第2話 NEW GAME

 ゆるやかな弧を描く海岸線にそって港町が広がっている。内陸に向けて段々畑状に整地された登りの傾斜が続き、いただき付近は広い台地状になっていた。そこに広がる石畳の町並に陽光が照り映える。町を形づくる家々は平屋か二階建ての小規模な物がほとんどで、雑多でいながら不思議な調和を醸し出していた。行き交う人々は皆、色調は地味だが文様が印象的な衣装をまとい、思い思いの方向に散っていく。四つ辻には食料品を始め様々な日用品を商う露天が並んでおり、売り子の声がリズムカルに響き活気に満ちていた。

 町の中心部には、かなりな規模の広場があった。広場のさらに中央に大きなオベリスクが建っており、黒曜石のようなその材質は、あたりの建物とは明確に印象を異にしていた。

 オベリスクの周り、数カ所で青い光が閃き、中から忽然と人が現れる。皆それぞれに武装して、頭の上に青いマーカーが浮いていた。ログインしてきたプレーヤーたちである。


 『フィフスエレメンタル・サーガ・オンライン』は七ヶ月ほど前に本サービスを開始した全感覚没入型オープンワールドRPGである。近年ようやく実現したフルダイブ型MMORPGと呼ばれるジャンルにおいて、およそ十数作目にあたる後発組だったが、野心的とも言える規模でのゲーム世界構築に、エポック・メイキングな大作との高評価を受けていた。殊にプレーヤーが感じる身体感覚が実に自然で、NPCノン・プレイヤー・キャラクターの受け答えもまた実際の人間と区別がつかないとの評判である。ゲーム世界観はオーソドックスな「剣と魔法のファンタジー世界」だ。


 オベリスクの前に、二つ並んだログイン・エフェクトがほとんど同時に閃く。現れたのは男女のペア。十代前半の少年と二十代半ばの女性という組み合わせで、ぱっと見、素直に予想すれば姉弟に見えた。

 少年がわずかに体勢を崩し、女性側がすばやく腕をつかんで支えた。


「大丈夫? 違和感があるかしら?」

「大丈夫です、ちょっと……急だったから。えへへ」


 女性に照れたような笑みを向ける黒髪で黒い瞳の少年。皮鎧を身にまとった戦士タイプのアバターだが、その表情に、どこか線の細い印象を受ける。対する女性はローブ姿の魔道士タイプ。落ち着いた物腰と、かなりハイレベルな装備品からは、それなりにゲームを進めているプレーヤーである事が伺われた。女性は少年の腕を取ったまま、広場から伸びる街路へ歩いて行く。


「開始前のチュートリアルは済ませて来たでしょうけど、見ての通りシステム解説に限られているわ。身のさばき方とかそういうPSプレイヤーズスキルに相当する練習は冒険者ギルドの初心者演習が向いているけど、今から行ってみる?」

「いや……あの」


 腕を引かれながらソワソワしている少年。


「戦い方っていうより、こう、思いっきり走って跳ねてみたいです」

「ふふ……そうね。戦う事だけがゲームの目的じゃないものね。この道を真っ直ぐ行くと南門に行きつくわ。そこから出るとしばらく敵モンスターが湧かない草原が広がってる」

「はい!」


 女性は少年の腕から手を離した。


「ここで別れましょう? 後は好きになさい」

「はい! ありがとうございました!」


 少年は元気よく返事をし、南門に向けて駆けだして……そしてこけた。立ち上がりながら照れ笑いを女性に向ける。女性は笑みを返したが、もう手を貸そうとはしない。

 今度こそ駆け去っていく彼の後ろ姿が小さくなった頃、彼女は小さく吐息をつき


「……独り、それこそが得がたいこと。そのはず……」


自らに言い聞かせるようにつぶやいて、青い光のエフェクトを残しログアウトした。


 ◇


 教えられたとおり、門を出た先は広々とした草原だった。茫然と辺りを見渡していた少年は、一気に感情を解放する。


「うわ……うわぁ……、あははははは!!」


 草の匂いと、頬を撫でていく風の感触。中天に太陽を見上げれば、顔一杯に感じる日光の熱。その場でくるくる回ってみると、ちゃんと日に当たる方向に熱く感じる個所が移動する。


