第24話 社交(裏)下
「…では皆さん、ごゆっくりー」
マダムは、テーブルに料理と飲み物のお代わりを並べ終えると、陽気な声を発してから部屋を出て行った。
「では頂きます」
老人は、マダムが出て行ったのと同時に、何の前置きもなく、いつものといった風で挨拶した。「頂きます」と、各々方も、軽く挨拶してから、用意された小皿に取り分けて、好きな様に食事を楽しんでいた。私も加わることにした。
テーブル上の品々は、如何にもお酒の肴に相応しい物ばかりだった。自家製なのだろう、梅干しのドレッシングで和えたカルパッチョ。梅干しとガーリックが絡んだ鯵の刺身が、とても合っていた。ご飯が欲しくなるほどだったが、そこはやはり、原則はおつまみということで、子供の私には物足りなさがどうしてもあったが、それはそれ、とても美味しかった。ふと、顔を上げると、ワインを飲んでいた女性陣が好んで食べていたのは、牡蠣を、オイスターソースで炒め煮した物だった。美保子と百合子は、用意されたクラッカーに乗せつつ食べていた。と、私と視線が合った美保子は、私にも食べるかと聞いてきたが、私はそもそも牡蠣が苦手だったので、丁重にお断りした。これは美保子が、その後教えてくれたが、この牡蠣料理は、ボジョレーの時期になると、フランスでよく作られている料理らしい。言わば、伝統料理の様だった。その他は、鶏肉の生姜甘味噌焼き、ガーリックシュリンプ等々、全部で五品以上の、和洋中を網羅した様な料理の豊富さだった。確かに、先程私は、ご飯が欲しいと言ったが、これだけ料理があると、ご飯が無くて正解だと後で思った。
「…美味しいだろ、琴音?」
聡が、少し前のめりになりつつ、私の顔を覗く様にしてきながら聞いてきた。
「うん。どの料理も美味しいよ。…牡蠣だけは、どうしても無理だけど」
そう言いつつ、女性陣の方をチラッと見ると、美穂子も百合子も、私に微笑みをくれていた。
「それは良かった」
話を聞いていたのか、老人が日本酒をチビっと遣りつつ言った。
「後で、マスターとママにも言ってあげてね?」
「はい、勿論です」
私は、年相応(?)に、明るく元気に返した。
すると、聡は手に持った箸を、行儀悪く空中でクルクル回しながら、話しかけてきた。
「…まぁ、ここの料理が美味いのは、当たり前っちゃあ当たり前なんだよ」
「…ん?どういうこと?」
私も、行儀悪く、シュリンプを口に頬張りながら聞いた。
「それはな?」
聡は、妙に勿体つけながら先を話した。
「ここのマスターはな…」
その後に言った固有名詞は、紀尾井町にある有名なホテルの名だった。
「そこの中にあるフランス料理店で、何年かパリで修行して来てから、確か…二十年近く勤めて、最終的には副料理長までしていたんだ」
「へぇ…」
と、一応のリアクションはとったが、当然イマイチ、ピンと来なかったのは事実だ。だが、そのホテルの名前は、私ですら知ってる程だったし、日本の中でも格式の高い事で知られていたので、あまりネームバリューで判断したくないのだが、それでも、そこで副料理長を勤めることが、如何に狭き門をくぐって来たのかくらいは、容易に想像がついた。
私の当たり障りのない反応に、気を悪くする事もなく、聡は話を続けた。
「でもな、凄いのはマスターだけじゃないんだぜ?あのママ、時にはお淑やかでいたり、時には無邪気さを演じたりと、中々掴み所の無いような女性だが、彼女も実は、そこのホテルの、マスターと同じフレンチの店で、専属のソムリエをしていたんだ。…あ、お前はソムリエって分かるか?」
と、聞いてきたので、私はすぐに答えた。
「うん、ワインの給仕人の事でしょ?」
知識しかない分、少し堅めな返答になってしまったが、聡はこれで満足したようだった。
「そうそう!でな、ここで出されるお酒は全部、彼女が吟味して…中には、わざわざ味を確かめる為に、現地まで訪れて仕入れてくる徹底振りなんだ。ワインなら、欧州や、遠い所では南米…日本酒だったら、全国津々浦々を行脚してな。だから、ここに出されるお酒は、ママが本当に美味しいと思ったのだけを置いてあるんだよ。…まぁ、こればかりはお前には分からんだろうがな」
「へぇ」
我ながら、ボキャブラリーの無さに泣けてくる。と、ここまで言うと、聡は少しニヤつきながら続けた。
「そんでまぁ…下世話な事を言うようだが、そこで、マスターとママは出会って、付き合い、結婚したって訳なんだ」
「へぇー…」
こう言っては何だが、誰でも、二人でお店を切り盛りしているのを見れば、いくら恋愛に疎い私ですら、それくらいの事は想像するのに難く無かった。
「やっぱりそうなんだ」
「ちょっと、聡君?」
美保子が、ふと、聡にジト目を向けつつ言った。
「あまり人の事を言ってはダメよ?」
「はいはい、すみません」
聡は大袈裟に頭を下げて見せつつ、平謝りをした。ほぼ同い年のせいか、この二人の距離感も、中々近そうに見えた。その様子を見て、私は微笑ましげに笑ったが、ふと、一つの疑問が湧いてきた。
「ふふ。…ん?でも、あれ?」
「どうした、琴音?」
聡は顔を上げると、私の顔をまた覗き込みながら聞いてきた。
「あ、うん…あのさ」
私は、多種多様な料理の数々を見渡しつつ続けた。
「マスターって、フレンチのシェフだったんだよね?でも、ここにあるのは、フレンチだけじゃなくて、和食から中華から有るじゃない?しかも、私はそこまで味の事は分からないけど、個人の感想で言えば、どれも、かなりのクオリティーを持ってるように感じるのだけど、それはどうしてなのかっていうのと…いや」
私はここで一度切ると、右手の指を折りながら先を続けた。
「それだけじゃなくて、ママも、ソムリエだったというなら、何でここまで、専門外のことにまで詳しくなろうとしたのか…あ、いや」
私はずっと、聡の顔を見て話していたので、実際の所は分からなかったが、ここでふと、美保子と百合子の方から視線を感じて、先程の会話の事を思い出し、言い止まった。
「…勿論、変に専門に特化するあまり、視野が狭まるというのがあるから、批判したいんじゃなく、むしろ、子供の私が偉そうな事を言うようだけど、幅広く知見を広めようとしている向上心を賞賛したいって事なんだけど…あ、いや、そんな事を言いたいんじゃなくてー…」
私は、これ以上言うと、益々墓穴を掘り、要らないことを話してしまいそうだったので、早々に打ち切った。
「あ、後、これも…言い方が難しいんだけれど、何でそんな一流ホテルに勤めていた二人が、こんな小ぢんまりした店を構えているのかっていうのが…うん、疑問なんだけど…」
気づくと、いつの間にかこの場にいた一同が一人残らず、私の話に耳を傾けていた。どの顔も無表情に”見えた”。だから、私は最後の方で、少し調子を弱めてしまったのだ。また、何か要らないことを言ってしまったんじゃないかと、不安になったからだった。
また私が、少し俯き加減になりかけた時、老人が私に、優しいトーンで話しかけてきた。
「…ウンウン、確かに、何でそんな二人が、こんな”小汚い”喫茶店だか、バーだか判らない店を構えているのか、初めて来た琴音ちゃんからしたら、意味がわからないよね?」
「…え?あ、いや、私は、そこまでは…」
急に老人が、そんな事を言い出したので、正直私もそう思わない訳ではなかったが、あまりに歯に衣着せぬ物言いをしたので、慌てて訂正しようとしたが、途端に、一同が大笑いをしたので、それに遮られてしまった。
私が呆気に取られていると、聡が老人の言葉の後を引き継ぐように言った。
「あははは!…いや、琴音、その疑問は、後で直接本人達に聞いてごらん?」
「う、うん…」
一同の笑いが未だ絶えない中、私一人が頭上にハテナマークを浮かべていたのは、言うまでもない。また、正直この時は、まだ事情を知らなかったので、初めてこの場の面々に対して、反発心が生まれたのも言うまでもないだろう。
「…さて、琴音ちゃん」
あれだけあった大量の料理が、あらかた無くなってきた頃、不意に老人が私に話しかけてきた。
「後でマスター達に、君の疑問に答えて貰うとして、…その前に、先程途中だった、これも君からの疑問、そう、”センスとは何か?”について、一応の決着を着けたいと思うのだけれど、いいかな?」
「あ、はい、勿論です!」
私は、待ってましたとばかりに応えた。
老人が話し始めようとする頃、それまで、それぞれ近くの人とおしゃべりしていた面々は、ピタッと止め、静まり返るほどではないにしろ、静かに話す老人の言葉を聞き漏らすまいと、辺りにある種の、先程と同じような心地よい緊張が漂った。
老人も、場の雰囲気に合わせるように、先刻と変わらぬ調子で始めた。
「…まぁ、今までの話の流れ、それを君が汲み取ってくれてると信じて、前置きなく言ってしまうと、我々の流儀、まず”センス”という言葉自体から、考えてみようと思う」
「はい」
私は、まだ食器が片されていないので、何とかメモを置くスペースを作り、書く準備をした。老人は続けた。
「よし。…うん、まぁ、これ自体は簡単な事なんだ。…センスというのはね、原義を尋ねると、”感じる”という事なんだ」
「感じる…」
私は、一応メモしたものの、何だか腑に落ちなかった。
「…何だか、フワッとしてますね?」
と、ペンの底を、おでこにトントンと当てつつ言った。
すると、そんな返しは想定内だという風に、老人は表情を変える事なく…いや、少し微笑ましくしつつ返した。
「ふふ、そう、その通りだね。だから、ここで止まらずに、もう少し思索を重ねなくてはならない。…つまりね、こういう事だよ」
老人は、ここで一度切り、少し溜めてから先を述べた。
「まず原義を尋ねた…これは、その言葉を、古人が、どんな考え、どんな思索、どんな感情を託さんが為に作ったかを知るための作業だよ。…でね、これはその言葉によって違うけど、原義からヒントが得られなかった場合は、その次にやるべき事は、その後の時代時代の人々が、それをどのように解釈してきたかを辿るべきなんだ」
「…はい」
私は、今老人が話した事を、漏らさずそのままメモした。
正直、初めの頃は、てっきりセンスの意味を、そのまま教えてくれるものだと思っていたから、途中から、言葉の解釈についての話になったので、このままどこに行くのだろうと不安になったが、この不安感は、義一との会話の中でも度々感じていたのと同種のものだったので、すぐに考えを改めて、このまま老人の話について行く事にした。
「…でね、こういう時に、コレが役に立つんだ」
「…え?」
と、私が思わず声を上げたのは、老人が何処からか、電子辞書を取り出したからだった。それも最新のものでは無さそうだった。なぜ一眼で分かったかというと、その電子辞書の表面が煤ボケてる様に見える程くすんでいて、すっかり使い込まれているのが、この部屋の弱めの照明下でも分かる程だったからだった。
そんな私の視線を他所に、老人は手慣れた感じで単語を打ち込み、それを開いたまま、私に渡してきた。見てみると、その液晶には、senseが表示されていた。その見える範囲、一番上部の、senseの脇に原義が載っていた。老人の言った通り、そこには”感じる”と出ていた。
私がジッと見ていると、老人が話しかけてきた。
「…琴音ちゃん、そこには、沢山の意味が載ってるでしょう?」
「はい」
私はチラッと顔を上げて見ると、老人は私と目が合うのを待っていたかの様に、そのまま先を述べた。
「その数が、多ければ多いだけ、それだけ色んな時代の人々が、アレコレと解釈しながら、この現代まで言葉を受け継がせてきたんだよ」
「…」
私は、特に返すべき言葉が見つからなかったので、黙ったまま、辞書のモニターを覗き込み、下にゆっくりとスクロールしていった。
老人は、返答がないのを、全く気にする様なそぶりを見せずに、そのまま先を続けた。
「でね、…やっと、センスの意味について話すところまで辿り着いたわけだけれども…琴音ちゃん」
「はい?」
不意に話し掛けられたので、また顔を上げて老人の方を見た。老人はニコッと目を細める様にして笑いかけてから、聞いてきた。
「君は、そこに羅列されている”sense”の意味の中で、腑に落ちるものはあるかな?先程、原義を言った時は、納得いかない様子だったけど」
「え?…うーん、えぇっと…」
これまた急に問い掛けられたので、さっきはチラッと見ただけだったが、真剣に一つ一つを吟味して見る事にした。一番上に表示されているのは、”感覚”というものだったが、これは原義と変わりがないので、そのまた下を、どんどん見ていった。…と、暫くして、あるところに目が止まった。そして、それを見た瞬間、今までの議論の中身も含めて、急にモヤが晴れて行く様な感覚に襲われた。そう、この感覚は、義一と会話していく中で味わうものと、全く同じ物だった。
恐らくそんな心境が顔に表れていたのだろう、老人が面白げに私に話し掛けてきた。
「…おっ、その様子じゃあ、何か、引っかかる…いや、納得のいく答えが見つかったかな?」
「はい。…少なくとも、私にはですけど」
ハイと答えたものの、やはり何処か自信が無かったのか、余計な言葉を付け加えたのだった。
老人は、そんな私の返答に対して、一々突っ込む様な真似はせずに、
「では、それは、どういった事だったかな?」
と尋ねてきた。
私は、見つかった解釈の部分が、モニターの中心に来るようにセットしてから、老人に辞書を手渡しながら答えた。
「それは…その真ん中辺りにある、”良識、思慮分別”という所です」
「…」
辞書を渡された老人は、モニターをジッと見ていたが、フッと顔を上げると、私に静かな表情を向けつつ聞いた。
「…という事は、君は”センス”という言葉を、”良識、思慮分別”という風に解釈したという事になるのだけれども、…それは何故だい?」
「それは…」
私はまた、試されているかの様に感じ、少し萎縮しかけたが、先程感じた、晴れやかな感覚を信じて、そのまま答える事にした。
