圭司はまず先に元自室へ向かった。


 引っ越し前に片付けたはずの本棚だけれど、机の上にはひっぱり出したマンガが山積みになっている。

 それからキッチンも見た。アルミサッシの乾燥棚には、洗い終えたの食器があり、流しには水が満ちた鍋があった。、圭司はすぐに洗わずに鍋に水を浸して、カレーをすこし浮かせてから洗おうと思っていたのだ。


 証拠は確かにあった。

 確かにあのとき、圭司は漫画を読んでいた。

 確かにあのとき、圭司は流し場で食器を洗っていた。

 祖母を呼びたくても呼べないだ。


 祖母はまだ入院していた。ヘルパーさんも来ていない。誰もいない実家は、サニーハイムと違った孤独感と閉塞感があった。


 それから圭司は、お化けからのメッセージの通り、今では物置として使っている小屋へ入った。

 小さな玄関がある、七畳一間の部屋だ。窓はひとつだけ。それも今では使わなくなったベビーカーがあるから、光が遮られている。

 他にも、智則の釣り道具や、端午の節句の兜鎧だとか、鯉のぼりが閉まってある桐の大箱もある。


 埃としょうのう臭さが満ちるこの小屋の中に、はたして何が隠されているのか。


 圭司は数学の宿題ノートを開けて、お化けに訪ねようとしたけれど、その時、部屋の隅で何か物音がした。

 咄嗟に目を向けると、高く積まれていたダンボールがひとつ、落っこちて口を開けていた。


 中には圭司が着ていたベビー服や、アルバムの他に、一冊の色褪せたノートが入っていた。


 「日記」と書かれたそれは、確かに母の順子の文字だった。


「2000年9月8日。体温36.7度。まだ男の子か女の子か分かりません。でも名前は決めました。女の子なら恭子きょうこ。男の子なら圭司けいじ


 その日の出来事や思いが、二行から三行程度で綴られている。ごく普通の日記だ。違う点とすれば、母子手帳も兼ねているらしく、毎日母の体温も記されていた。


 圭司はページを捲っていく。

 しかし、途中で恐ろしいことに気がついてしまった。


 今年は2019年。圭司が生まれたのは2004年だ。だが、この母の日記には、2000から始まっているではないか。


 おかしい。年齢が合わない。いったいどういうことなのか。お化けはどうしてこの日記を見せたのか。


 ページを捲る圭司の手がとまる。

 目に飛び込んできた「リストラ」の文字。そして狂気にも感じる母の字。


「うわっ!」


 圭司は思わず日記を投げ捨てた。

 パサリと音を立てて、日記が落ちる。圭司が悲鳴をあげたページがちょうど開いたまま。


 そこには今での順子の字とは違う字で、大きくこう殴り書きされていた。


「ごめんなさい。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」


 体の芯が凍える。歯がカチカチと鳴る。

 狂気。怒気。悲観。悲鳴。「リストラ」の文字をきっかけに、日記上の母は泣いていた。ボールペンのインクが涙の後に滲んでいる。


 窓は塞がれているのに、落ちた日記のページが勝手に捲られていく。しばらくの空白が続き、最後のページには、順子の字でこう記されていた。


「生んであげられなくてごめんね。圭司」


 太陽に雲がかかったのか、薄暗い小屋の中により一層の濃い影が落ちた。


 そして、腰を抜かしていた圭司の目に、またしてもお化けのメッセージが現れた。

 順子の書いた文字の下――日記の最後のページに。


――ぼくはころされた。おとうさんとおかあさんに。なのに、どうして?


 気がつけば震えは治まっていた。

 怖いくらい冷静に、圭司はたっぷりと時間を掛けて、そのメッセージとにらめっこをしていた。


 そして、ようやく気がついたのだ。お化けの正体に。


「そうか、俺と同じ名前の――お兄ちゃんだったんだ」


――なのに、どうして?


 圭司は日記を拾い上げると、「お兄さんなんでしょ?」と書いた。


 小屋に再び光が入ってきた。

 しかし、いつまで経ってもお化けからの返事はなかった。



 うつつに戻ったのは、どこからか電話の音が聞こえたからだ。

 家の中からだった。出ると母の順子だった。


「鍵も開けっ放しでどこ行ってたのよ!?」


 心配したんだから! と順子は捲し立てた。


「ごめん」

「もう……早く帰ってきなさい。明日は試合なんでしょ?」

「うん」

「お盆も近くて暗くなる前にお墓に参らないといけないから」


 分かった、と電話を切ろうとした時、圭司は最後にこう付け加えた。


「俺も、話したいことがあるんだ」


「なに?」


 と、順子が訪ねてきたけれど、圭司は「後で話す」と言って、今度こそ受話器を置いた。


――ぼくはころされた。おとうさんとおかあさんに。なのに、どうして?


 喉のすぐそこまで来ているのに、まだ幼い圭司には、どう伝えたら良いのか分からなかった。


 いつかちゃんと説明できるかしら? お化けのメッセージも、すべて。まだうまく説明できないけど、いつかきっと。必ず。


 そう心に決めて、圭司は暑い太陽の光が満ちる家路についたのだった。




「エピローグ」へ続く――

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