「はははは……はぁ……、ふんっ! えいっ!」


 飛び跳ねて着地すれば、ずしんと足に響く自らの体重。再び駆けだして、自分にできる全力疾走を試してみる。


「ははは! あはははは! 速ぁーーいいーー!」


 全てが新鮮だった。自分が意図するままに身体が動き、そして身体が返して来る〝当たり前の感覚〟それらが全て彼にとっては新鮮だった。キャラクターに設定されているスタミナ値がレッドゾーンに突入するまで駆け続け、ようやくシステムが負わせる疲労感のブレーキで、彼は足を止めて大きく息をついた。


「はぁ……はぁ……すご……ホントに、身体が疲れた、感じだ……ははは……サイコー」


 予想以上の身体感覚再現に感動しながら息を弾ませていた所に


「グルルルル……」

「……えっ?」


明らかに自分に向けられた獣のうなり声。それに重なってピロピロピロリーンと特徴的なBGMが流れた。


 【モンスターが現れた! 戦いますか?】

 *戦う  ←

 *逃げる 


 彼の真正面には大型の犬が敵意も顕わに足を踏んばっている。眼前に半透明のディスプレイが浮かんでシステムメッセージが表示された。

 ディスプレイに意識を向けた瞬間、ついチュートリアルで教え込まれていた「ボタンを押すイメージ」を持ってしまった少年。


 *戦う  ←


ピロンと効果音が鳴り、【ワイルドドッグが 1頭 現れた!】無情な戦闘開始メッセージが流れた。


「ガゥアァッ!」

「えええええ!」


 いきり立って攻撃態勢に入る敵モンスターと、緊迫感溢れるBGMが流れ出す。

 ちょっと待ってよ! 何で「戦う」がデフォルトなの! いや、ゲームなんだからそれが当たり前かもしれないけどさ! 僕、まだ武器防具も装備してないよ!

 それ以前に、走るのに夢中になってモンスター出現ゾーンまで来てしまったのがそもそもの間違いだったのだが、始まってしまった以上、何とか切り抜けなければならない。ゲームを始めて十五分も経ってないのに、もう死に戻りとはあまりに情けない。

 大丈夫、何とかなる。ゲームが始まってすぐの敵、大した相手であるはずがない。

 VRタイプ以外のゲームはそれなりにこなしてきた彼だった。そんなゲーム常識にすがって抗う事を決意する。


「ガゥ! ウルルルル! ガゥア!」

「くそぉ……スライムとかの方がよかった」


 威嚇する野犬ワイルドドッグから目を離さず、回避のタイミングをはかる少年。大丈夫、よく見ればかわせる。そして攻撃モーションの後には必ずスキが生じるはず。


「ガアッ!」


 ワイルドドッグが襲いかかってきた。確かに初心者レベルの敵。大したスピードではないし、狙い所もプレイヤーの足という、急所から外れた選択。だが


「はっ! ……おわっ!」


横っ飛びに身をかわした少年は、大きく体勢をくずして転んでしまった。焦りから一瞬、敵との位置関係を見失い、


「ガウゥ! グルルルル!」

「うわっ! くそっ! 放せ、このっ……! いてててて!」


立ち上がれないうちに、のしかかられてしまった。自分に向けられた牙に、反射的に腕でガードした少年。目の前数十センチで、獣が獰猛なうなり声をあげて噛みついてくる。初期設定デフォルトの痛覚再現設定はかなり低いのだが、それでも彼を恐怖させるには十分だった。