「これは答えになってないかも知れないですが…、先程も言ったように、私は今の様にピアノをやり始めてから、ずっとこの”センスとは何か?”について、考えてきました。…しかし、今の今まで、これといった答えが見出せなかった、これもさっき言った通りです。…でも、この”良識、思慮分別”という解釈を見た瞬間、”これだ”と思ったんです。そう、今まで何処かで感じながらも、言葉に出来なかったものが、こうして目の前に提示されているかの様に。…いやぁ」
とここで、私は少し恥ずかしくなりながらも、先を続けた。
「さっきは、原義に対して、フワフワしたものだと、少し小馬鹿にしてしまった様な物言いをしてしまいましたが、でも、そう感じたとしか言いようが無いんです。…これが一応、私の理由なんですが」
「…」
老人は、私が話し終えても、腕を組み俯いたままだった。そのほかの者達も、老人が声を出さない事には、何も言えないかの様な空気を、そこはかとなく作り出していた。
どれほどだろう、恐らく十秒ほどだったかも知れないが、とてもそんな短くは感じられなかった。
と、ふと老人が顔を上げたが、その顔には柔和な笑みが溢れていた。そして、不思議とこの場に満ちていた緊張の糸を切る様に、明るい調子で私に話しかけてきた。
「…ふふ、よくそのように自分の意見を纏めれたね?照れるだろうけど、敢えて言わずには居れないから、賛辞を送る事を許して欲しい」
「…という事は?」
「…うん、僕も君と同意見さ。…ここに集う皆んなもね」
そう老人が言うので、ふと周りを見渡すと、義一を含む一同それぞれが、視線が合うたびに、コクンと笑顔で頷くのだった。
「…まぁ、勿論、これが絶対だという答えは有り得ない…だからこそ、これだけ時代時代に多様な解釈が生まれているわけだからね」
そう言うと、老人は日本酒をチビっと舐めた。
「でもね」
老人は続けた。
「絶対的な答えは無くとも、それでも言葉が存在する限り、解釈し、そして使っていく訳だから、この問いを放棄してはいけない」
「はい」
私は同意を示すために、短く、しかしハッキリと返した。
老人は、そう言った私に微笑みつつ、先を続けた。
「だから、今の時代に生きる我々が、その言葉をどう解釈して使っていたか、それを何らかの形…それは、詩だったり、小説だったり、評論だったり…いや、書物だけではなく、口述でも何でも、やり方は構わない」
そう言いながら、老人は勲やマサさんを見て、そして一同をグルっと見渡していた。そしてまた私に顔を戻すと、変わらぬ調子で続けた。
「それを先人達がした様に、我々も後の世代の為に、何らかの形で残していかなければならない。…この様にね」
老人は、子供の様な笑みを浮かべながら、電子辞書を軽々とフラフラして見せた。私も笑顔で、頷き返すだけだった。
少しの間、同じ様に微笑んでいたが、ふと、老人は、何故か決まり悪そうな苦笑いを浮かべると言った。
「…ふふ、琴音ちゃん、こう言うことをいきなり言われると、じゃあ今までの話は何だったんだと思うかも知れないが…いいかな?」
「…?はい」
「それはね」
老人は、敢えて大袈裟に言えば、一息を長く吹く様にしてから、先を述べた。
「…それ程、語源に拘っていると、それはそれで視野を狭める事になってしまうという事だよ」
「へ?」
私は思わず、気の抜ける様な声を上げてしまった。隣に居た義一も、私と似た様な表情で老人を見つめていた。そんな表情は、義一だけでは無く、この場にいた皆がそうだった。しかし、すぐに分かった。私以外の皆んなは、私と違った意味で困惑していたのを。ただ、この時は、その理由までは分からなかったが、それもすぐに知れる事となる。
「先生…」
「ん?」
ふと、勲が老人に静かに話しかけた。
「何かな、勲さん?」
問われた勲さんは、私のことをチラチラ盗み見しつつ言った。
「いや、先生、まだこんな子供には、その事を話すのは早いんじゃないですか?…確かにこの子は利発では有りますが、その矛盾点を理解して貰うっていうのは…」
「矛盾…」
と、私は思わず呟いた。確かに、老人も今自分で述べた様に、今の発言は、矛盾と受け取られても仕方ない様に見えた。そう指摘されて当然だった。が、繰り返しになるが、勲さんが指摘したのは、その矛盾についてというよりかは、それを話す事自体にある様だった。それは一同が共有している認識の様だった。が、そんな指摘にも、老人は何も言い返さず、笑顔で勲に対応し、そのままの表情で私に話しかけた。
「そんな大袈裟なぁ…、琴音ちゃん、今私が言った、一見矛盾している…この種明かし、話してもいいかな?」
「…え?それはもう、当然お願いします!」
私は何を今更と思い、失礼なのは承知の上で、つい強い口調で返してしまったが、そんな返答された老人は、どういう訳か、心から嬉しそうに微笑むと、話し始めた。
「それはね、…これは大事な事だと思うから、何度も繰り返して確認するんだけど、そうだな…」
と、せっかく話し始めたかと思いきや、顎に手を当てて、少しの間考え込んでしまった。が、私は何の感想をも抱かずに、ジッと老人が、また話始めるのを待った。何せこちとら、毎度義一に付き合っているお陰で、この手の事には慣れっこだったからだ。
老人は数秒ほど考えていたが、フッと視線をまた私に合わせて、話を始めた。
「…うん、今まで何故語源を辿るのが大事なのかは、僕から説明させて貰ったし、そして君も同意してくれたよね?」
「はい」
私は、力強く頷いた。
「うん。で、それを、過去の人々がどう解釈してきたかを見て行く事も大事だと、それも納得してくれたと思う。…でもね」
と、ここまで、気持ち和かな笑みを浮かべつつ話していたのが、ここで急に、真剣な面持ちになって続けた。
「この方法に拘り続けると、今度は”言葉”自体の奴隷になってしまうんだ」
「奴隷…」
「そう。…いやぁ」
と、ここでまた一転して、老人は顔一面に苦渋を含む様な苦笑いを浮かべて言った。
「んー…どうしても、軽くでも小難しい話を挟まないと説明出来ないんだが…構わんかね?」
「あ、…はい、勿論です」
老人が、先程と同じ事を確認してきたのにも関わらず、私はうんざりした様な表情を見せずに、寧ろ柔和な笑みを意識して見せた。
これも繰り返しになるが、こういった事例は、義一との付き合いで慣れっこだった。何度も同じ事を確認してくるのは、何も自分が言ったことを忘れてのことではない事は、言うまでもない。それだけ相手に、気を遣ってのことなのは、子供の私でも理解できた。自分ばかりが一方的に話すことへの、ある種の後ろめたさも影響していたのだと思う。
それはさておき、老人は私の表情につられる様に、若干顔を緩めつつ続けた。
「…また哲学者の名前を出して恐縮だが、ハイデッガーという哲学者が昔いて、その人が人間の”存在”について、難しい話をした事があったんだ」
「人間の存在?」
私は、確かに老人の言う通り、かなり難しい話になろうとしていたので、少し警戒を張った。
だが、老人は、そんな私の心境をすぐに計ったのだろう、緩んでいた表情を、もう少しだけ緩めて言った。
「…ふふ、いやいや、そこから踏み込んで、難しい話をしようって訳ではないんだ。ただ、便宜上引用したに過ぎないんだから。…でね、この人が何を言ったかというと、正確な引用では無いが、こうなんだ」
老人は少しここで溜めてから、先を述べた。
「『言葉とは、人間という存在の住処である』とね。…つま」
「住処…。ということは…あっ」
思わず浮かんだ考えを述べようとして、慌てて口を噤んだ。老人の話がまだ途中だったというのに、遮ってしまった。私は一人決まり悪そうにし、老人もこちらを一瞬ジッと、何かを見透かそうとするかの様に見てきたが、フッと表情を緩めて、話しかけてきた。
「…ふふ、いや、いいよ。何か考えが浮かんだのなら、遠慮せずに言ってごらん?」
「は、はい」
そう言われたので、緊張の解れた私は、促されるまま思い付きをツラツラ述べる事にした。
「…つまり、こういうことですよね?言葉というのは確かに、人間という存在にとって、掛け替えのないものであるのは間違い無いけど、”あくまで”住処であって、存在そのものではないと」
「そう、その通り!」
と、私が話し終えるのを待ちきれない様に、老人は見るからに途中からソワソワして見せていたが、私が言い終えたのと同時に、大きな声で賛成の意を示したのだった。あまりの大袈裟なリアクションに、私は戸惑うばかりだったが、そんな様子に意を介さず、老人は、その明るい調子を保ちつつ、私の言葉の後を受け持った。
「あははは!いや、ゴメンよ琴音ちゃん。先程から君の事を褒めっぱなしだけれど、ここまでちゃんと私の話を、その中の意図まで漏らさずに汲み取りつつ理解してくれた事が嬉しくてねぇ。…私は昔、ある旧帝大で先生をしていた事があったんだが、そこでもキチンと、僕の話を聞いてくれる生徒は、言っちゃあなんだけど、殆どいなかったからね、だから尚更、喜びも一入って訳さ。…さて」
老人は、顔一面に愉快だと言いたげな、朗らかな笑顔を見せていたが、急にまた、先程までの表情に逆戻ししつつ、先を続けた。
「…そう、今君が言った通り、ハイデッガーが言いたかったのは、僕なりに解釈すると、そういう事になるんだ。人間は言葉なしでは生きていけない…でもあくまで住処なのだから、人間イコール言葉といった風に勘違いしてはいけないってね。…うん、ここでまた急に問いかける様だけど、琴音ちゃん?」
「はい?」
私は語尾が上がる様な調子で返事をしてしまったが、こういった急な問いかけは、しつこい様だけど、義一で慣れっこだったので、少し身構えるだけで済んだ。
「…今言った一つ前の会話、『言葉は大事だ。何故なら、人間が人間で有る為には、言語によって思考をしていく訳で、その言語をテキトーに使えば、ありとあらゆる思考も出鱈目になってしまうから。それに、人間というのは、歴史を背負わずに生きてはおれない。生まれた瞬間から、自らの過去を引きずって人生を歩んで行くのだから』」
「…はい」
私は、先程までのメモと、老人の今のまとめを照らし合わせつつ、短くボソッと相槌を打った。
「『もし己の過去を否定、若しくは亡失してしまったとしたら、その人は人格的に崩壊してしまう…。これは当然社会にも言える。何せ、社会というのは過去の人間達の歴史の積み重ねの上に成り立っているのだから。その社会が、過去を否定し始めたら、崩壊していくのは、火を見るよりも明らか。…話を戻そう。言葉の一つ一つに、絶対という基準を設けるのは不可能…若しくは難しいとしても、出来る限り、最新の注意を払いつつ使用していかねばならない』」
老人はここまで言い終えると、一息つく様に、日本酒をまたチビっと遣ってから、先を述べた。
「とまぁ、そんな話をし合って、大まかに、琴音ちゃんも同意をしてくれたと思う」
「はい、その通りです」
私は頷きつつ、老人が改めて纏めてくれたので、有り難く真っ新のページに、一連の事をメモした。
紙に目を落としていたので見なかったが、微笑みかけてくれていただろう、老人は、口調優しげに、語りかける様に先を続けた。
「うん、良かった。…しかしだね、今こうして新たに会話してきた内容は、『そこまで言語言語と言うんじゃない。言語はあくまで住処なんだ。人間そのものじゃない』なーんて話だった。…そうだ、まだ聞いてなかったね?…琴音ちゃん、この結論に対しては賛成出来るかな?それとも、何か反論があるかな?あったら遠慮せずに言ってごらん?」
「あ、はい…」
私は考えてみたが、正直、先程の老人の話を聞いた時点で、疑問点は特に見つからなかった。
まぁ、私の理解力の乏しさに原因があるのかもしれなかったが、引っかかる事なく、すんなりと頭に染み込んでいったので、反論の余地は無かった。
…が、もし仮に何かあるとすれば、それは老人と勲の会話だった。老人が話そうとしていた事を、勲は『矛盾』だと言った。それに対して反論するならまだしも、老人は呑気に、勲のその意見に賛同している様に見せていた。ということは、老人も今の話に対して、本心がどうかは兎も角、少なくとも矛盾だと指摘される事は、織り込み済みだという事になる。…つまり、何が言いたいかというと、そんなやり取りが目の前で繰り広げられた後で、私なりの考えがあるとはいっても、こんなに歳の離れた人間達に対して、それらを振りほどきつつ、自分の意見を述べようとするのは、ひどく骨の折れる事だという事だ。
「…”それ”にも、私は同意します」
私は迷った末、ある種の細やかな保険を入れつつ返した。
老人は、今点々で囲った所を吟味していた様だったが、フッと表情を緩ませたかと思うと、おもむろに話を始めた。
「…ふふ、君は本当に、その歳で細かく丁寧に思考を働かせるんだねぇ…、君はアレだろう?勲さんが僕に、矛盾がなんだと言った事に引っ掛かって、素直に言えないんだろう?」
老人は、隣の勲に視線を流しつつ言った。視線を向けられた勲は、特にこれといったリアクションは取らなかった。
「いや、まぁ…そのー…、そうです」
私は、何か気の利いた遠慮をしようと思ったが、特に思いつかなかったのと、あと、今日初めてこの場に来た訳だが、他の場…例えば、お父さんに連れられて行った様な”社交の場”で振る舞う様な、猫をかぶる様な真似はしないで良いよと、誰かに言われた訳では無いので勝手な解釈だが、この場に流れる空気が、私にそう言ってくれている様な気がして、ありのまま素直な感想を述べる事にした。
私がそう返すと、途端に一同がクスッと小さく笑うのだった。その中には、老人と、あと勲も入っていた。
「あははは。まぁ、そうだよね」
一頻り笑った後、老人は笑顔のまま言った。
「確かに、あの前置きは不味かったかも知れないね。要らぬ警戒を相手に与えてしまうのだから。…許してほしい」
と、老人に満面の笑顔で言われたので、私も思わず顔が緩み、微笑み返しつつ「全く構いませんよ」と、短く返したのだった。
