01-1 人権無視もいいところ

 初めて会った時、彼女は微笑んでいた。

 だがその笑顔の下から隠し切れていない不満が覗いていた。

 今思えば、その表情にリカルドはもう惹かれていたのだ。

 本音を隠す気がない彼女には、すべてを預けていいのだ、と。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 一九八三年、六月。ロサンゼルスは二度目の夏季オリンピックを来年に控えていた。

 経済に対する不安から、開催に対して不評が多いとはいえ、いよいよ来年となっては街角でそれなりに明るい話題として語られるようになってくる。


 しかしリカルドはそのような世間の動きなど意に介さなかった。オリンピック関連で気になるといえば、開催が近づくにつれ警察が犯罪の取り締まりを日に日に強化しつつあるということだ。合衆国内はもとより、海外から来る観戦者に安心してロスに来てもらおうという意図だ。

 今更犯罪を減らそうと少しばかり躍起になったところでそう変わるものでもあるまい、とリカルドは冷ややかにニュースを見つめながらも、その影響が自らの仕事に及ぶことを危惧していた。


 彼は、父が経営する貿易会社「M&Dトレード」の重役として、また、カリフォルニア州内の二大マフィアのひとつである「オーウェン」ファミリーの構成員として、常に自分達の利害に関わることばかりを考えていた。二十代の折り返し地点に到達したばかりの若者としては冷めた思考と言えるが、それは彼が育った環境が故のことだ。


 鮮やかなライトブロンドと、冷たい冬空を思わせる水色の瞳、目元を覆うのは細いシルバーフレームの眼鏡。姿勢のよい長身で、きびきびとした動作、と、彼のクールさを引き立てる外見も揃っている。

 父親のミヒャエルも表裏問わず威厳を放っている男だが、その後継者として育て上げられたリカルドも、十代後半ごろから周囲から一目を置かれていた。


 犯罪に関わり、その世界で頭角を現し始めたリカルドには敵も多い。彼らがリカルドにつけた異名は“コールド・ゲイル”。作戦の成功、自らの利益を最優先とするリカルドを冷徹な疾風と揶揄している。

 周りからの賛辞にも愚弄にも、リカルドは動じなかった。いや、彼がなにを感じているのかを周囲の者が読み取ることができない、と言うほうが正しい。

 リカルドは感情を人に見せようとしない。それは弱みとして敵に握られる材料を減らしたいという思惑だった。


 そして彼が敵と思うところは、なにも敵対組織や警察などの捜査関係者のみではない。


「リカルド。話がある。きなさい」


 仕事を終え、自宅に戻ると威圧的な男の声がリカルドを呼ぶ。この声の持ち主こそ、リカルドが最も警戒する人物であった。


「はい」


 リカルドは返事をして、父、ミヒャエルの書斎を訪れた。

 ミヒャエルはリカルドを立たせたまま、執務机に向かい仕事の手を動かしながら息子をちらりと見やった。

 それもいつものこととリカルドは意に介さず、父の言葉を待つ。


「取引相手のレインフォードを知っているな」


 ミヒャエルが尋ねてきたのでリカルドは肯定の相槌を返した。

 レインフォードは、複数の組織と手広く薬物取引をする壮年の男だ。リカルドも一度直接会ったことがある。

 今、目の前にいるミヒャエルはいかにも裏でなにをやっていてもおかしくはなさそうな雰囲気なのに対し、レインフォードは本当に薬物の裏取引を行っているのかと疑うほどに柔和な男であった。


「レインフォードには娘がいる。おまえと同い年だそうだ。今度の休みに会ってきなさい」


 静かな、しかし有無を言わさぬ強い声だった。


 このミヒャエルの態度に、リカルドはいつも憎悪を抱く。息子を息子とも思わない、自分の手駒のひとつと考え、いかに有用に扱うかとしか考えていない態度だ。このたびも、会って来いというのはつまり、レインフォードの娘と親密になれという意味だ。

 理由はとても判りやすい。この先の取引において有利だと考えるからだ。決してリカルドのためというわけではない。もっともリカルドとしても、父親に女性をあてがってもらうほど飢えても困ってもいないのだが。


