後悔が後ろで座る夜に

レイノール斉藤

1話目

「やっちまった……」

 目の前に広がる見慣れぬ光景に思わず一人呟いてしまった。

 ここ最近の忙しさからやっと解放されたのは良いが、寝不足に酒を入れた結果、いつも乗るのとは全く別のバスに誤って乗ってしまったらしい。

 挙げ句、最終便の終点で立ち往生する羽目になるとは……。


 時刻は二十三時、周りは民家すら見えない田畑、普段タクシーなんて利用しないので呼び出し様もない。

 つまり今目の前にあるバス待機所で、逆方面へ向かうバスが来る朝まで待つしかない、ということになる。


『後悔先に立たず』


 一体何度この格言を実感したか、そして何故その失敗から学ぼうとしないのか……。

 そんな自己嫌悪に苛まれていると、更に追い討ちで雨まで降ってきた。

 ひとまず待機所の入口扉を開け中に入れる。

 屋根、窓、照明、ソファー、テーブル、水道、トイレ付きで広さは三十畳程だろうか?

 周りの田舎具合から見て、不自然なほど豪華だ。近隣住民の寄り合い所としても使っているのかも知れない。


 そうやって見渡して初めて、誰かがソファーに座っている事に気づいた。薄茶色の大きなコートとフードのせいで顔はよく分からないが、かろうじて二十代の男性と分かる。

 恐らく今の自分と同じ状況なのだろう。つまり向こう六時間余り、二人で此所で過ごす羽目になったわけだ。


「参っちゃいましたね。こんな所で寝泊まりコースとは、はは」

「…………」

 少しでも居心地の良い時間を過ごす為にした行為は、全くの逆効果だったらしい。

 男はほんの少しこちらを気にする素振りを見せただけで、気まずさは更に加速した。

 駄目だ、耐えられそうにない。何処か別の場所に行こう。そう思い、扉に手をかけるが……開かなかった。

 オートロック?いや、あり得ないだろ、そもそも鍵穴すら無い。

 押す、引く、スライドさせる、上に上げる。どれも駄目だった。立て付けが悪いのか?


「ちょっとすいません、この扉開かなくなっちゃって、手伝ってもらえませんか?」

「…………」

 男は答えない。流石に苛ついてきた。

「ちょっと、無視してるんじゃないよ!あんただってここが開かなきゃ困るだろ?」

 そう言うと、そこで初めて男は口を開いた。


「あんた、自分の人生に後悔があるだろ?」


 全く予想外の答えに全身が強張る。そして、どの事を指しているのか考え始めてすぐ、からかわれているのだと気付いた。同時にこんな状況でと怒りが沸き上がる。

「34年も生きてて後悔の無い人間なんて居るか!そんなの今関係無いだろ!」

 そう叫ぶと、更に予想外の返事が返ってきた。


「大有りだよ。だって此所はは出られなくなる場所なんだから」


「……いや、あり得ないだろ。いきなり何言い出すんだよ」

「…………」


 駄目だ、らちが明かない。携帯を取り出して警察に電話を……圏外かよ。くそっ、ここから出たら速攻機種変してやる!


「そうか、お前朱美あけみの今の男だろ。回りくどいんだよ、慰謝料ならもう払ったはずだ!」

「……仮に俺が閉じ込めたとして、お前はどうするんだ?ちなみに殴っても痛くないぞ」


 男が言い終わらない内に拳が出ていた。が、本当に男が痛がる様子は無い。というか、殴った感触が無い。

 窓を殴る、蹴る、扉を蹴る、肩でタックルする。壁、天井、果ては床まで。

 結果、体には一切痛みはなく、疲労と絶望だけが残った。

 そして、男の言う事が全て事実だと、頭でも心でもなく体で理解した。

 認めるしかない。此所は今までの常識が通用しない場所なんだ。

 ……こういうのも異世界って言うんだろうか?気が狂いそうな頭でそんなことを思った。


「……どうしてこんなことをする?」

「俺が閉じ込めた訳じゃない。俺も閉じ込められているんだよ」

 疲れと絶望でうなだれる俺の隣で男は言った。

 ソファーは一つしか無いので、座りたければ隣り合うしかない。

「どのくらいの間だ?」

「さあ?時間の経過も無いみたいだし、腹も空かないから、もうかなり早い段階で考えるの止めたよ」

「じゃあ、どうして後悔してたら出られないって知ってる?」

「……言えない。言えば出られなくなるから。俺も、お前も」

 男は少し逡巡した後、そう答えた。

「……そうか」

 どういう意味か問い詰めようとしたが、直前で止めた。

 意味が無さそうというのもあったし、これまでの態度から、こいつが同じ被害者側というのは何となく感じる。

 こいつが俺を閉じ込めた張本人なら、俺が足掻く様を遠くから見て嘲笑うか、出る為の条件を提示してくる筈だ。少なくとも隣でただ黙って座っているというのは考えにくい。


「さっきの……」

「あ?」

 しばらく黙っていると、男の方から声をかけてきた。

「朱美の今の男ってのは……」

「ああ、妻、だった女だよ」

「何があった?」

「色々かな、なんか色々上手くいかなくて、仕事とか、二人での生活とか、新しい土地とか……ああそうか。一番後悔してると言えばそれか。そうか、どうせ此所から出た所で、また朝から晩まで働いて、慰謝料の借金の返済するだけなんだよなぁ……」