「…さて」
老人は静かな表情に戻ると、また話し始めた。
「今君が同意してくれた事…簡単に言えば、『言語に拘るな、言語に埋没するな』という事になるのだが…琴音ちゃん、勲さんがフライングして指摘した、一見すると矛盾してる様に見える二つの考え…君はどう思うかな?」
「…」
どう思うかなどと、これまた随分とザックリとした問いを投げつけられたが、確かに考える余地は幾らもあった。
一方では『言語を大事に、出来る限り慎重かつ厳密に扱おう』と主張しているのに対し、また一方では『言語に拘り”過ぎる”な、言語に埋没するな』と主張している訳だから、パッと見では、確かに矛盾している様に見えるが、実は…そもそも私は、この二つの話を初めて聞いた時、勿論何も考えずに聞いたので、私も矛盾だと感じた訳だったが、後の老人の話を聞いてるうちに、そんな考えは消え去り、寧ろ矛盾点を見つけられなくなっていた。
…ただ、今こうして問いかけられて、いざそれを説明してみようとすると、中々難しい事に気付いたのだった。
結局此れという答えは見つけられず、仕方なく、感覚的な返答を試みたのだった。
「…そうですねぇ、私も勲さんが言われた様に、矛盾に感じた訳ですけど…でも、今こうして議論を重ねていく中で、そのー…本当に、今のこの二つの論点に、矛盾がそもそもあるのかと、感じ始めてしまったんです…」
と、おずおず言うと、
「…うん、まだもう少し言えるかな?」
と、老人が静かな表情で話しかけてきた。
私は小さく頷くと、また言葉をひねり出す様に先を述べた。
「えぇっと…さっきも言った様に、感覚的に言うしか出来ないんですけど、何て言えば良いのかなぁー…二つとも、反対意見の様ですけど、その両方とも、何も引っ掛からずにすんなり飲み込めて…うーん」
”うん”と頷いたのは良いものの、案の定、これといって、自分の考えを表してくれる様な言葉に巡り会えずにいた。その間も、老人だけでなく、隣に座る義一含む一同の視線が、纏めて私に降り注がれていた。何を言うのかと、たかだか中学一年生の私に対して、ある種の期待感を持たせたものだった。今更降りるわけにもいかない空気を、ヒシヒシと感じていた。とその時、ふと、前に義一さんが、あの”宝箱”の中で見せてくれたドキュメンタリーに出ていた、物理学者のセリフの一つを思い出した。
それが頭をよぎった時、私自身フッと、腑に落ちたので、それをそのまま引用して話してみる事にした。
「…前に、あるドキュメンタリー番組を見た時に、ある物理学者が話した事が印象的だったので、それを話してみても良いですか?」
「…続けて」
老人は、淡々とした調子で促した。義一含む一同は、急に何を言い出すのかと、私の方へ、益々好奇の視線を向けてきた。
私は臆する事なく続けた。
「はい。…細かい事はともかく、簡単に背景を説明すると、相対性理論に次ぐ、世界観を変えかねない新しい理論が出てきたそうです。でもそれはまだ不十分なものだったそうですが、ただ、どの物理学者も、それが今後の世界を変える偉大な理論に成り得ると判断して、ありとあらゆる物理学者がシャカリキになって、理論の発展を目論んでいたそうです。でも結局、物理学者の数だけ、元から発展した理論が別に生まれてしまった。…当時の物理学者たちは、この理論こそが、ありとあらゆる理論を統一出来るものと、そこまで考えていたので、統一できるハズの理論が、幾つも出てきてはオカシイと、みんなして頭を悩ませていたそうです。それはそうですよね?統一理論が統一していなければ、自己矛盾してしまうんですから」
と、ここまで話している間も、一同は私をジッと見つつ、耳を傾けてくれていた。ただ一人、義一だけは、すぐに私の話から察したらしく、この場の中ではただ一人、表情を和らげていた。ここまで話した内容が、ほとんど義一からの受け売りだった事もあっただろう。
「そこである一人の物理学者が、名乗りをあげるんです。その人が、私がさっき述べた人な訳です。彼はこう言いました」
ここで一度話を切り、ここまで話しといて何だが、本当にこの話題が、問いかけられたことと外れていないかの最終確認をした。そして、私なりに良いと判断したので、先を述べたのだった。
「『統一理論へと近づけると思われる理論に、これだけのバリエーションが生まれてしまうというのは、一つの理論に対して、様々な方向から見ているからに過ぎないんじゃないか』と」
「…それがどういう意味か、そして、それがどう今までの話と繋がるのか、説明してくれるかい?」
と、そう聞いてきたのは、隣で微笑ましげに私を見てきていた義一だった。私は、普段通りの義一の笑みに、気持ちが緩むのを感じ、そのまま穏やかな心地で返答した。
「えぇ。…この物理学者がこう言った後で、例え話をしたんだけれど、それがまた分かりやすいから引用するとね?確か…こんなのだったわ」
私の口調も、普段通りに戻っていた。義一に話しかけられてから、顔は義一にまっすぐ向いていたが、ふと、視界の隅に、老人の顔も入っていた。老人は、私と義一を交互に見つつ、微笑んでいたのが印象的だった。
「『あるチェリストの演奏を聞いていると、不協和音がしていた。見てみると、どうも一人しかいないと思っていた演奏者が、幾人もいるらしく、それぞれが自分勝手に演奏するものだから、全く噛み合わず、それ故に不協和が生じていた。でもそれは、見た目だけでなく、音まで含めて我々の勘違いで、何人もの演奏者がいる様に見えたのは、そのチェリストが、合わせ鏡の前で演奏していたからに過ぎない。…つまり、我々は、演奏者自身を見ていたのではなく、鏡に映ったのを、真実だと取り違えていただけなのだ。合わせ鏡がある事に気付いて、その鏡の背後に回り、その上から見下ろせば、鏡の前で演奏している、ただ一人のチェリストが見えるはずだ』とね」
私がそうまず言い終えると、老人含む一同が、「へぇ」とか「ふーん」といった様な、感心なのかなんなのか判断が難しいリアクションをとっていたが、少なくとも、悪い感触は無かった。
と、ふと老人と義一が視線を合わせると、老人が微笑みつつ頷き、こちらから義一の顔は見えなかったが、義一も頷き返すと、私に向き直り、さっきの様に、問いかけてきた。
「なるほど。その話はとても面白かったけど、それがどう今までの話と絡むのかな?」
とても面白かったって、あなたが私に見せてくれたんじゃない。
などと、我ながら可愛くない考えが頭を過ぎったが、普段だったら即突っ込むのを、まだ慣れていない場という事もあって、あえて突っ込まずに、聞かれたままに返答する事にした。
「うん。要はこういう事なの。…同じ事だから繰り返しになっちゃうんだけれど、今まで私たちが会話していた内容だって、ある一つの事を、この場合は言語ね、それを其々違う視点から眺めたから、違う意見が出てきて、それらの間に矛盾が生じている”様に”見えたんだけど、それは 誤解を恐れずに言えば、勘違いじゃないかという事なの。だから、表面的に見ると、ぱっと見矛盾している様なんだけれど、見方が違うだけだから、本質的には何も違いがないというのが、私の意見…です」
と、途中までは、普段義一と話す様にタメ口だったが、最後に老人とふと視線があったので、形ばかりの丁寧語を付け加えて、発言を終えた。
それからはまた数秒ほど誰も声を上げなかったが、やはり最初に口火を切ったのは、老人だった。老人は、今日一番の優しい笑みを見せつつ、口調も穏やかに、私に話しかけた。
「…ふふ、さっき義一君も言ってたけど、興味深い話を絡めつつ、上手いこと話をしてくれたね」
とここまで言うと、老人は頭を軽く撫でつつ続けた。
「いやぁ、本当はもっと中学生向きに簡単な話をしようと思っていたんだが、君がそんな相応しい具体例を披露してくれたものだから、私から話すべき内容が無くなってしまったよ」
「…ということは?」
私は老人のイタズラがバレた後に子供が見せるような、照れ笑いを見て、気持ちが少し楽になったが、口調は辿々しく聞いた。
すると老人は、フッと真顔に戻ると、また柔和な微笑みを見せつつ言った。
「あぁ、君が今言った通りだよ。僕が言った事には矛盾が無い。…だろ、勲さん?」
「…え?え、えぇ、その通りです…」
急に話を振られた勲さんは、私の事を先程まで目をギョロつかせつつ見ていたが、老人の方へ向き、何だかしどろもどろといった調子で返していた。そんな様子を気にとめる様子を見せずに、老人は今度は陽気な笑みを零しつつ、私にまた話しかけた。
「あははは。…まぁ、勲さんが矛盾に感じていないのは、ハナから分かっていた事だから、それは良しとして…琴音ちゃん、ではまず私の考える、今までの議論のまとめを言わせて貰っても構わないかな?」
「あ、はい。お願いします」
私はそう答えつつ、老人に顔を向けたまま、右手に持ったペンをメモの上に置いた。
「うん、ありがとう。…まぁ、軽くだけ言うと、語源を辿るのが大事と私は言った。そしてその後すぐに、言葉に括ってるだけでもいけないと言った。…さっきも確認したけれども、君含めたこの場の人間は納得してくれたかと思う。…ではこれらの議論で、何が言いたかったかというとね、言葉にこだわり過ぎるのがいけないと知りつつも、今のご時世、あまりに現代に生きる人間達が言葉を蔑ろにして、意識的か無意識的かは兎も角、折角の魂宿る言葉達を抹殺してきたから、その反動とでもいうのか、私達が人間であるために、歴史を引き継いで、その引き継いだものを子孫に残そうとするならば、壊れて散らばった言葉の数々を丁寧に拾い上げ、それらを再構築するためには、他人から見たら奇異に見えるほどに、言葉の原点を辿るほか無いんじゃないかという事なんだが…どうだろう?」
私は途中から、老人の話の肝となりそうなところをメモしていたが、話し終えた途端また話しかけてきたので、ふと顔を上げ、迷わずスッと答えた。
「全く疑問の余地はありません」
私はそう答えた後、メモを覗きつつ続けた。
「繰り返しになりますけど…私なりに解釈すると、こうなります。本来なら言葉の一つ一つに拘るは無いんだけれど、ここまで原型を留めないほどに壊れてしまったものを復元しようとしたら、細か過ぎるくらいに元を辿る必要があるという事ですよね?」
「…あぁ、その通りだよ」
老人は先程から変わらぬ微笑を私に向けてくれていた。視界の端に見えていた勲の顔も、いつからか、同じ様な笑みをこちらに向けていた。先程のギョロつかせる様な目は、鳴りを潜めていた。
「うーん、そうかぁ。…琴音ちゃんが今言ってくれたみたいに易しくいえば、もっと分かりやすいんだねぇ」
と、老人がしみじみとした調子で言うと、今まで静かだった聡が意地悪く笑いつつ横槍を入れた。
「あははは。まぁ確かに、先生の言う事は回りくどくて、分かりづらいですからねぇー」
「あのなぁ…」
聡の歯に衣着せぬ物言いに、若干ムッとした表情を見せたが、険悪な雰囲気は出ていなかった。いつもの調子といった感じだった。それを証拠に、すぐに苦笑いを浮かべて返していた。
「はぁ…聡君、君は僕の教え子だった筈なのに、一向に僕の話を真剣に聞いてくれた事が無かったねぇ」
「へ?」
そう言われた聡は、大袈裟に目を大きく見開かせて、さも心の底から驚いたといった調子を見せていたが、すぐにおちゃらけて返した。
「いやいやぁー、先生、僕は昔と変わらず、今もずっと真面目に話を聞いていますってー」
「どうだか」
老人は眉間にしわを寄せて見せたが、すぐにニコッと笑った。それが合図かの様に、この場にいた面々も、愉快だと言った調子で笑うのだった。内情に詳しくない私も、妙に愉快になって、釣られる様にクスクス笑うのだった。
が、ふと、一つ大きな忘れ物をしている事に気づいた。
それを早速老人にぶつけて見る事にした。
「そういえばあのー…先生?」
私はまだ、この”先生”呼びに慣れないまま、おずおずと言った。
「…ふふ、何かね?」
しかし老人の方でも、さっきもそうだったが、私に先生と呼ばれるのが、少し照れ臭い様だった。おあいこの様だった。
それに気づくと気持ちも軽くなり、力も抜けつつ問いを続けた。
「さっき先生は、旧帝大の先生をしていたと言ってましたよね?」
「え?…あ、あぁ、大昔ね」
「二十年近く前だよ」
聡がすかさず付け足した。
「へぇ…二十年前…あ、いや」
聡が不意に入ってきたので、そのままの流れで聡と会話を続けそうになったのを、何とか踏みとどまり、老人に視線を戻しつつ続けた。
「何が聞きたいか…いや、確認したいのはですね、そこにいる聡さんと先生との関係性。それと…」
私は何故か、自分でもわからないまま言いづらくて、ここで一度言葉を止めたが、一息入れると辿々しく聞いた。
「まだそのー…先生の名前すら教えてもらってないんですけど」
「…」
私が言い終えると、ふっと一瞬静寂が訪れたが、私以外の皆がほぼ同時に吹き出したのだった。
「あははは!そういえばそうだ」
「まだ先生、自己紹介してませんでしたねぇ」
「まったく、人にやらせといて、自分がしないなんて、…まぁ、らしいっちゃあらしいけど」
などなど、各々が思い思いに笑いながら口々に言っていた。
老人もはたと気づいたと見えて、照れ臭そうに苦笑いを浮かべつつ、頭を撫でていた。そして一同の笑いが収まりかけたのを見計らったかの様に、私に笑顔を見せつつ言った。
「いやいやいやいや、すまんねぇ、そういえばまだ自己紹介もしていなかったよ。言い出しっぺだというのにね」
「いつもの事ですよ。本論から逸れてアッチコッチに言ってしまうのは」
マサさんは顔一面に呆れた表情を浮かべつつ、ため息交じりに言った。その言葉に、また面々が賑やかに笑いそうになったので、それを抑えるかの様に間髪入れずに老人は、マサさんの事は無視して、一度頭をその場で深々と下げると、笑みを浮かべつつ自己紹介をしたのだった。
「…ゴホン、私の名前は神谷有恒(ありつね)。宜しくね、琴音ちゃん」