「痛い、痛い、痛い! 放せ……放してよぉっ!」


 少年がパニックに陥りかけた、その瞬間、


「キミっ! 介入するよ! いいね?!」


高く澄んだ声がかけられた。同時にメッセージウィンドゥが表示される。


 【プレーヤー エルム からの救援申し出を受けますか?】

 *YES ←

 *NO


 迷わずYESを選ぶ。と、同時に


「ギャン!」


悲鳴を上げて野犬がはじけ飛んだ。

 上体を起こした彼の目に、十メートルほど先で弓を構える少女の姿が飛び込んで来た。犬の注意は、完全にそちらに向いている。


「射線からどいて!」


 少女、野犬、彼は直線に並ぶ位置になっていた。慌てて転げ位置を変える。吠え声を上げて襲いかかった野犬を、彼女は瞬きもせず射ぬいた。野犬の頭部を深々と、ほとんど根本近くまで矢が貫いた。串刺しにされた犬モンスターは、断末魔も上げずポリゴン片となり散っていく。そのさまを、少年はあっけにとられて見つめた。こんな風に矢が食いこむ演出は、他のゲームでも見た事がない。よほど高威力の武器かハイレベルプレイヤーなのだろう。

 安堵感に脱力する少年に、少女は近づいて、険しい顔つきで声をかけた。


「キミねえ、何やってるの? ナメプなの? 死ぬの?」

「え」


 お礼を言おうとしていた少年の頭は、その言葉に真っ白になってしまった。


「びっくりしたよ、『わはははは~』とか言いながら全力疾走してる人がいるだもん。ヘンタイさんがログインしてきたのかと思った」

「へ、ヘンタイ……」

「おまけに格闘家の職業クラスにも見えないのに、素手で野犬と戦いだすしさ。よっぽど自信あるのかと思ったらやられてるし」

「…………」


 自分のふるまいを第三者視点から指摘され、落ちこんでしまう少年。確かに……一人で舞い上がって窮地に落ちてしまうとは、初心者とはいえみっともない。


「ごめんなさい……僕、今日がこのゲーム初めてで」

「そう? やっぱそうなんだ。まあ別に迷惑かけられたわけじゃないから『ごめんなさい』はいらないけどさ、用心はしときなよ。……死に戻りなんて、やらないに越したことないんだから」

「はい……あの、ありがとうございました」


 しょげた少年の言葉を受けて、弓を背に納めた少女は「にっ」と笑顔を向けた。ドキッと、バーチャルなはずの心臓が脈打ったように感じる少年。

 少女のアバターの背格好は少年と同じくらい。年齢も同程度に見える。軽皮鎧を身につけた猟兵レンジャーのキャラクタービルドで、くっきりとした目鼻立ちに赤みがかったブロンド。緑のベレー帽に特徴的な羽根かざりを掲げ、快活な雰囲気の娘だった。


「堅苦しい言い方はよそうよ。同じゲーム仲間なんだからさ。ボクはエルム。見ての通りレンジャーのクラスで、このゲームは結構長いかな。今はソロで活動中」

「あ、ユーリです。今日始めたばっかりの初心者で、クラス、っていうのは、えっと」


 チュートリアルで説明された職業クラスを焦って思い出そうとしたが、


「ノービスの戦士だね。素直に選んだら、最初じゃ五タイプくらいしか選択肢ないもんね」

「はい、そう、そうでした」


エルムがさらりと導いてくれた。最初の印象ほどキツイ子じゃないなと思い直すユーリ。まあ親切心皆無なプレーヤーなら、手助け自体してくれないか。


「まず武器を装備しておこうよ。戦闘中に収納庫インベントリなんか開いてらんないからさ。あと、回復薬もポーチに移しておくといい。すぐ使えるように、ね」


 それどころか、かなり親切な部類に入るかも知れない。エルムの忠告に、自分の収納庫を開いて見るユーリだったが、


「あ……まだ武器や薬、買ってなかった」

「はあぁ?」


またもや自分の抜け加減をさらす結果になってしまった。エルムの向ける視線がジト目になる。あちゃあ、彼女の態度を硬化させているのは自分の方かも。ゲームの中とはいえ、ちょっと非常識だったと意気消沈のユーリ。また叱られるかと思ったのだが