 しかしリカルドはミヒャエルには逆らわない。逆らえば自分にとってこの上なく不利な状況になることは体験済みだ。


「判りました」


 父と呼びたくもない男への反抗心を心の奥底にぐっとしまいこみ、リカルドは平然と応えた。


「いい娘だと評判のようだぞ。おまえも気に入るだろう」


 ミヒャエルが穏やかな笑みを口元に浮かべたのでリカルドは驚いた。少しは自分のことを考えてくれているのだろうか、と。


「相手のことをお調べになったのですか」

「うまくいけば義理の娘となる女性だからな。とんでもないじゃじゃ馬はいくら取引先の娘だとしても御免こうむる」


 さも当然というミヒャエルの首肯に、リカルドはわずかでも彼の父親としての情に期待を持った己の甘さに苦笑した。


 ――まだ期待しているのか。この男は自分の息子が泣きわめこうが聞く耳を持たないというのに。


 レインフォードの娘とリカルドが結婚ということになれば、彼の持つ麻薬ルートの把握が有利になる。様々な組織とつながりを持つ男を意のままにコントロールする手段として娘が目を付けられたのだ。

 ミヒャエルは、口では「うまくいけば」と言っているが、もう既にリカルド達が結婚した後のことをいろいろと考えているに違いない。レインフォードの娘がとんでもない性格ではないことを調べたのは、リカルドが困るのを案じているわけではなく、自分の御しやすい相手かどうかを気にしているに過ぎない。


「とにかく、お会いしてくればいいのですね」

「そうだ。結婚相手としてふさわしい娘かどうか、おまえの目で見極めて来い」


 ミヒャエルにうなずいて見せながら、リカルドは、レインフォードの娘が、とてもミヒャエルが受け入れるような女性ではないことを、心のどこかで願っていた。




 その週末に、リカルドは父を通してレインフォードの娘、ディアナと会う約束を取り付けた。


 身支度を始めて、さて、とリカルドは考えた。何を着て行くべきなのか。

 仕事上の都合で会うとはいえ、ビジネススーツというのも違う気がする。ラフな格好だとディアナにというよりは父に気が乗らないのかと咎められそうだが、あまりファッションに気を遣いすぎると乗り気なのかと誤解される。

 そして、あれこれと考えている自分にふと気付き、リカルドは苦笑を漏らした。何もそこまで気を遣うこともないのだと思い直して、ダーク系のカジュアルスーツに身を包んだ。


 最低限の身だしなみを整えて、ディアナとの待ち合わせであるホテルのラウンジに向かった。

 彼女の身体的特徴は父から聞いている。数年前のものだが写真も見せてもらった。なのですぐに見つけられるだろうと、リカルドはそれほど周りに注意することなくソファに座った。


 休日のホテルは、人がたくさん行き交っている。主に外国からの観光客か、合衆国内としても遠方の者だろう。彼らは休みを満喫していますといわんばかりの穏やかで楽しげな表情で闊歩している。

 彼らに比べて自分はと思うとリカルドは不愉快な気分になった。別に誰かと楽しむ休日は望んでいない。せめて一人でゆっくりと、日頃酷使される心と体を休められればいいのだ。それなのに父のいいなりで望みもしない結婚をするやもしれぬ女性と会わねばならない。