こうして全員分の自己紹介を終えて、また一つの議論もひと段落がついたという事で、また各々は目の前の残りの料理をつまみつつ、団欒を過ごしていた。
お酒や飲み物が切れた頃だろうと察したか、マスターとママがトレイを押しつつ部屋に入ってきた。お代わりの人にはそのまま継ぎ足し、私にはグラスごと新しいアイスティーをくれた。取り敢えず今の所は別の注文は無いと聞くと、マスターとマダムは不意に前掛けを外し、私達のテーブルとは別だったが、すぐそばのもう一つのテーブルの席に腰掛け、自分達のお酒をテーブルに置くと、一息ついたとお互いに軽く乾杯して一口飲むのだった。私が腕を伸ばせば手が届く距離にママさん、テーブル挟んでその向かいにマスターが座る形だった。
「いやぁ、二人共お疲れ様。今日の食事も美味しかったよ」
まず声を掛けたのは神谷さんだった。すると、二人は何かに気づいた様にハッとして、同時に立ち上がり、そそくさと神谷さんの方まで行くと、乾杯を求めた。
「いえいえ、そんな滅相もない。ねぇ、あなた?」
コクン。
ママに明るい調子で話しかけられたマスターは、黙ってまっすぐ神谷さんを見ると、大きく頷いて見せた。神谷さんは、最初の頃の様な好々爺の笑顔を見せていた。
そしてコツンとグラスを当てた後は、先ほどの私達のように、一人一人と軽くグラスを当てていくのだった。一人一人が二人に、今日の食事やお酒の感想を軽く話しかけていた。主にママが笑顔で対応していた。私の番になった時、ママは戯けた笑顔で乾杯してくれた。マスターも、無表情だったが、目元を気持ち緩ませていたか、優しいタッチで私のグラスに当てたのだった。
ある種の儀式が終わり、二人が席に着くと、不意に神谷さんが私に話しかけてきた。
「そういえば琴音ちゃん、何か二人に聞きたいことがあったんじゃなかった?」
「…え?」
私は急に話しかけられたので、何の事だかすぐには思い出せなかった。普通だったら、私のそんな様子を見れば、すぐに何の事かと助け舟を出してくれそうなものだが、神谷さんはニコニコしたまま、私が思い出すのを待っていた。それまでの議論が濃すぎて、その前の話を思い出すのに苦労したが、マスターとママを見て、会話が甦ってきた。
「…あぁ!はいはい!」
と、思い出した調子で、中々に生意気な言葉使いをしてしまったが、神谷さんは笑顔を崩さなかったので、そのまま二人に疑問をぶつけて見る事にした。
「あのー…」
「ん?何かな、琴音ちゃん?」
ママは、陽気な笑顔を見せつつ言った。
「私達に何か聞いてみたいことがあった?答えられる範囲でなら答えるよ。ね?」
「…ん?あ、あぁ」
ママが急に話を振るので、若干キョトンとしつつも、私の方をチラッと見てから返していた。
私は、新しく貰ったアイスティーをズズッと啜ってから、二人の顔を交互に見つつ、質問をぶつけた。
有名なホテルの中のフレンチのお店で、二人が働いていた事、それを聡に聞いたということ。それらを前置きとして話していると、マスターはともかく、ママが一々私に同意の合いの手を入れてきた。またそうしつつ、初めに座った位置よりも、少しずつ私に近づいて来ているようだった。左隣に座る義一と同じくらいの距離まで近づいたママに、少しペースを乱されつつも、私は本題をぶつけた。
「それでそのー…、何でそんな二人が、…うーん」
流石の私も、先程の聡が言ったような事をそのままには、本人達を前にして躊躇った。普通に考えれば、失礼な事だったからだ。それも、今日が初対面だというのにだ。
「なーに?遠慮せずに、今心にある事話してみてよ?」
と、痺れを切らしたのか、ママはふと、私の右肩に軽く手を置くと、一同を軽く見つつ言った。
「何だってここは、世間的な建前からは解放された空間なんだから。…ね、先生?」
そう話しかけられた神谷さんは、静かに笑いつつ、小さく頷いた。気付けばみんなは、黙って私の方を、表情柔らかく見ていた。
「ほら、琴音ちゃん。聞いてみて?」
ママさんが最後の後押しをしてくれたので、私も遠慮する事ないかとママの方を直視しながら聞いた。
「何でそんな二人が、こういった”趣のある”古いお店を構えるようになったの?」
「…うーん」
ママは私の質問を聞くと、腕組み唸ってしまった。私なりに気を遣って、やんわりと言ったつもりだったが、気に障ったかとチラチラ表情を伺っていたが、
「先生?」
と、不意に顔を神谷さんに話しかけた。
「この子って…この集まりが何だか知ってるんですか?」
「…ん?えぇっとー…どうなんだ、聡君?」
「…へ?」
神谷さんはそこまでは聞かされていなかったらしく、聡に質問した。さっきまでとは打って変わって、一同の視線は一斉に聡に注がれた。
当の本人は、なぜか照れ臭そうにしつつ、頭を掻きながら答えた。
「いやぁ…教えてません」
「…は?」
聡の言葉を聞いた面々は、各々のやり方で一斉に呆れた表情を作っていた。それには、マスターとママも含まれた。
「なーに、琴音ちゃん?」
と、ため息交じりに呆れ口調で口火を切ったのは美保子だった。
「あなた何も聞かされないまま、この場に連れて来られたの?」
「え?あ、はい」
と私が戸惑いつつ返すと、美保子だけではなく、義一と神谷さんを除く一同が、ますます聡に呆れた表情を向けていた。
聡は一瞬たじろいで見せたが、すぐに飄々とした、いつもの調子で私の方を見つつ言った。
「ん?…あははは!いやぁ、みんなを驚かせようと思って、あれこれ内緒にしていたら、言うタイミングを逃しちゃったんだよ」
そう言い終えると、照れ臭そうに頭を掻いて見せていた。
「…あのなぁ」
と今度は、マサさんが呆れた表情をそのままに聡に向かって言った。
「中学入りたてのガキに何も説明しないまま、選りに選ってこんな”うるさ方”の集まる場所に連れて来たのか」
「僕も、何も聞かされないまま、それで今です」
義一も、聡に対して非難するなら今がチャンスと、マサさんの発言に乗っかる様に即答した。
聡も照れ臭そうなふりをやめないまま、私の方をまたチラチラ見つつ言った。
「いやいや、でも、こいつをここに連れてきて間違いじゃなかったでしょ?コイツみたいに、変に聡くて、色んな物事に目が行き、それから生じる疑問を素通り出来ない…」
とここまで言うと、聡は一同をぐるっと見渡してから、意地悪く笑いつつ続けた。
「そんな世の中から省かれる、忌避される、馴染めないし受け入れられない人達の集まりが、心を休ませる居場所として必要だと思って連れてきたら、案の定」
聡は、私に目を細めつつ優しい口調で言った。
「琴音自身も心の殻が外れて、こんなに長いこと、うるさ方に対して引くこと無く、堂々と議論を展開していったんだからさ。…な、琴音?」
「…え?う…う、うん?」
その発言に対して何と答えれば良いのか分からず、取り敢えずは、同意とも何とも取れない様な返事をしただけだった。
聡が話している間、一同は静かに聞いていたが、聞き終えると、また揃って呆れた表情を見せていたが、今度のは微笑みを含んだものだった。
「…まぁいいわ」
口を開いたのは美保子だ。
「私達を”うるさ方””社会に受け入れてもらえない人種”、そう表現したのも当たってるから否定はしないけど…」
とここまで言うと、美保子は意地悪く笑いつつ、聡に指を向けながら
「あなたもソレに含まれてるの、忘れないでよ?」
と言った。聡は何も返さず、ヘラヘラ笑っているだけだった。
「あははは!」
ふと、声を上げて豪快に笑ったのは神谷さんだった。神谷さんは、聡に笑顔を向けつつ言った。
「確かに我々は、決して多数派になれない人種の集まりだからなぁー…でもね、琴音ちゃん?」
と今度は、私の方に視線を向け、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべつつ続けた。
「これは自己弁護のための、言い訳じみて聞こえるかも知れないけどね、歴史を振り返り見る限り、この世で多数派が正しかった事は、まず見当たらないんだよ」
そう言い終えると、目をギュッと瞑って見せた。顔のシワが際立つ程だ。その様子が、余りにも子供じみていて、今まで小難しい話をしていた人なのかと、その不整合さに、思わず私もクスクスと笑ってしまった。周りの人達も、私につられたのか、それぞれが柔和な笑みを浮かべていた。
「まぁ尤も」
神谷さんは、笑いが収まるのを待たずに、軽い調子で言った。
「今だに語り継がれる偉人達というのも、その当時は受け入れられなかったのが大半だし、我々が話している事も、何も有史以来初めて話されてる事ではなく、『そんな偉人達が話していた事を繰り返しているだけなんだ』『そうだ、今現時点で受け入れられずに少数派に甘んじているけど、そんな先達が話し合っていた事と同じ事を、僕らも話し合ってるんだ』と思えれば、何も孤独に沈む事なく、格好つけていえば、孤高として誇り高く生きていけるんじゃないかって思うんだ」
「…なるほどー」
私は思わず、何とも気の利かない相槌を打ってしまった。が、何の衒いもなく本心からボソッと出てしまったのだから、そこに嘘も偽りもない。素直な感想だった。全くの同意だった。まぁ尤も、普段義一と会話してる中でもよく話し合う事だから、すぐに同意出来たというのもあるけれど。
私のそんなリアクションを見て、神谷さんは笑顔で黙って頷くだけだった。
「…それは良いんですけどぉ」
と、会話にひと段落ついたと判断したのか、ママが不意に切り出した。
眉を片方だけ上げるような、一種の不満げな表情を浮かべていたが、それ以外は緩みっぱなしだったので、怒ってないのは明白だった。
「私が話を振ったのはそうなんですけど…今は、私と彼の話じゃ無かったでしたっけ?」
ママはそう言いながら、マスターの方へ指を指していた。マスターの方は我関せずといった感じで、黙々とグラスに入ったブランデーをチビチビと飲んでいた。
ここまで話を聞いてくれた人なら、私と同じ感想を抱いている事だと思う。それは何かと言うと、寡黙なマスターは兎も角、ママと私達の、ある種の”距離感”が異様に近いという事だ。元もこうもない事を言えば、私達は客で、マスターとママはお店の人、確かにお父さんに連れられて行った寿司屋で、お父さん達と大将さん達も仲良さげにしていたが、今回の場合はそれ以上の親密感が漂っていた。”なんでちゃん”の私としては、気にならずにはいられなかった。
「あははは!いやぁスマンスマン、そうだったね」
老人はまた豪快に笑うと、ママに軽く頭を下げてから、
「ではママ、琴音ちゃんの質問に答えて上げて?」
「もーう、しょうがないですねぇー…分かりました」
ママは今度は拗ねて見せていたが、見るからに冗談と分かる感じだった。そして、すぐ隣に座る私に顔を戻すと、笑顔で何か話し始めようとしたが、ふとまた腕を組み、少しの間唸っていた。
「さて、…うーん、何から話せば良いかなぁ…先生」
と、ママはまた先生の方に顔を向けた。
「この集まりの事も、私の口から触れても良いんでしょうかね?」
ママがそう聞くと、神谷さんはコクンと笑顔で小さく頷いた。それを確認すると、ママはまた私に顔を戻し、笑顔を湛えつつ話し始めた。
「じゃあ、そうだねぇ…。まず私と彼が、前の職場を辞める事になった事から話そうかな?…ふふ、琴音ちゃん、そんな真剣な表情を向けてこないでよ?辞めた話は軽く流すつもりなんだから」
「あ、いや、…ごめんなさい」
私は一応謝ったが、平謝りだった。言い終えた後、思わず舌をペロッと出してしまうほどだったが、そこまで急に打ち解けた調子出すのもなんだと、それだけは思い止まった。自分勝手な感想を言えば、それだけこの空間が居心地よく、意識しないままに心の壁が崩されていたようだった。そのせいで私の本性の片鱗が出てしまっていた。
それは兎も角、私のそんな様子をむしろ面白がりつつ、ママは話を続けた。
「まぁ、簡単に説明するとね、私と彼は、琴音ちゃんが言った通り、自分で言うのも恥ずかしいんだけれど、一流ホテル内の高級フレンチで働いていたの。…下世話な話をするとね、一流なりの給料を頂いていたから、それには文句なんか無かったんだけれど」
後段の方でママが、少し言いづらそうにしてるのが印象的だった。
「でね?そのー…ねぇあなた、私だけが説明して良いのかしら?」
ママはふと、変わらず黙り込んでいたマスターに話しかけた。
話しかけられたマスターは、コンっとグラスをテーブルに置くと、ママの方に顔を向け、目元を少し緩ませつつ、
「…あぁ、構わんよ。私は…口下手だし」
そう言いながら、軽くほおを掻いていた。何だかその情景は、微笑ましかった。
それを見たママはニコッとマスターに笑いかけ、私に顔を戻し先を続けた。
「さて、続きよねぇ…あぁ、そうそう、聡さんから聞いたみたいだけど、そう、私達二人が結婚したくらいからかなぁー…二人揃ってね、何だかその職場が息苦しく感じてきていたの」
「息苦しく?」
「そう。なんて言えば良いのかなぁ…うん、結論から言ってね、さっきの先生達の話に合わせて言えば、たまたまなんだけれど、私達二人とも揃って、どうも世の中から”ハブられる”素質が備わっていたらしいのよ」
「…ふふ」
ママの言い回しが可笑しく、私は思わずクスッと笑ってしまった。その後すぐにママの顔を伺ったが、ママも満面の笑みだった。
「ふふ、それがどういうことかと言うとね、どうも上司から言われる事を納得しないままに、その通りにこなしていくというのに…向いてなかったって事なの。でもそこに勤めている以上、言われるがままにこなしていかなくちゃでしょ?それに耐えていくのに、私達二人は限界だったの。でね、どうなるか分からないけど、このまま勤めていても良い事ないと、二人で相談してね、二人でいつ辞めようかって話をしていた矢先に」
ママはここまで言うと、一度話を切り、一同をぐるっと見渡してから言った。