「ぷっ……あははは。よっぽど走ってみたかったんだねぇ」

「は、ははは、面目ないです……」


彼女は笑って流してくれた。……ちょっと、自分の事情を察せられたかもしれない。そんな事を思うユーリ。


「で、どうするの? ボクとしては一度町に戻るのを勧めるけど」

「戻ります。さすがにこのままじゃ、死に戻り志願者ですね」

「ん、だから敬語いらないって。良ければ一時的にパーティー組まない? そのままじゃ、町に戻るのも危なっかしいし」

「え、いいんですか……いいの?」


 それはわざわざ町まで送ってくれるという事だ。彼女のレベルでは、ここらのモンスターと戦ううまみなどないと思われるのに。


「うん、ボクもそろそろ戻ろうと思ってたしね。日が傾いてきたし……あれっ?」


 首をかしげてユーリを見るエルム。


「キミ、今日始めたばっかりだよね? ヤッバ、急いだ方がいい!」

「え? え?」


 突然彼女はユーリの手をとり、町の方へ駆けだした。走りながら送られてきたパーティー申請に、あわただしくユーリは応じる。視界の下側にエルムの簡易ステータス表示が浮かんだ。レベル60の表示に思わず息をのむ。サービス開始から七カ月ほど経った現在の、レベルキャップ最高値と記憶する。


「ファストゥの町の門は、日が暮れると閉じられちゃうんだ。ギルドの会員証かレベル5以上ないと、出入りにお金をとられるんだよ」

「え、マジで?!」

「夜の間はモンスターが活発化するから、初心者が安易に挑まないようにって仕組みなんだと思う。冒険者ギルドなり商人ギルドなりの会員になるには、ちょっとしたイベントをこなさなきゃならないから。達成時にはレベル3か4にはなるしね」

「なるほど」

「通行料は五百ゴートで……あ、そんな急ぐほどの事でもないか」


 走りながら説明していたエルムだったが、急に歩調をゆるめた。


「スタート時だったら痛めの金額だけど、ボクが肩代わりしてもいいし」

「いやいや、そんな事まで甘えられないよ!」


 エルムを説得して再び急がせるユーリ。日が傾いてから暗くなるまでが異様に速かったが、何とか日が落ちる前に門を通る事ができた。

 門脇の馬だまりで、膝に手を置き息を静めるユーリ。


「はっ……はっ……はっ……」

「お疲れー。見ての通りゲームの中では時間進行が速いから注意してね」


 エルムは息も弾ませていない。レベルの差がこんな所にも表れていた。


「で、これからどうするの? 町の中でも見物する?」

「……冒険者ギルドで初心者演習受けようと思う。さすがに今のレベルじゃ、何をやるにもキツすぎるし」

「ん、そうだね。それがいい」


 息を静めるユーリの顔をのぞき込むようにしていたエルムだったが、上体を戻して一歩引いた。


「じゃ、臨時パーティーはここまでだね。お疲れさま」


 パーティー解散の手続をしたのだろう。ピロリンとシステム音が鳴って、それまで見えていたエルムのステータス画面が消えた。


「今日はありがとう。……また一緒に冒険できるかな?」

「うん、機会があったら、ね」


 ユーリの礼に、うっすらとした笑みを残して、エルムは去っていった。

 冒険者ギルドに足を向け、ふと思いついてシステム画面を開いてみるユーリ。


「あ、やっぱフレンド登録、あったんだ」


 オンラインゲームでは通常装備と言っていい機能だった。エルムに登録を申し込まなかった事に後悔の念が湧く。


(いや、彼女から申し込みがなかったんだから……察しろよ、自分)


 また会えるかな? と思いながら冒険者ギルドに向かうユーリ。ゲーム内の感覚を味わうだけが望みだった少年の心に、うっすらと目標らしきものが生まれていた。


 ◇─────◇


 ベッドの上に、VRギアを装着した少年が横たわっていた。真っ白なシーツと、マジックテープで前あわせになっている水色のパジャマ姿。調度のほとんどない殺風景な部屋。一見して病室という印象を受ける。