 初対面の人間に何を言ってるんだ俺は……。ま、もう充分醜態を晒したし、今更か。


 もうずっと此所に居るのも悪くないのかもしれない。

 そんなことを考えだした時、目の前のテーブルに黒電話が現れた。


「おい、電話があるじゃないか!」

「気づいてなかったのかよ……」

 よく見ると確かに埃を被っていて、ずっとそこにあったようにしか見えない。だが今の今まで気づかなかった。

 こんな場所なんだから、もう何が起きてもおかしくないが、電話があるなら外部と連絡を取らないわけにいかない。

 ついさっきまで、ずっと此所に居ようなんて思ってたくせに現金だ、と自分でも思うが……ひとまず110だ。

 ソファーから立ちあがり、数歩前に進んで、テーブルの真ん中にある正面の受話器を耳に当てる。

 すると、まだどこにも掛けていないのに声が聞こえた。


「はい、田中です」

「な、朱美!?」


 思わず叫んでいた。まさか朱美が出るとは思わなかった。


まさる?どうしたの、いきなり大声出して。びっくりするじゃない」

「あっ……ごめん」


 ……懐かしい声だ。もう十年は経ったというのに、電話越しに聞こえる彼女の声は全然変わってない……って感傷に浸ってる場合じゃない!


「いや、ごめん、いきなりまた電話したりして。ちょっと困ったことになって、助けて欲しいんだ」

「またって……まあいいけど……で、どうしたの?」

「実は……」


 言葉に詰まった、この状況をどう説明したらいいのか。

 何処かも分からず、訳も分からない事ばかり起こるこの状況で、助けてくれと言ってどうなるのか?最悪彼女まで巻き込んでしまうかもしれない。


「優?」

「いや、ごめん。なんでもないんだ。朱美……久々に声が聞けて良かった……」


 そう、これで良いんだ、これで。もうこれ以上彼女に迷惑をかけて後悔したくない……。

 もう電話を切ろうとした時、朱美が言った。


「何?もうすぐ結婚だからってマリッジブルー入ってるの?しっかりしてよね。ていうか、男の人でもマリッジブルーって言うんだっけ?」


………………………………ん?


「えーと、田中朱美さんですよね?」

「そうだけど、なに?優じゃないの?」

「いや、自分、鈴木優ですが……ところで結婚式って何日後だっけ?」

「三日後でしょ?本当にどうしたの?大丈夫?」

 あり得ないことが起こった。


 十年前の朱美が受話器の向こうに居る。

 それに気付いた瞬間、これまでの十年が脳内を駆け巡った。

 もう此所から出るとか、朱美が本当に十年前の朱美なのかなんてどうでもよくなっていた。

 ただ、できるなら朱美には違う人生を送って欲しい。俺と関わらない人生を。


「朱美、聞いてくれ。信じられないかもしれないけど、今話してる俺は朱美の知ってる優の、十年後の優なんだ」

「はあ……?」

「まだ間に合う!俺と結婚するな!絶対後悔するぞ!」


 やっと気づいた。俺が本当に後悔していたのは離婚された事じゃない。自分の弱さ、愚かさを棚に上げて、目を逸らし、他人に責任転嫁していた事だ。


「私が優と結婚したら、私が後悔するの?」

「ああ、そうだ!後悔先に立たずって言うだろ!今しかないんだ!だから……」


 頼む、朱美、「わかった」と言ってくれ!「優と別れる」と!

 だが、朱美は言った。


「だったら、大丈夫」


「大丈夫……って、何が?」


「後悔先に立たずって事はさ、言い換えれば、って事だよね?だったらそんなの後ろに放って置いて、前に行こうよ!」


「朱美……」


「私はそうしたい。優と前に進みたい。もし何かあっても、優と結婚しなきゃ良かったなんて、絶対言わないからさっ!」


「あけみ……」


 気がつけば嗚咽が漏れ、涙が溢れていた。

 なんてこった……答えはいつも目の前に在ったというのに……たった一度、前を見れば気付いた筈なのに、俺はなんて馬鹿なんだ!

 やり直したい、もう一度あの頃から、次はきっと上手くやれるっていうのに!くそっ!


 その時、後ろで物音がした。振り向くと、

「な?……おい!」

 あの男が扉を開けて出ていこうとしているじゃないか!

「外に出られるのか!?」

 男はこちらを振り返り、事も無げに言った。


「そりゃ出れるさ、だって俺は」


 そう言いながら男はフードを取る、そこには…


「お前と十年此処に居たんだから」


 十年前の俺が居た。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 空を見上げると、雨は止んでいた。

 周りを見回すと、会社から帰る時に立ち寄る、見慣れたバス停だった。そして俺はそこに立っていた。

 夢……だったのか?全部……。そう思っていると、背後から声がした。


「優!」

「朱美?どうしてここに……」


 振り向くと十年前と変わらない彼女がそこに居た。


「そりゃあんな変な電話もらったら心配するでしょ」


 あんな、ってことはまさか……携帯で日付を見る。

 十年前だ……。戻ったというのか?やり直して良いというのか?本当に!?

 止まりかけていた涙がまた溢れてきた。勿論さっきとは違う理由で、だ。そんな俺を見て朱美が呆れるように笑う。


「いや、ごめん。もう大丈夫」

 涙を乱暴に拭って俺は答えた。

「ほんとに?」

「ああ、それより心配かけてごめん。わざわさ迎えにまで来てもらって……」

「まあ、それもあるんだけど、少しでも早く伝えたい事があったからさ」

「伝えたい事?」

「あのね……私……       」


 次の瞬間、俺は思わず目の前のを抱きしめていた。


 この先絶対後悔しない保証なんて無い。いや、きっと日々後悔の連続だろう。

 それでも、一番大事な物だけはもう、絶対に手放したりはしない。

 ゆっくりと歩き去っていく背後の気配に、俺は強く、固く、そう誓った。


 終わり

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