「今”まだ”この場には来てないけど、知り合いの知り合い…つまり、その時点では他人だったんだけど、知り合いに相談していた時に、その人を紹介して貰ったの」
「…”まだ”?」
私はすぐさま、点々で囲った部分に噛み付いた。
「まだと言うことは、その人も来るのね?」
「…ふふ、琴音ちゃん?」
「…!」
ママはふと、私の唇に軽く指を当てて黙るようにジェスチャーした。
顔は意地悪な笑顔だ。
「慌てないで、その話はまた後でね?」
そう言うと、唇から指を話した。私は照れ臭そうに見せつつ謝った。
ママは笑顔で軽く首を横に振ると、先を続けた。
「でね、その人と初めて、私達も二人揃って会ったんだけれど、もう話が通ってたのねぇ…急にね、『あなた方、お店を構える気はないかな?』なーんて聞いてきたの」
「へ?初対面なのに?」
「ふふ、そうなの。ね、あなた?…でね、呆気に取られて何も返せなかったんだけれど、それに構わずツラツラ一方的に言うのよ。なんだったかなぁ…ん、そうそう、『君達にいきなり言ってもわからんだろうが、あるお店を開きたくてねぇ。君達はあのホテルで働いてるのだろ?その二人の転職先としては、どうかと思うんだが…』って言いつつ、懐から写真を出して見せてきたの。それがこのお店だったのよ」
ママは今度は上を見上げつつ、室内を軽く見渡しながら言った。私もつられて見渡した。
ママはまた顔を私に向けると、少し意地悪く笑いつつ続けた。
「古い趣きのあるお店って、あなたは表現してくれたけど…率直に言ってボロ臭いでしょ?」
「あ、いやぁ…」
心の緩んだ私でも、流石に素直には答えられなかった。
そんな様子を愉快だと言いたげに笑いつつ、ママは続けた。
「これでもまだマシになった方なんだよぉ?写真を見せて貰った時もだったけど、その後すぐに実際にここに連れて来られて見せられたんだけど…まぁー、ボロ臭かったわ」
ママの口癖なのか、ボロ臭いと言うセリフを、しかも強調しつつ繰り返し言った。
「その人の言うにはね、その時点で何年か前に前のオーナーが手放していて、しかも誰も打ち壊す人がいなかったから、そのままになってたみたいなの。それをたまたま、前を通りかかったその人はね、何だかピンと来たものがあったらしいの。でね、そのまま色々と手続きをして、自分の物にしちゃったって話していたわ」
「ふーん。何でだろ?…その人の年齢は知らないけど、もしお年寄りだったら、何だか懐かしく思えたのかなぁ?」
「へぇー」
私が思いついたままにボソッと言うと、隣にいたママがいつの間にか、私の顔を覗き込んできていた。
その様子にビックリして、軽く仰け反ってしまったが、それには構わず、目を大きく爛々と見開かせていた。
「名推理だよ琴音ちゃん。よく分かったねぇー」
「あ、いや…よく見る昔の映画に出て来るようなお店に、ここの外観がソックリだったから…」
と私が慌てて説明してると、今度は向かいから熱い視線を感じた。顔をママに向けつつ、視線だけそっちに流すと、何と百合子が、薄目がちな目を、これまた大きくして見せつつ、私に視線を送っていたのだった。何か話したくてウズウズしている…そんな子供に見えた。
まぁこの理由はすぐに分かった。昔の映画の話が出たからだ。しっかし…、こんなに軽くポッと出ただけなのに、あんなに好奇心の眼差しを向けてくるなんて、…生意気なようだけど、百合子さんは本当に映画、芝居、演劇が好きなんだなぁと、この瞬間に思ったのだった。
私は百合子には何も言わず、そのまま視線を戻すと、それを待っていたかの様に、それと同時にママがまた話し始めた。
「でね、折角買ったのは良いものの、使い道まで深くは考えていなかったみたいで、どうしようかと思っていた矢先に、私達の話をたまたま耳にしたらしいの。これはいざお店を始めるに当たって、何度か会議って言うのかなぁ…それをしていく中で話してくれたんだけど、こう言ったの。『私はね、昔…そうだなぁ…昭和の真ん中辺りに流行っていた、所謂知識人、文芸人、芸術家などがたむろする様なお店を構いたいんだよ。…まぁ、この物件を買った時から考えていた事では無いんだけどね。君達二人の事を紹介してくれた時に、不意にそれを思いついたんだ。そしたらどうも、思い付きとはいえ、何とも素晴らしい考えじゃないかって思いだしてね…だから、そんなお店にしたいから、今言った様な店のコンセプトだけは頭に入れておいて欲しい。それから逸れないでいてくれさえいれば、後はお二人が好きな様に切り盛りして良いからさ』てね。それからはね、その言葉通りに好きな様に弄らせて貰えたの。やれあの調理器具が欲しいの、やれあのワインセラーが欲しいのといった感じでね。そりゃあもう…幾らかかったのか、聞くのも怖いくらいにお金を出してくれたの」
「へぇ…」
私は思わず、当然の疑問として、そんな大金をポッと出せる”その人”って何者?っと聞きたくなったが、別にママに乗っかる訳ではないが、私も”お金”絡みの話は、中学生の私でも口にするのを憚られていた。無粋だとか何だとか、理由はいくつもあれど、最大の原因は、お父さんにあったと思う。…ここでは、これ以上付け加えるのはヨシとしよう。
私の短い相槌には特に反応せず、ママはそのまま先を続けた。
「そこに楽器があるでしょ?それはその人が自分の趣味だからって置かせてくれって言うもんだから、それは構わないと、折角だからこの部屋を防音にしたりしたの。で、そういった施設の調達が終わった頃にね、最後は、お店の内外装はどうしようかって話になったの。その人はさっきも言った様に、好きにして良いって言ってくれたんだけどね、…結局、少し汚れを落としたり、お店として許可が貰えるほどにクリーニングしただけで終わったの。…いやぁ」
ママはふと、なぜか照れ臭そうにしつつ話した。
「私も琴音ちゃんみたいに、こんなボロ臭い店をやるのは、正直どうかなぁって思ったよ?…これは話してないかもだけど、それでも夫婦でどっかでお店を開くというのが、一番の理想でもあったし…それにね、これは言いづらかったから言わなかったんだけど、敢えて今言えば、その人がね、『給料の心配はしなくて良い。ちゃんと前の職場と同じ金額を、最低限保証するから』って言ってくれたから、流石に余りにもムシが良すぎる話だと思ったけど、まぁいっか、乗ってみようかと、そんな軽はずみな考えで引き受けたんだー…あ、話を戻すとね、何だか何度もこの店に通ってるうちにさ…このレトロな風合いが良く思えてきてねぇ…それはこの人も同じ考えだったみたいで、見た目はそのままで行こうって話に纏まったの」
私はここで、チラッとマスターの方を見ると、マスターは一人で何度も小さく頷いていた。
「まぁでも…初めはビックリしたよー?」
ママはそう間延び気味に言うと、また一同をぐるっと見渡した。
「開店初日にね、その人が説明もなく連れて来たのが、ここにいる面々と、その時は…他の人がいたかな?」
とママが疑問調で言うと、
「…今日来ているメンツでは無かったなぁ。そん時にはまだ居なかったのばかりよ」
と急にマサさんが、ほろ酔いなのか、前よりも余計にべらんめえ口調で答えていた。
「あ、マサさん、そうだっけ?…そうそう、その時からマサさんは来てくれてたねぇ」
ママは私に視線を向けたままだったが、どこか遠い過去を見ている様に見受けられた。
ママもマサさんに触発されたのか、自分の分のワインを一口飲むと、先ほどの調子を取り戻しつつ、話を続けた。
「…そうそう、何がビックリしたってね、見るからに一癖も二癖もありそうなのが、どんどん入って来てさ、その人の言いつけ通り料理を振る舞ったり、お酒を選定したりしてる時、聞こえてくる会話が…まぁー濃いのなんのって」
「へ、へぇ…」
私がこうして戸惑いつつ返したのは、初めてこの店に入った時に挨拶したときとは、ママの様子が変わっていたからだった。最初の印象としてはお淑やかで、物静かな印象を受けていたが、途中から天真な印象、そして今はアッケラカンとしたサバサバした印象を受けていた。三変化だ。後で義一にコソッと聞いた所によると、ママは各々にお酒を出す時、毎回まず自分で味を確かめてから出しているらしかった。大体毎度同じ物を注文されるらしかったが、それでも、味が落ちてるのではないかと、知ったかぶりで言えばプロ意識の様なものなのだろう、自分で納得いく物を出したいあまりの行動の様だった。前の勤め先では、やりたくても出来なかったというんで、ようやくこの店を切り盛りし出してから、夢が叶った形の様だった。ただ…ママは自分でも知らなかったらしいが、思ってるほどお酒に強くは無かったみたいだ。味見程度とはいえ、いくつもある酒、度数もてんでバラバラのを飲む訳で、そうしてるうちにほろ酔い気分になり、そして今は本酔いになってるという事だった。尤も、そこは節度を弁えてるので乱れる事は無かった。寧ろ、何だか愛嬌が増して、私個人の感想としては、どのママも嫌いじゃ無かった。
「…でもね」
ママはまたワインを一口飲むと、話を続けた。
「どの話も刺激的で面白かったの。私なんか学が無いからねぇ…テレビの討論番組だって、当時はそれさえ難しくて見るのを避けていたのに、もっと難しい話をしてる筈なのに、ここに集まる先生方の話に関しては、私なりに理解して飲み込めることが出来たのよ」
「そりゃやっぱり、俺らと同じ人種ってのも大きいんじゃないか?」
聡がふと、会話に割り込んできた。顔はニヤケ面だ。
ママも負けじと意地悪く笑って見せて返していた。
「うるさいわねぇー…まぁ、そうかもね。…あぁ、そうそう、この店についてだったわね?だからー…まぁ、無理やり纏めると、その人に誘われて、あの人とお店を構えた訳だけど…ここに集まるのは”うるさ方”ばかりだからねぇ…ふふ。みんな顔が知れてくると、好き勝手にアレ食べたいコレ食べたいって、あの人の専門のフレンチを一切注文しなかったりするのよ。その度にこの人は…またこの人が生真面目過ぎて変人に見られるタイプだからねぇ、中途半端なものは食べさせられないと、昔の杵柄というのか、伝手を頼って、その道のプロの元にまで赴いて、色んなジャンルを勉強してたの。…側から見てて、そりゃー…大変そうだった」
そう言いつつ、後半部分から一同を見渡してると、お年寄り組を除く面々が、ママとマスターに向かって仰々しく頭を下げていた。が、顔は満面の笑顔だった。「すんません!」と声に出したのは聡だけだった。
「ねぇー、あなた?」
本酔い特有の、妙に明るいトーンで話しかけられたマスターは、いつもの事なのだろう、驚く事なく対応していたが、でも本人もお酒が入ってるせいか、前よりももっと表情に出して笑って見せていた。
「でね、”本当に”纏めると、夜はこうして、毎度毎度違うメンツの先生方の為に、今いるこの部屋でもてなしているんだけど、それは毎日じゃなくてね、毎週土曜日の夜だけなのよ。週一の経営って訳ね。さっきチラッと言ったけど、その人はここを、会員制のバーの様にしたかったらしくてね、お客さんといえば、その人つながりの人だけだったのよ。その事についても、あらかじめ聞いていたから、珍しくて何だか面白そうだと思って乗っかったんだけど…ふふ、我ながら考えなしよね?暫く週一経営が続いていたのだけれど…退屈してきちゃったのよ。いや、初めの頃は助かったのよ?ようやく好きな様に理想を追い求められるって。コレも聞いたかも知れないけど、それこそこの人は、さっきも言った通り勉強してたし、食材も良いものを求めて飛び回ったり、私も恥ずかしながら、ふんだんな時間を大いに利用して、国内外問わず、美味しいお酒を求めて飛び回ったりしてね。それはそれで楽しかったんだけれど、私も彼も、それぞれ美味しい所と繋がりができると、一々出向かなくても送ってくれる様になったの。それでも一年のうちに何度かは、直接出向いたりとかはするんだけれど、また自由な時間が増えてしまったから、どうしようって二人で話し合ってね、二人で出した結論というのが…」
ママはそこまで言うと、ふと私の前にある、アイスティーの入ったグラスを指差した。
「コレって訳よ。…つまり、前のオーナーがしていたみたいに、平日は喫茶店を開こうってね。…よいしょっと」
ママは掛け声をつけて、ゆっくり立ち上がると、まだ出して置いたままのトレイに近づき、そこから私が初めに見たメニューをわざわざ持ってきた。そして座り、私にメニューの表紙が見える様に手に持ちつつ言った。抹茶色一色の表紙に、赤字で『数寄屋』と書かれたものだ。
「ここに書いてある様に、『数寄屋』って言うの。この店名で喫茶店をやり始めたらね、途端に近所の年配の人達が来店して来てね、どうも前のオーナーの時の常連らしくて、看板を新しく作って出したものだから、口々に懐かしいって言いながら来てくれる様になったの。でね、その人達に折角だから、昔どんなメニューがあったか聞いてさ、それをこの人が、これまた熱心にメモして再現していったら、こんなにメニューが豊富になったの。…小さい声で言うけど」
ママは内緒話をするかの様に、私の耳元に近付き、手を軽く添えつつ言った。
「いざあの人が作ったら、よっぽどあの人の方が美味しいって評判なの」
そう言い私から離れて元の体勢に戻ったママの顔は、心から嬉しそうな表情だった。こんな言い方は失礼なのだろうが、素直な感想を言わせてもらえれば、一流ホテルの高級フレンチで働いていた人が、街中の個人喫茶の軽食メニューと張り合い競えば、私の浅い考えからすれば、勝負が見えていると思うのだが、ママがそんな表情を見せるので、よっぽど旦那を褒められる事…いや、旦那の”腕”を褒められるのが本当に嬉しいんだなと感じさせられた一コマだった。
と、そんな感想を思った訳だが、ふと疑問に感じた事があったので、聞いてみる事にした。
「…あれ?でも待って下さい」
「ん?なーに?」
ママは間延びで返事をした。私は構わず、部屋のドアを振り向きつつ聞いた。
