わたし
宮町
第1話 朝
目覚ましの音が響いている。わかる。わかる。けれどそれを手に取ればすべてが終わってしまうような気がしてならなかった。私はうずくまる。夢の中の住人が、呼んでいる。
「……!」
何と言っているのか、わからない。けれどわかる。私を呼んでいる。どうしてかは知らない。ただ私を夢の中に引きずりこもうとしているのはわかる。
「おい、起きろ」
現実の声がした。瞬間、私のおなかに鈍い衝撃が広がる。ああ、なんということだろう。もうすぐ忌まわしい日が近づいているというのに、この人はそんな配慮さえない。しかし、私は慣れきっていた。それが痛みであることすら、忘れていた。
「俺は仕事に行くからな。学校行けよ、ゴミクズ」
語彙力の少なさをカバーするかのようにして、赤の他人は声を荒げた。私は黙って布団を握りしめる。反抗することはあきらめていた。実際、何もしなければ赤の他人は害を及ぼさないどころか、高校の費用、ご飯代さえ払ってくれているのだから。お金のない生活をしている人たちよりは、私は恵まれている。
「おい、聞いてんのか?」
低い声と同時に私の寝間着の襟の部分を掴んだ。そして持ち上げる。強制的に布団から出され、私と赤の他人の目線が同じになる。私はぼやけた視界の奥に、爽やかなスーツで彩られた中年男性を見た。はた目から見たら、彼を悪い奴だと認識するのは難しいだろう。スーツの下に隠した黒い本性は、私にしか見せない。彼なりに苦しんでいるのかもしれない、と私はひそかに思うのだった。
そろそろ息が苦しくなってきた。一瞬目を細めた。彼はいまだ私の目を射抜いて離さない。垂れ下がった私の腕や脚は、頼りなく細い。今にも折れてしまいそうだった。折れてしまっても構わない。私はそういう人間だったというだけだ。
「ちっ、うぜーな。早く死んじまえ。じゃあな」
彼のその言葉に、傷つく私ではなかった。彼は彼なりに苦しんでいるし、私という標的を失ってしまえば彼は余計にヒートアップして誰かを殺してしまうかもしれない。死んじまえ、という彼には、本気度は見られなかった。彼はただ日々のストレスを誰かに放り出したいだけであって、それはTwitterでクソツイをするのと一緒であるように感じられた。
放り出された私の身を、見る。私は右腕を動かして、左の手首に触れる。少し早いが、正常な脈を刻んでいる。私はまだ、死んでいない。
私は起き上がり、もう少しで八時になることを時計を見て知った。顔を洗い、歯磨きをして、いつも通りの朝を迎えた。制服に着替えながら、今日は月曜日か、さっそく赤の他人に絡まれてしまったな、と息をついた。カバンを持ち、ローファーを履いて家を出る。
とびらを開けると、隣に住む関沢さんに声をかけられた。私は502号室、関沢さんは501号室で、四人の子供がいると聞いている。たまにご飯をくれるので、私にとって敵ではない人の一人だった。
「あら、みなもちゃん。おはよう」
マンションの廊下をほうきではいている関沢さんが私に声をかけた。おはようございます、と私は頭を下げる。
「さっきねぇ、みなもちゃんのお父さんに会ったのよ。相変わらず爽やかな人ねぇ」
ふふ、としわをよせながら笑った。関沢さんは歳の割にとても若々しい。美しい、というよりは、元気なおばさん、といったところか。そんないい人である関沢さんにも、赤の他人の本性には気づけないようだった。いや、気づけるのだとしたら、それはとてもすごいことなのだけれど。あの鉄鎧をがっちり装備している彼を見抜くのは。
「そうですか。……今日の朝は、父がごはんを作ってくれたんです」
とっさに嘘を吐いた。言ってみたくなったのだ。私は幸せであると、そう、感じたかったのかもしれない。嘘は一緒に、私のほほえみまで連れてきた。その顔を見て、関沢さんはさらに笑みを深めた。
「そうなの。いいお父さんね。うらやましい。夫なんて、いびきかいて寝てるだけなんだから」
もう、と困り顔を見せた。関沢さんは、やっぱりいい人だ。一緒に居るだけで幸せになれる、そんな性格の持ち主であるような気がした。
「学校に行ってきますね」
「そう、いってらっしゃい。気をつけてね」
私はエレベーターのボタンを押した。今日も、一日が始まるみたいだった。それなのに私は、一日のはじめに、下に落とされる。
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