 もはや休日とは呼べない時間の過ごし方を強要してくる父にも、それに逆らえない自分にも腹が立つ。

 しかしそれは考えてもしかたのないことだ。リカルドは静かに、深く息をついた。


「あの、ゴットフリートさん、ですか?」


 ふと声がかかって、リカルドははっとした。ソファに座る自分の斜め前に女性が立っている。

 女性としては平均的な身長だが、なんだか小さく感じてしまうのはリカルドが百九十センチを少しばかり越える長身だからだろうか。


「はい。リカルド・ゴットフリートです」


 リカルドが応えると、女性はにこりと口元に笑みを浮かべた。

 ゆるくウェーブのかかったダーティブロンドが肩にふわりと垂れて柔らかそうだ。落ち着いた色合いの緑の瞳とあいまって、とても静かな雰囲気だ。


「ディアナ・レインフォードです」


 探していた人を見つけた安堵からか、先程の第一声よりも凛とした声でディアナが名乗った。


「はじめまして。どうぞよろしく」


 リカルドは立ち上がって、握手を求めた。

 ディアナは微笑みを浮かべたまま、リカルドの手をとった。思っていたよりも、冷たくて滑らかな手だった。


 人当たりのよさそうな、愛嬌のある笑み。だがその笑顔では隠しきれない不満が、ちらりと表情の中に見えた。

 リカルドはその表情に驚いた。今まで自分を肯定的に見てきた者も、否定的に見てきた者も見せなかった、不思議な表情だった。


 彼女は何を不満に思っているのか、それでも微笑むのは見合い相手への気遣いか。

 そのあたりの疑問は歓談の中で聞けるものなら聞いてみればいい。


 リカルドはひとつうなずいて、ディアナを伴い、ホテルのレストランへと向かった。

 昼食時を過ぎた頃で店はさほど混雑はしておらず、落ち着いて話をするによさそうな場所だ。


 リカルドはコーヒーを、ディアナはケーキセットを注文する。

 ウェイターが行ってしまうと、リカルドは少し困った。なにから話せばいいのだろう。

 何せこの十年近く、仕事以外で女性に会ったことがほとんどないのだ。

 いや、ディアナも仕事がらみといえるのだが、などとリカルドが考えていると。


「まさか本当に結婚相手を決められるなんて思いませんでした」


 ディアナの方から話しかけてきた。彼女は、あなたもそうでしょう? と同意を求めるように小首をかしげる。


「はい。私もです。まさに青天の霹靂とでも申しましょうか」


 リカルドがうなずくと、わが意を得たりとばかりにディアナも深くうなずき返した。

 これは、彼女も結婚を望んでいないということか、とリカルドは少し期待した。二人で口裏を合わせ、この縁談を自然な形でなかったことにできるのではないかと。


「まったく。父さんにも困ったものだわ。政略結婚だなんて娘を何だと思っているのかしら」


 リカルドが同意をしたことで安心したのか、ディアナは憤慨を丸出しにしてつぶやいた。

 彼女の態度にリカルドは困惑した。穏やかに見えてもレインフィードは裏社会の男だ。彼に対する不満をこれだけあからさまに出して大丈夫なのか、と彼女の身を案じたのだ。


「……あら? どうしたの? そんな顔をして」


 ディアナが尋ねてくる。


「いえ。……父上へのご不満を、そのようにおっしゃって大丈夫なのですか?」

「大丈夫、って、何が?」

「後で知れたら、きつく叱られませんか? あ、私はもちろん告げ口などしませんが」


 今度はディアナが驚いた顔をした。


「これぐらいの不満、普段から誰でも口にしますよ。ましてや政略結婚ですよ? 人権無視もいいところ――」


ディアナは勢い込んでそこまで言ったが、リカルドの顔を見て言葉をつぐんだ。

 彼女は何を言いたかったのだろうか、そしてなぜ、続きを言わなかったのだろうか。

 考えてみてもリカルドには想像できなかった。


「それでも、まぁきっかけの一つですから、とりあえず今日は一緒に過ごしましょう」


 何か吹っ切れたかのようなディアナの言葉にリカルドはますます驚いた。


「嫌ではないのですか?」

「嫌かどうかは、もうちょっと話してからじゃない?」

「それはそうですが、この話自体が気に入らないのでは」

「ええ。でもだからといってあなたが嫌な人かどうかは別問題だわ。それともあなたはこのまま帰るつもり?」


 そんなことできないでしょう、と確信している顔だ。挑発されているのかともとれるが、どちらかというとリカルドを気遣ってくれているように見える。

 優しい人だ、とリカルドは思った。それにただ優しいだけでなく物事をいい方向に導いてくれようとする相手というのは、悪くない。


「いえ。ではこれからどうしましょうか」


 リカルドが穏やかに笑うとディアナも微笑を浮かべた。

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