「今外に看板ありませんでしたよね?それはどこにあるんですか?」
「あぁ看板ねぇー…それはね」
ママは、無駄にと言っては何だが、ワインをゆっくりと味わう様に飲んでから答えた。
「ずっと出して置くと、ここがお店だと思っちゃうでしょ?…あ、いや、お店と思われても良いし、実際喫茶店だからお店なんだけれど…」
酔いが回ってるのか、辿々しくなりつつ、何とか話をまとめる様に努力をしていた。
「うーん…あ、ほら、土曜日は休みにしてるのね?だから常連さん達が間違えない様に看板を週一だけ、中にわざわざ仕舞うのよ。また看板をしまっちゃえば、初めて見た人だと、昔はお店だったんだろうけど、まさか今も店だとは思えない風貌でしょ?しかも店内の明かりが弱いし、通りに面した窓も磨りガラスになってるから、外からだと人の気配すらしないから、会員制バー風にはもってこいなのよ。誰も寄り付かないって意味でね」
ママはここで切ると、またワインを口にした。何だか見るからに、飲むペースが上がっている様だった。
「…まぁ、結局まとまりのない話をしちゃったけど…これで説明は良いかな?答えになってる?」
そう言いつつ、ママはトローンとなった目で私を見つめてきた。
色っぽかったが、私は言うまでもなく女だったので、ドキッとして
たじろぐ事も無く、自然な笑顔で返した。
「はい、よーく分かりました」
「ふふ、良かったー」
ママは言い終えると同時に、またワインを一口飲むと、メニューの表紙に書いてある店名を、指でトントン叩いて見せながら言った。
「ここの昼の店の名前はねー…初めは私達で考えていたんだけれど、ほら、今までずっと、元からあるお店で働いていたものだから、こういうの考えるセンスを鍛えてなかったのねぇ…しっくり来るものが思いつかなかったんだけれど、そこで」
ママは急に勢いよく、神谷さんの方に腕を伸ばして見せてから続けた。
「『数寄屋』なんてどう?って提案してくれたのが、先生だったの」
「へぇー、そうなんですか」
私は素の感想を、神谷さんに向けて言った。
「まあね」と神谷さんは少し照れ臭そうに笑いつつ、短く答えた。
「とても響きがいいでしょ?後で数寄屋の意味を聞いたら、そもそも数寄の意味が『和歌や茶の湯、生け花など風流を好むこと』らしくてね、今日はたまたまだけど、琴音ちゃんも入れて、こうして芸に携わる人が集まるのが似つかわしいでしょ?」
「う、うん」
酔いのせいかどんどんテンションが上がって来るので、若干ついて行けない感じになりつつも、相槌を打ちつつ、向かいに座る美保子と百合子をチラッと見た。その時ちょうど視線があったからか、二人とも私に一瞬笑顔を送ってくれた。
「それにね…」
ママは一瞬溜めたが、テンションを落ち着かせて、静かに、しかし誇らしげに言った。
「そこから派生した言葉らしいんだけれど、この店名の『数寄屋』、この意味はね…『好みに合わせて作った家』といった意味で、茶室を意味してるんだって」
「へぇー」
私は神谷さんを見つつ、代わり映えの無い反応をしてしまったが、心から感心していた。まさにこの店に相応しい名前だった。
「本当に良い名前ですよねー」
不意にそう言ったのは、酔いの回った聡だった。
「まさに”コレだっ!”って奴じゃないですかぁ。…先生、そっちの道でもいけましたね?」
「うるさいよ聡君」
そう返す神谷さんは、満更でもないといった表情だった。聡もニヤケるのを止める気配が無かった。
「…さて!」
ママはそんな空気を変える為か、パンっと一度拍手を打つと、一同を軽く見渡して、私の顔を経由して、それから最後に神谷さんの方を見ながら言った。
「私達の話はこれで終わったんですから、今度は先生方が、この集まりについて説明する番ですよ?」
「うーん…そうだねぇ」
話を振られた神谷さんは、チビっと升に入った日本酒を飲むと、私に柔らかな視線を向けてきた。
「まぁ結論から言うとー…」
神谷さんは一同を見渡したり、身の回りを見たりしていたが、
「…あぁそうか、まだ来てなかったんだったな」
とボソッと独り言ちると、今度はママの方に顔を向けて言った。
「ママさん、悪いけど我々の雑誌をいくつか持って来てくれるかな?」
「…我々の雑誌?」
と私は思わず言葉を漏らしたが、それには関せずに
「はーい、分かりました。今取って来ます」
と陽気な調子で応えると、おもむろに立ち上がり、部屋の隅にある本棚の方へと向かった。
前にこの部屋を紹介した時には、部屋の隅に本棚がある事を言ってなかったが、それは別に特段紹介する程でもないと判断したからだった。本棚には一般的な雑誌サイズの本がズラッと並べられていたが、てっきりイミテーションの飾りと思っていたのだ。いわゆるお洒落を演出するためだけの物のように。
それは置いといて、ママはそこから二、三冊取り出すと、それを持って戻って来た。そして神谷さんが言わずとも、ママは私にそれらの本を手渡してきた。渡されるままに受け取り、表紙を見てみると、その上部に『orthodox』と書かれていた。どうやら雑誌の名前のようだった。そのほかには、日本のどこかの風景写真が載せられていて、右端にズラッと、小さな字で人名が書かれていた。どうやらそれらの人達が、その雑誌の中に寄稿しているようだった。
…こう言ってはなんだが、第一印象は…『雑誌という体は成していたけど、何だか安っぽい作りをしてるな』というものだった。同年代の子達とは比べ物にならないくらいに、普段から雑誌を読まなかったが、それでも今手元にあるのがどの程度の物かくらいは判断出来る。
はっきり言ってしまえば、コンビニなどで売られている”ムック本”レベルにしか見えなかった。
そんな感想を抱きつつ、ふと顔を上げると、全員が興味深げに私の反応を待っているかの様だった。その気配を感じたので、私は恐る恐る口を開いた。
「…あのー、これって…?」
と、感想を言わずに疑問を漏らしてみた。
すると神谷さんは、半分誇らしげな、もう半分は少し照れ臭そうな、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「…ふふ、それはねー…」
と、少し勿体振って見せたかと思うと、一同をぐるっと見渡してから質問に答えた。
「ここにいる面々だけじゃないが、この店に集まる人間達で、その雑誌を作ってるんだよ」
「へぇー、そうなんですか」
良かったぁ…感想言わなくて
などと一人でホッとしながら、改めて何冊かの一冊、さっきも言った一冊の表紙を、今度は入念に見た。右端に書かれた寄稿者の列、よーく見たが、皆んな知らない名前が羅列されていたが、神谷有恒の名前が一番下に出ていた。
「…ん?あれ?!」
と、私は思わず声を上げてしまった。今日ここに来て一番驚いたかも知れない。
何故なら、その寄稿者欄の中、神谷有恒の名前の上に、何と”望月義一”の名前が出ていたからだった。私は目を大きく見開いたまま、思わず隣の義一に視線を向けたが、義一は何食わぬ顔で平然としていた。
「ふふ、ちょっと見せてくれる?」と、私の反応を楽しんでるかの様に、愉快げに神谷さんが聞くので、私は動転したまま中腰で立ち上がり、手渡したのだった。
受け取った神谷さんは、愛おしそうに表紙を眺めて、それから徐ろにページをめくり出した。
「…あぁ、そっかぁー…。この号は、テーマを政治に特化させたから、今いる面子に書いてもらってないんだったねぇ」
そう言い終えると同時に雑誌を閉じて、隣にいた勲に手渡すと、何も言われていないのに、隣にいた聡に渡し、それから義一を経由して私の手元に戻ってきた。
「…ふふ、ママさん」
神谷さんは、私に雑誌が戻るまで黙っていたが、私が受け取ったのと同時に笑いながらママに話しかけた。
「どうせだったら、今日いる人達が寄稿してるのを見せてあげればいいのに」
「え?あらぁ…ありますよ?」
ママはそう言いながら、私がテーブルに置いた残りの内の一つを取り上げ、
「ほら琴音ちゃん、この号が、今この場にいる方々が寄稿したものだよ」
と私の手元のものと交換する様に手渡してきた。
渡されたものを見てみると、相変わらず表紙の上部にorthodoxと名前が書かれていて、どこかの風景写真が載っていたが、右端の寄稿者欄を見てみると、いくつかある人名の中に、石橋正良、川島勲、岸田美保子、小林百合子、そして最後の方にやはり、望月義一、神谷有恒の名前が出ていた。
そして今度は少しページを捲り、目次を見てみると、ここにいる面々が、それぞれの世界について思う事を書いている様が、まだしっかり読んでなくても、その題名だけで見て取れた。まぁ、短い時間とは言え、あれだけ濃い議論をしたのだから、想像するのは難くなかった。
義一の所を見てみると、やはり芸について寄稿している様だった。尤も、題名を見る限り、本質的な、大局的な内容だとすぐに分かった。
と、私がチラホラ見ている間、面々は静かに見守っていたが、私がふと顔を上げたのを合図にしたかの様に、
「…まぁ、それ見て分かるように」
と神谷さんが、私がまだ質問しないままに、先回りして話しかけてきた。
「そして今までの話を纏めて、君の質問に対しての答えらしい答えをするとだね、端的に言えば、その雑誌を作るための集まりだと言っても過言では無い…つまりそう言う事なんだ」
「先生、それだけじゃ誤解があるぜ?」
と、マサさんが不意に神谷さんの話に続けて入ってきた。
「orthodoxありきで集まった訳では、必ずしも無いでしょう?…俺なんかは、この雑誌ができるずっと前からの付き合いなんだから」
マサさんはそう言うと、今度は私に顔を向けて、パッと見では怒ってるかのように勘違いを受ける様な素の表情のまま話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、さっきママが言った事を受けて話せば、この集まりの最前提はな、今の時代の中、元もこうも無い事を言ってしまえば、資本主義、もっと露骨に言えば、質はどうあれチープでもなんでも大衆に受けさえすれば良い、儲かれば良いという量重視の商業主義に、力無くも真っ向から反発していこうとする…聡が言う所を俺なりに言い換えれば”社会不適合者”って事なんだ。で、今はまだ来てないが、大昔から連んでいた中に”西川さん”って人がいてな、その人が…」
マサさんは不意に、隣の神谷さんの肩に、手を軽く乗せつつ続けた。
「この先生が雑誌を作りたがってるって話を聞いてな、その西川さんも是非にと乗り気になってな、ポケットマネーを叩いて雑誌を刊行してくれる様になったんだ」
と言い切り、前触れもなく話を打ち切ると、マサさんはまたチビチビと日本酒を飲み始めるのだった。
「…まぁ、そんな所だよ」
と、今度は義一が私に微笑みかけてきつつ言った。
「大袈裟で、少しカッコつけた言い方すればね?…大雑把な言い方になるんだけれど、今の世の中の風潮について疑問に感じ、憤懣やる方ない、でもここまで時代が流れるがままに来てしまった…もうどうしようもない、なす術がない、手の施しようがないと、端的に言えば絶望している集団なんだけれど、それでもこうして否応無く生を受けて産まれて生きている。…いくら絶望してようと、取り敢えず生きなきゃいけない訳で、それならば『おもしろきなき世を おもしろく』ってなもんで、せめて死ぬその時に『あぁ、クダラナイ世に生まれて生きてしまったが、まぁそれなりに抗い、何度自問自答しても正しいと思われる事をしてきたのだから、生きた甲斐はあったかな?』と思えれば上々だろう…そんな人生観を共有している集まりなんだ。でね?」
義一はスッと、テーブルの上に重ねて置かれた雑誌の一つを手に取り、さっきの神谷さんの様に表紙を愛おしそうに見つめながら言った。
「世の風潮に抗う、その具体的な行動が現れて形になったのが、この雑誌ってわけさ。…分かりづらいだろうけど、理解できた?」
そう聞いてきながら私の顔を覗き込んできたので、
「…うん、みんなの話を聞いて、ようやく理解出来たよ」
と、義一に笑顔を見せつつ返した。
まぁ尤も、ここまで辛抱強く聞いてくれた方なら、今義一が話してくれた内容が、耳にタコが出来るほどに、私に話聞かせてくれた内容だという事に、すぐ気が付かれたことだろう。すんなりと理解出来るのは当たり前だった。
「…それは良かった」
神谷さんがボソッと、私に微笑みかけてきつつ言った。
私もそれに合わせて顔を向けて微笑み返したが、その時
ガチャっ
唐突に部屋のドアが開いた。急に予期せぬ音が聞こえたので振り返って見ると、そこには一人の老人が満面の笑みで立っていた。
歳は七十そこそこといったところだろう、髪型はオールバックに撫で付けられていて、剃り上げられた神谷さんとは見た目が正反対に見えたが、同い年くらいに見えた。服装は、量販店でよく売られている様なセーターに緩めのジーンズと、Tシャツにスキニージーンズの私が言うのもなんだが、随分とラフな格好をしていた。
と、一同が老人の姿を認めるなり「おぉー」といった様な声を上げて歓迎した。皆して笑顔だった。
「いやぁー、すまんすまん」
老人は謝るジェスチャーをしつつ、私達の座るソファーへ近寄って来た。同時に勲が右に寄って来たので、必然的に私も一席分右に寄る事になった。移動が終わったのとほぼ同時に、老人はソファーの隙間をすり抜けて、神谷さんと勲の間にドカッと座った。
「あぁーいやいや…」
「…ふふ、オーナー?」
ママは私の気付かない間に立ち上がっており、老人の側まで笑顔で近寄っていた。
「今日は何飲まれます?」
そう聞くと、老人は隣の神谷さんの前にある、升に入った日本酒を見ると、オールバックの頭を撫でつつ
「この人と同じものを頼むよ」
と人懐っこい笑みを浮かべながら返した。
ママは黙って頷くと、出したままのカートを押して部屋の外へ出て行った。
「はぁーあ」
”オーナー”とママに呼ばれた老人は、ハンカチを取り出し顔を拭いていたが、隣にいた神谷さんがジト目を向けつつ話しかけた。
