駆け出した。

 そして──たまたま目の前に落ちていた小さな丸い石を踏んづけて、ずるっべちゃっと盛大に顔面から地面に突っ込んだ。

「いった!」

 御主人の腕の中からすっぽ抜けた袋の口が開いて、中から薬草の束が転がり落ちる。

 背負っている矢筒から矢が零れて辺りにばら撒かれ、一瞬にしてその場は散らかってしまった。

 ……どうして小石を踏んだだけで転ぶかな、この御主人は。細い足場の上を普通に渡れるくらいに体幹はしっかりしているはずなのに。

 まあ……御主人の場合、何もなくても転ぶからな……普通に。実はわざとやってるんじゃないかってくらいに。

 御主人だったら、小石じゃなくても落ち葉を踏んだだけでも見事に転べそうな気がする。

 と……呆れてる場合じゃなかった。早く御主人をハーワード通りに向かわせないと。

 私はもたもたと身を起こしている御主人の姿を視界の端に捉えながら、散らばった薬草やら何やらを前足で引っ掻きながら回収し始めたのだった。


 御主人がハーワード通りに到着した時、現場は右往左往する人々でごった返していた。

 その人々の中に時々紛れている、チェインメイルを身に着け槍を手にした騎士たち。彼らはこの街を守護する役目を背負っている憲兵たちである。街の外から侵入しようとしてくる魔物と戦ったり、街で悪事を働いた悪人たちを取り締まったりして、街の治安と安全を守ってる人間たちだ。

 おそらく此処に魔物が現れたという一報を聞いてその対処のために来ているのだろうが、彼らは街の人々を安全な場所に逃がすことに精一杯なようで、肝心の魔物駆除の方にまでは手が回っていない様子だった。

 群集を掻き分けながら騒ぎの中心地へと近付く御主人に、憲兵の一人が近付いてきた。

「勇者殿! 来て下さったのですか!」

「すみません、遅くなりました……魔物は、何処に?」

「はい。あそこに……」

 言って憲兵が視線を向けた先──すっかり無人となって売り物が辺りに散乱して目茶苦茶になった通りの中央に、それはいた。

 大きさは、人間の倍近くある。大雑把に見て二メートル半、といったところか。真っ黒な毛で覆われた四足の獣の胴体に、長い尻尾。背中には折り畳まれた黒い蝙蝠の翼。それぞれ異なる特徴を備えた三つの頭を持っている、そういう生き物だ。

 頭の形は……ひとつは獅子。ひとつは山羊。そして最後のひとつが蜥蜴のそれによく似た輪郭を備えている。

 そして、この強烈な獣臭というか、生肉が発酵しかけているような饐えた臭いというか……全く、鼻が曲がりそうだ。頭が痛くなる。鼻がいい私には堪える。

 私は思わずくしゃみをしてしまった。

 魔物を一目見た御主人の表情に、緊張の色が宿る。

「あれは……ブラックキマイラ、か? 此処らだとまず見かけない魔物だけど……」

「最初は我々だけで仕留めようとしたのですが、どういうわけか我々の武器だと全く歯が立たず……あれの注意が露店料理に向いている隙に商人たちをこの場から離すことしかできませんでした。全くお役に立てず、申し訳ない」

「いえ、それは仕方がありませんよ。ブラックキマイラの皮膚は強靭で、黒鋼を凌ぐとも言われていますから……普通の鉄の武器ではまず仕留めるのは無理です。この場は僕に任せて下さい」

 御主人はブラックキマイラに向かって一歩前に進み出ると、背負っていた槍を手に取った。

 先端を尖らせた棒を捻ったかのような、奇妙な形をした群青色の槍。柄に埋め込まれている白い宝玉のような部分を指先で軽くとんと叩くと、御主人は軽く構えを取った。

 直立姿勢で、先端を地面に向けた、いわゆる下段の構え。これから派手にそれを振り回すにしては随分と力の抜けたポーズだが、これが御主人流の槍の構え方なのだ。

「……力よポテスタース

 御主人が小さく何かを呟く。それと同時に、御主人の全身が淡い白の光に包まれる。

 光はすぐに消えたが、未だに御主人の体を先程の光が包み込んでいるような、そんな風に私には見えた。

「なるべくこちらには誰も近付かせないようにして下さいね」

 御主人はそれだけ言い残すと、その場を飛び出していった。

 地面に落ちた食べ物を貪っていた魔物が、自分に近付いてくる足音の存在に気付いたのか三つの頭を同時に持ち上げて御主人の方を向く。

 御主人は大きく前に踏み込んで、地面を力強く蹴り、宙高く跳んだ。

 一瞬にして魔物の視界内から姿を消した御主人は、相手の頭上で上下逆さの体勢になったまま槍を大きく振りかぶる。

 その場に留まっていた人々の間から歓声が上がり──その一瞬後に、金切り声のような絶叫が通りを端まで貫かんばかりの勢いで響き渡った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る