 VRギアのランプが数度点滅して少年の体がピクリと動いた。上体を起こしてベッドの端に腰かけてギアを外す。


「ふう……すごいや、VRゲーム」


 ため息とともに笑みがもれる。初回のログインから、時間制限一杯までプレイしたユーリだった。

 彼の顔はゲームのアバターによく似ていた。リアルでの「身ばれ」を恐れるプレーヤー-は、現実の顔かたちから大きく変更するものだけど、リアルでの知り合いが極端に少ない彼にとっては、身ばれは考慮の外だ。ゲーム内のアバターは、現実の身体感覚を狂わさないようにリアルの体をスキャンしたデータが元になる。それに髪と目の色を少しいじっただけで済ませてあった。現実の彼の姿は、髪は白髪に近く、目の色も薄いグレー。

 ポーンという音に続いてスピーカーから声が聞こえる。


『お帰り、ユーリくん。入っていいかな?』

「ええ、どうぞ先生」


 部屋のドアが音もなくスライドして、六〇台と思われる白衣姿の男が入室してきた。後から四角いワゴンのようなモノが、かすかなタイヤ音を立ててついてくる。ふわふわと、まるでプールの中を進むような足取りで、男はユーリの前に進んだ。


「初回だから、一応メディカルチェックをね。VRギアにも体温、心拍を記録する機能はあるんだけど、まあ念のためだ」

「はい」


 男の名はマリオ・メニエル。ユーリの主治医を務めている。

 自走式の検査ユニットからセンサーを取り出し、ユーリの体に装着する。……彼の体は、同年代の子たちと比べて異様と言っていいほど細かった。胸元はうっすらとアバラ骨が浮き、手足も筋肉の膨らみが感じられず棒のように見える。


「……楽しかったかね? ゲームの方は」

「はい、すごく! グェンさんと別れたあと、思いっきり走って、跳ね回りました。おかげで知らない間にモンスターが出るエリアまで、武器なしで進んじゃって」

「ははは、それは大変だったね。うまく切り抜けられたのかい?」

「はい、親切なプレーヤーに助けてもらいました。見た目、僕と同じくらいの女の子だったんですが」

「ほほう、そんな出会いが。運命というヤツかな?」


 ほほ笑みまじりのからかいに、ユーリの顔が赤くなる。


「いや、そんな! あの、えっと、とにかく、すごかったんですよ、彼女。こう、ぐいっと弓を引いて発射したら、スパーンってモンスターに埋まり込んじゃって」

「ほう、ほう」


 少年が興奮気味に語るゲーム内の話に相づちを打ちながら、メニエル医師は手際よく検査を終えていく。検査が終わった時には、ちょうど彼のゲーム話も一段落ついていた。


「……ちょっと眠くなってきました」

「そうかね。少し眠るといい。食事はその後にしよう」

「ええ……お休みなさい」

「お休み」


 ベッドに入る彼を看取り、メニエルは部屋を出た。

 ふわふわと水の中を歩くような歩みで、緩やかに弧を描く廊下を進む。同じつくりのドアが並ぶ施設内は、後ろからついてくる検査ユニットのタイヤ音以外の音がせず、人の気配というものが感じられなかった。少し広くなったホールに出ると外壁に丸窓が等間隔に並んでいる。窓の外に見える景色は、暗い宇宙と眼下に広がる青い星、地球。

 ここは衛星軌道上を航行する低重力療養船アルカディア。心疾患などで、重力負担を軽減しての療養が必要な患者のために作られた、特殊な療養用宇宙船だった。現在の入院患者はユーリ一人。

 ホールを通り過ぎて中央制御室に入ると、メニエルは自席につき医療用記録アプリを立ち上げた。


「……三月二四日、病状に進展なし。新しく始めたゲームは彼のメンタルに良い影響を与えている。VRギアのエルクマン腫瘍体への影響は、慎重に観察を続けたい……」


 音声入力記録が終わりアプリを終了させる。ポツリと、記録に残らない独り言がもれた。


「あんな笑顔は……初めて見たな」


 先ほどまでのユーリの屈託のないはしゃぎように、思い返す老医師もつい顔がほころぶ。いつもどこか遠慮したような、そんな一歩引いた姿勢が少年の常だったから。彼の来歴を考えれば無理もないが……


(しかし、ゲームで与えられる喜びは所詮は仮想のものだ……。早く、治験の開始を……)


 微笑みは、焦燥を感じさせる真顔に変わっていた。

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