「はぁーあ、じゃ無いよ。随分遅い登場じゃないか?」
「え?そうかなぁ?」
老人はふとポケットから金色の懐中時計を取り出し、時刻を確認した。私も何の気もなしに腕時計を見てみると、時計は八時半過ぎを指していた。
「そうだよー」
神谷さんは、ジト目を向けるのを変えるつもりは無いらしく、そのままの表情で、視線だけ私にチラッと向けてから言った。
「前に話しただろ?何年かぶりに新しい人が尋ねて来てくれるって」
「あぁ、勿論覚えていたさ」
私はこの時、二人の会話を聞いて、神谷さんが今日初めてくだけた調子を見せていたので、口調そのものは非難めいたものだったが、心安い間柄なのは、簡単に見て取れた。
ガチャっ
とその時、ママがトレイに一人分のお酒だけを乗せて部屋に戻って来た。「おぉー!」と、それを見た老人は、神谷さんとの会話中だというのに、ママが運んで来る日本酒を、今か今かと待ち受けていた。
「はい、オーナー」
ママは笑顔で、老人の前のテーブルの空きスペースに、ゆったりとした手つきで、まず空の升を置き、そこに瓶に入った日本酒を、両手を使って注ぎ入れた。
「おっとっとっと…うん、ありがとう」
「ごゆっくりね、オーナー?」
ママは瓶の口を綺麗にし、蓋を閉めながら言った。そして瓶を抱えつつ、また部屋の外に出て行ったのだった。
「さてと…」
と、老人はスッとその場を立ち上がると、升を胸元の高さで持ちながら、陽気な声を上げた。
「皆々方、遅れてすまんかったね!当然もう乾杯は済ませてるんだろうが、悪いけどもう一度付き合ってくれるかい?…あー、いやいや、飲みかけでも構わないよ。格好がつけば、それで良いんだから」
と、黙って立ち上がったマスターを見るなり、何も言わなくても何かを感じ取ったらしい、升を持たない左手で座る様にジェスチャーしつつ言った。マスターは気持ち恐縮しつつ座るのだった。
老人は調子を変えないまま、私の方をチラッと見て、おもむろに、言ってはなんだが下手くそなウィンクをして、後はそのまま音頭を取った。
「では…かんぱーい!」
「かんぱーい」
本日2度目の乾杯を済ませると、早速老人が私に話しかけてきた。
「おぉっと、君が”例の”新入り君だね?…ふーん」
と、老人は目を細めつつ、私の事をくまなくジロジロ見つめてきた。
「…あ、あのぉ」
と私が言いかけたその時、
「…おいおい、良い加減にしないか敏文」
と、これまた神谷さんが、先ほどと変わらないジト目を向けつつ、老人を制した。
「あまり年端も行かない女の子を、いい歳こいた年寄りがジロジロ見るもんじゃないよ」
「あははは!分かってるよ、ツネさん」
老人は神谷さんの言葉を一顧だにしない感じで、軽く受け流しつつ、また私に話しかけてきた。
「中々、話で聞いていたよりも、ずっと可愛いお嬢さんだったものだから、ついつい凝視をしてしまったんだよ…ゴメンね?」
「あ、いえ…」
義一と同じで、容姿を褒められる事に抵抗があった私だったが、それよりも突然現れた、強烈な個性を持った老人が目の前に現れた事によって、すっかり動揺していたのだろう、この時ばかりは抵抗を感じる事なく、ただ単純に目の前の老人に、徐々にだが、興味が湧いてきていた。
「…あ、そうだ」
私はまだ自己紹介をしてない事に気づき、この部屋に来て初めてした様な自己紹介をした。老人はウンウンと頷きながら聞いていた。
自己紹介が終わると、老人はなぜかニヤニヤしながら、一度手で拳骨を作り、口の前に持っていってゴホンと咳払いをすると、話し始めた。
「私の名前は西川敏文と言います。さっきママが僕に言ってたけど…そう、この店のオーナーなんだ。まぁ、こんな年寄りだけど、年の差なんか気にせずに、ゆったりと一緒に過ごしておくれね?」
西川さんはそう言い終えると、何故か照れ臭そうにしつつ、髪を流れのままに撫で付けた。どうやらこれが、彼の癖の様だった。
「は、はい…よろしくお願いします」
私はなるべく微笑みを意識してしながら挨拶を返した。
「西川さんはねぇ?」
と、不意に義一が私に話しかけてきた。そして本人の方を向きつつ続けた。
「もう分かり切ってるだろうけど、この人がこの店を作った、さっきのママの話に出てきた本人なんだ。そして…」
義一はまたおもむろに、雑誌の一つを手に取り、表紙を私に見せてきつつ言った。
「さっきも話が出てたけど、この雑誌を出すにあたって、一番出資してくれたのも西川さんなんだよー」
「へぇー」
私はそう返しつつ、義一から雑誌を受け取り、一番後ろに書いてある発行元のあたりを注意深く見た。”西川敏文”の名前は書いてなかったが、代わりに、私でも知っているホテルチェーンの名前が書かれていた。マスターやママの勤めていたホテルとは、そのー…言ってはなんだが、格がいくつか下の、言い方が難しいが良く言えば”庶民派”で、気軽に利用出来ると、それなりに世間に認知されていたものだった。
「ここには、出版社とこのホテル名しか出てないけど?」
私は指でそこを指しながら、義一の顔を見つめた。
すると、何も声を発していなかったが、義一の顔越しに見えている西川さんが、愉快といった調子で、ニヤけているのか、微笑んでいるのか表現しにくい表情をこちらに送っていた。
義一に視線を戻すと、これまた同じ様な表情を見せていた。
「あはは。…そう、そこに書いてあるホテルこそが、西川さんに”大変”所縁があるんだよ」
「…?どういう事?」
「それはねぇ」
義一はふと、西川さんの方を見つつ先を続けた。
「そのホテルというのが元々、ここにいる西川さんが、一から創業したからだよ」
「へぇー!」
私の一本槍、へぇーと声を上げたが、自分でも分かる程に目が開かれていた。
先程のママの話を聞いて、ポケットマネーで建物を買い、人を雇ってお店を開き、利益などは度外視に、キチンと給料も前の職場と遜色無く払う…そんな真似が出来るのは、並大抵のお金持ちでは無いだろうくらいには、当時の中一の私でも想像出来たが、まさか誰もが知るホテルの創業者だとは夢にも思わなかったからだ。
私も義一と同じ様に、西川さんの方を向いた。西川さんは私達に手をヒラヒラ振って見せていたが、やはり何処か照れ臭そうにしていた。
「あははは!そんな大した事ないよ!今はもう引退して、息子に継がせちゃったから、厳密には私ともう関係無いしね」
西川さんは、その表情のまま大きな声で応えた。
「ホテルを創業したからって、別に私が偉くて出来たんじゃなくて、たまたま当時は、庶民向けのホテルが少なかったから、ここまで大きくなっただけだよ」
「またまた謙遜をー」
と聡が応対していた。
私は心の中で密かに感心していた。素直な感想を言えば、西川さんに対する第一印象は、決して良いとは言えないものだった。決して悪くもなかったが…ズバッと行ってしまえば、何だか胡散臭い雰囲気を身に纏っていたからだ。見た目にケチつけて何だが、年寄りでオールバックにしている男性を見慣れていないせいか、それが余計に拍車をかけていたのかも知れない。しかし、今聞いての通り、世間一般的には誰もが羨む”成功者”であるはずの西川さんが、自分の事を、背後に自尊心が見え隠れする様な見え透いた自虐をするのでもなく、ただ自然と謙遜して見せた事で、私の中での第一印象が消えてなくなり、我ながら単純だと思うが、好印象に変わっていた。
「この店だって…」
西川さんは、ソファーの背もたれに手をかけて、天井を軽く見上げつつ
「私のただの懐古趣味で、昔ながらのバーを開きたかっただけなんだから」
と話すその口調は、どこか寂しさを聞いてる方に感じさせるものだった。
それを聞いてて、私は思わず自分から話しかけてしまった。
「…あ、あのー」
「ん?何だい?えぇっと…そうそう、琴音ちゃん?」
西川さんは、さっきまでの寂しげな雰囲気は何処へやら、陽気な調子で返してきた。私は構わず続けた。
「えぇっとぉ…さっきママさんから話を聞いたんですけど…この店を開く上で、そのー…昔に実際にあったバーを手本にしてるって…それって、どんなのだったんですか?」
私はママの話を思い出しつつ、辿々しく言葉を紡いだが、最終的に自分が本当に聞きたかった事から逸れてしまった。だが、今言った事も当然興味があったので、そのままにしておいて、西川さんの返答を待った。
「んー?…そうだなぁー」
西川さんは、また軽く上を見上げつつ、記憶を辿る様にゆっくりと話した。
「…まぁ、そのバー自体は特別なものでは無かったよ。銀座にあったんだが、当時の基準からしても寂れていてねぇー。…よっぽど、ここの方が綺麗だよ」
そう言いつつ、また室内をぐるっと見渡し、最後に私に顔を合わせた。そしてニコッとしたかと思うと、
「…ねっ?ツーネさん?」
と、マサさんと会話していた神谷さんの肩に手を置くと、少しチャラケ気味に話しかけた。
一瞬ビクッとしていた神谷さんだったが、すぐに不機嫌そうな表情を浮かべつつ、言葉を返した。
「なんだい急に?…あぁ、会話は聞こえていたから分かるよ。…そうだなぁ」
と今度は神谷さんまでもが、遠くに視線を流す様に目を軽く細めつつ、しみじみと言った。
「そうそう、まぁ店自体は、お世辞にも良いとは言えないシロモノだったけど…あの頃は私も君も若造だったが、ツテであのバーに行かせて貰って、中に入った時の高揚感は忘れられないねぇ」
「へぇー…それは具体的にどんな感じだったんですか?」
私は神谷さんに対し、視線を真っ直ぐ挑発気味に飛ばし、少し食い気味にもっと話を聞き出そうとした。
またいらないことを言えば、皆さんもご承知の通り、心を許した相手に対して図々しくなるという悪癖が私にはあるので、すっかり壁を感じなくなった神谷に対しては、グイグイと押し出しを強く出れる様になっていた。まぁ…相手はたまったもんじゃないかも知れないけど。
そんな生意気な私の態度に、一々反応する事もなく、これは主観的判断だが、神谷さんは私のそんな調子を愉快だと思ってくれてる様だった。
「…ふふ、そんなに慌てないで」
神谷さんは、手でなだめる様なジェスチャーをして見せてから話した。「そうだなぁ…まぁ具体的にと言われると、返答に困ってしまうけど…うん、端的に言ってしまえば、そこに集う人間達が醸す雰囲気がバーの中をぐるぐる回って、それがなんとも言いようの無い空気を形成していたんだ。…分かるかい?」
そう聞く神谷の表情は、どこか少年チックな面影をチラつかせていた。私も思わずクスッと笑うと、「はい、何と無くですけど分かる気がします」とだけ答えた。神谷さんもニコッと何も言わず笑い返すのみだった。
「…とまぁ」
と、良い頃合いだと判断したのか、西川さんが不意に話を切り出した。
「もしかしたら、もう既にここにいる彼らに話を聞いたかも知れないけど、正確に言えば、この建物の外観を見た時に、自分の若かりし時…そう、青春時代を思い出してねぇ…でまた、こんな住宅街の隅っこで忘れ去られた様にポツンっと建っている姿を見たら、居た堪れなくなってね、ついつい買ってしまったのだが、買った当初は使い道など微塵も考えてなかったんだよ。でもね、少ししてからふと、久しぶりに昔を思い出したせいか、さっき言った例のバーの事を思い出してねぇ…それで『そうだ!普段は通らない道を通って、たまたまここを見つけたのも何かの縁だろう。この際だから、あのバーを再現出来ないかな?』って思いついて、今に至るわけさ」
「へぇー…そうだったんですね」
私はママの話に、細かいところまで説明を加えて貰えて満足したが、折角なので、
「ところで、そのー…」
もう少し話を聞き出してみる事にしたが、ふと、西川さんの事を何て呼べば良いのか、この時になって迷ってしまった。
それを察してくれたか、「私の呼び方は、何でもいいよ?」と言ってくれたので、私は今まで話してきたように”西川さん”で統一する事にした。
「あ、はい…では、西川さん…そのー、そのバー自体は今もあるんですか?」
と私が聞くと、今まで和かだった西川さんの顔に薄っすらと影は差したように見えた。これは店内の薄暗い照明のせいではなかっただろう。その隣に座っていた神谷さんの顔も、同じように見えた。
「…んーん、無いよ」
西川さんは目を閉じながら、ゆっくりと顔を左右に振りつつ、力無げに言った。
「あれはどれくらい前だろうねぇ」
と今度は、神谷さんが顎をさすりつつボソッと言った。
するとその時、今まで会話に入ってきてなかったマサさんが、「三十年以上前だよ」と小さな声で言った。
「…三十年以上も」
私も意識して合わせた訳では無かったが、マサさんの声のトーンに合わせるようにして、独り言ちた。
するとそれに気付いたマサさんは、厳つい顔を若干緩めつつ私に話しかけた。
「そうだよ、お嬢ちゃん。…今この先生方が思い出をポロッと話してたが、序でに俺の事も言わせて貰えりゃ、俺はその時まだ駆け出しのペーペーでな?先輩達に連れられて何度か行かせて貰ったんだよ。ただ…俺の世代までがギリギリ間に合ったんだが、俺より下が来る頃には、そんな”粋人”が集まるようなバーは、目立つ所にはもう消えて無くなってしまっていたんだ」
「そうなんだ…」
その語り口が余りに哀愁漂う調子だったので、聞いてる私まで寂しい気持ちになり、ついつい目上への気遣いとしての丁寧語を忘れてしまっていた。私自身この時気付いてなかったが、マサさんもそれを聞いても表情を変えなかったので、キャラクターとは裏腹に、細かい事に一々指摘してくるタイプでは無いようだった。
「あぁ、そうなんだよ。…しっかしなぁー」
マサさんは今度は、頭の後ろに腕を回しつつ、軽く見上げつつ愚痴るように言った。
「俺だってそこまで知ってた訳じゃ無いけど、すっかり銀座も”子供”の街になっちまったなぁ」
「またいつもの始まった、マサさんの愚痴が」
とすかさず神谷さんが、苦笑い気味に言った。
「そのバーはね、銀座にあったんだよ」
と、隣の義一が私の耳元に近付き、小声で教えてくれた。
「先生方だって分かるでしょうよ?俺よりもっと早い時期から過ごしていたんだから」
マサさんは、ハタから見てて一人熱が入っていた。
「昔は今で言う所じゃなく、昔ながらの大人、ある種の格を持ち合わせてなければ、夜の銀座は歩けなかったのに、今や昼夜問わず、どんな人種だか分からねぇような連中が大きな顔して歩いてるんだからなぁ」
「あははは!まぁ、マサさんの言いたい事は分かるよ」
とここで、西川さんが乗り気になり出したのを瞬時に察した神谷さんは、「私を間に挟んで盛り上がらんでくれ」と苦笑気味に抗議し、西川さんと座る位置を入れ替えた。席一つ分、私に近づいた形だ。
それからマサさんと西川さんは、今の銀座への思いをツラツラ話していたが、そこから拡大して、昔話に花咲かせている様だった。
「やれやれ…」
と、そんな様子を横目に、わざと大きくため息ついて見せた。
「年寄りは、すぐに空気を読まずに昔話をしてイケナイねぇー…」
と言うと、今度は私の方を見て、苦笑交じりに話しかけてきた。
「いやぁ、ゴメンね琴音ちゃん。今みたいな話、退屈だったろ?」
「いえいえ、そんな…面白かったですよ?」
と笑顔で返すと、
「そうかい?…琴音ちゃんは良い子だねぇ」
と、あたかも自分の孫を見るかの様な慈悲に満ちた視線を向けつつ言った。私も取り敢えず微笑み返したが、これは何も気を遣った訳では無かった。単純に、お年寄り…いや、”老人”の話す昔話が好きだったのだ。
ここで私が、何故”年寄り”と”老人”と分けたか、少し説明がいるだろう。すぐ終わるから心配ない。と言っても、あくまで自分の感覚的な問題なのだが、”老い”という字に対して、世間とは真逆の印象をこの歳にして抱いていた。世間的には”老いる”事は何においても”悪”だとされている様だが、私自身としては寧ろ”善いこと”だと思っていた。何故なら…いや、変に勿体ぶらなくとも、私と義一の会話、そして今日の、美保子と私の会話を聞いた人なら、勘付くのもいるだろう。それを敢えて、今までとは違う視点で説明すると、一つ”老”を含む漢字で”老師”というものがある。これは日本語でも中国語でも、年老いた先生くらいの意味で使われているのだが、もう一つの意味がある。それは『学徳のある僧を敬っていう語』というものだ。これは…これまた義一との会話の中で、雑学としてふと教えてくれた事だったが、今現代における最高の小説家と称される人が言ってた事らしいが、こう言ったというのだ。『今の人々は、何故か老いる事に対して、非常に過敏に反応し、どうにか抗おうと無駄な努力をしている様だが、いつから老いが忌避される様になったのだろう?老いるというのは素晴らしい事じゃありませんか?私なんか80超えてますけど、老人と称されると、そこまで成熟していないあまりに、気恥ずかしくなってしまうんですよ』と。
義一はこの流れの中で、老師の例えを出しつつ話をしてくれたのだが、何が言いたいのかっていうと、歳を重ねるのにも貴賎上下があって、ただ毎年何も考えずに、”ただ”生きてきた人を”年寄り”と称して、先にも言った様に、毎年毎年研鑽を積んで自分を磨き続けた、まるで学徳のある僧侶の様な人を”老人”と称したいという事だ。
…前にも言ったが、すっかり義一の癖…いや、義一は義一で、神谷さんの影響を受けていたのが今日になって初めて分かったが、どうも話があっち行ったりこっち行ったりしてしまう。しかし、今言った私の定義に異論反論がある人もいるだろうが、取り敢えず私の言いたかった事は、分かってくれただろうと、これまた自分勝手な判断をして、この話を切らせて頂く。
「…あっ」
ふと目に雑誌の表紙が目に入ったとき、今更ながらハタと気付いた。と言うよりも、質問するにを忘れていたことに気付いたのだった。
「あのー」
「ん?」
神谷さんは、チビっと日本酒を飲みつつ言った。
「何かな?」
「はい、これなんですけど…」
私はメモを膝の上に置き、『orthodox』の一つを手に取ると、表紙を見せつつ聞いた。
「今更ながら聞くのは、恥ずかしいんですけど…この雑誌の名前になってる”orthodox”ってどんな意味なんですか?」
「んー?」
神谷さんは、今まさに飲もうとしていた日本酒の入った升をテーブルに置くと、マジマジと私の手にある雑誌の表紙を見た。
自分が出している雑誌だというのに、まるで初めて見るかのように興味深そうに見ていたが、ふと体勢を元に戻すと、笑顔で話しかけてきた。
「あははは!何も恥ずかしがることないよ。『聞くはいっ時の恥、聞かぬは一生の恥』ってね?…そうだなぁ」
神谷さんは、一度テーブルに置いた升酒を手に取ると、一口飲み、そしてまたテーブルに戻してから、話し始めた。
「ふぅ…さてと。…あぁ、オーソドックスの意味だったね?で、琴音ちゃんが本当に聞きたいのは、何故そういう名前を付けたのかって事だよね?」
「はい、その通りです」
私は雑誌をテーブルに戻しつつ素直に答えた。何せ、この店の名付け親である神谷さんが、どうしてその名を付けたのか、とても興味があったからだ。
「まぁ…これまた単純なんだけど…」
神谷さんは話しながら、先程の電子辞書を取り出すと、そこで何かを打ち込んでいた。
そして私にまた手渡してきながら言った。
「オーソドックスにはね…そこに出てるように、第一義に『正統』って意味があるんだ」
「正統…?」
私はそれを見つつ、ボソッと呟いた。正直ピンと来なかった。いきなり”正統”と言われても、どういう意味なのか、そもそもの所、よく分からなかったからだ。
私が電子辞書を返す時、そんな顔をしていたのだろう、神谷さんは和かに受け取りしまうと、笑顔でまた話しかけてきた。
「うーん、いきなり”正統”と言われても、スッと理解が出来ないのも無理はないね。そう、これにも少しばかり説明がいるんだ…」
と神谷さんが話している間、私は紙に”正統”とだけ書いて、それを強調するように、丸で囲っていた。
「逆にね、正統という言葉を英語に翻訳してみると、もう一つ、”legitimacy”って単語が出てくる」
「れ、れじてぃましぃ?」
また新たな聞き覚えの無い英単語が出て来たので、顔を上げて神谷さんの顔を直視した。神谷さんは、そんな私の反応に対して、少し照れ気味に、話を続けた。
「そう。…あぁ、いやいや、これは話を便宜的に進める上で出しただけだから、今は深く掘り下げないよ?…ふふ、もしどうしても気になるなら、後で隣の義一君に聞いてみてね?」
「…はーい」
私はそう答えた後、隣の義一を盗み見ると、義一は私に顔を向けつつ、微笑ましげに見てきていたのだった。
「…さて」
神谷さんは続けた。
「話を戻すと、今言った”legitimacy”…今説明したように、オーソドックスと同じ意味を含んでいるわけだが、もう一つ意味が込められている。それは…”嫡出”って意味なんだ。…あっ、君は嫡出って分かる?」
「あ、はい。しっかりと手続きを踏んだ婚姻をした夫婦間の出生って意味ですよね?」
私は今のセリフを、少し吃りつつ答えた。何故なら、嫡出の意味自体は知っていても、何故急にそんな話を降ってきたのか、これまた理解が追いつかなかったからだ。
それを知ってか知らずか、神谷さんは愉快そうに話を続けた。
「そう、よく知ってるねー。流石は義一君の姪っ子だ!…え?関係無いって?あははは!…さて、そう、今君が説明してくれたように、嫡出にはそんな意味がある。…で、ここで一つ分かったことは、”正統”と”嫡出”には、多大な共通点があるって事。…それは同意してくれるかな?」
「はい、分かります」
私は”正統”の隣に、新たに”嫡出”を書き加えた。
「うん、良かった。では改めて纏めてみると、正統というのは、『過去から変わらぬ慣習に則り、伝統的な教義、学説、方法論を受け継ぐさま』と見たんだが、これについてはどうだろう?」
「…はい、まさしく、その通りだと思います」
私はそう答えつつ、神谷さんが今言った言葉を、私なりに纏めつつメモをした。
ここで一つ、言い訳では無いが、もしかしたら勘違いされてる人も居るかもしれないので、弁明させて頂く。それは、神谷さんが言う度に、それを”何も考えず咀嚼しないまま”メモをして、言われた事そのままに受け入れて居るだけではないか?ということだ。それは違う。これを言うのは初めてかもしれないが、私は誰かに心から心酔したという経験が無い。側から見ていれば、義一に対して、ついでに言えば師匠に対してそうじゃないかと見えるかもしれない。だが、例えで出したこの二人が、仮に何か引っ掛かる、何か矛盾に感じさせる言葉を言ったらば、これまでも容赦無く私はツッコミを入れてきた。何が言いたいのかというと、単純に、今の場合で言えば、神谷さんの話す内容が、私一人の感想としては、非の打ち所が無かっただけの事だ。
これは私の想像だが、今の話、今までの話、いやそれに止まらないだろうが、この神谷さんという老人は、色んなテーマについて何度も自分の中で問答を繰り返し、その内容について何度も他人と議論を深めて言った上で、自分の納得できる結論を導き出してきたのだろう。言うなればその一つ一つに”時間の重み”が感じられた。時間の重みとは”言葉の重み”という事だ。ただ、時間をかければ良いという訳でもない…ここまで聞いてくれた人なら分かってくれるはずだ。
また話が逸れた。
それはさておき、神谷さんは笑顔を絶やさぬまま
「で、肝心のオーソドックスの意味…そして、それを何故この雑誌の名前にしたのか、もう分かってくれたね?」
と聞いてきた。今また改めて、同意するかどうかを聞かれても、そんなの返答は一つしか無かった。
「…はい、今だけではなく、これまでの話を伺ってきたので、尚更ストンと腑に落ちました。何故この様な名前が付けられてるのかの」
と笑顔で答えた。
すると神谷さんは、私から見ると大袈裟に見えるほどに喜びを露わにしつつ
「そうかい?気に入ってもらえたようで嬉しいよ」
と言うのだった。
それからはしばらく談笑していたが、ふと今まで静かだった聡が席を立ち、今では美保子と百合子も混ざっての昭和の時代を回顧してお喋りしている、西川さん達の方へ席を移ったので、その分をまた神谷さんが詰め寄る形になった。勲さんも静かに私たち二人の話を聞いていたが、聡の様に席を替える気は無いようだった。
「…あっ、そうだ」
神谷さんは雑談の途中ハッとして見せてから、おもむろに先程メモに使ったナフキンを手に取り、それを見つつ言った。
「ついでと言ってはなんだが、大分前まで話が戻るが、まだ”矛盾”についての話が終わってなかったね。これは”ニヒリズム”の話よりかは、すぐに済むから、今この話をしても良いかな?」
何がついでだか分からなかったが、その提案は願ったり叶ったりだったので、私も改めてメモに目を落としてから、
「はい、お願いします」
と明るい表情で返した。
「まぁ、一々仰々しく言う事はないんだが…」
神谷さんは自分で言った事に恥かしがりつつ、話を始めた。
「もう散々話した後だから、今は何故矛盾に感じられる話を振ったのかを説明しようと思う。それはね…”普通”の人はそう前置きをされて話を聞くと、途端にその人の話す内容を真面目に取り合おうとせず、その後慌てて種明かしをしても、全く聞く耳を持とうとしてくれないんだ。まして、我々みたいな見るからに少数派の話なんかだとね」
神谷さんはおどけて見せたが、私の心中は冷めきっていた。それは勿論、神谷さんに対してではない。
「…」
「まぁある意味、琴音ちゃん、君が果たして”どちら側”の人間なのか、試してしまったのだけれど…許してくれるかい?」
と言いつつ、神谷さんが軽く頭を下げたので、
「い、いえいえ!そんな許すかどうかなんて…」
と、私は慌てて対応した。
顔を戻した神谷さんは、優しくこちらに微笑みかけてきつつ、話を続けた。
「…ふふ、これを聞いても嫌な顔一つしない君は、やはり義一君や聡君が話していた通り、”いい意味で”普通の人とは違うんだねぇ」
神谷さんがそう言うので、私は向かいでお喋りしている聡をチラッと見てから、隣の義一に顔を向けた。義一は相変わらず、余計なことを言わないままに、静かに微笑みをくれるだけだった。
「まぁ勿論、相手がどんな人間かを試すような真似をする、私に非があるのは間違い無いんだがね?…だけど」
神谷さんはここまで明るい調子で話していたが、ふと寂しい表情をしつつ先を続けた。
「今私が言った”普通”の人々…その大概が物事の一側面しか見ようとしない、”近視眼”的な視点しか持ち合わせてないような人々…」
「近視眼的…?…あっ!近くの物しか見ようとしない人って意味ですね?”群盲象を評す”の様な…」
と、私はまた空気を読めずに、自分勝手に割り込んでしまったが、神谷さんは、そんな若輩の私に静かに微笑みかけてくれた。
「そう、その通り。いやぁ、よくそんなインド発祥の寓話なんか知ってるねぇ?…でも、そんな君ならもう、その年齢にして気付いているよね?物事にはありとあらゆる側面があるって事を」
神谷さんが、一見今までの会話と関わりの無さそうなことを言ったので、一瞬考え込んでしまったが、すぐにハッとして、また答えを求められた気もしたので、応じた。
「…はい。そのー…近視眼的な視点しか持たない人というのは、一側面を見るだけに留まらず、その一面を拡大解釈して、その物の本質だとまで思い込んじゃう…って事でしょうか?」
この時は、私は気付いてなく、後で義一と聡に聞いたのだったが、この辺りから向かいでお喋りしていた他の面々が、ピタッと会話をやめ、私と神谷さんの議論を見守りつつ、耳を傾けていたのだった。
神谷さんは、また日本酒をチビっと遣ってから、私の返答に応えた。
「ふふ、そう、その通りだよ。でも彼らだって、我々と同じ様に、『世の中というのは、とても複雑で、難解で、人生というのは難しい』と、平気で口にする割りには、こちらが物事に対して『コレコレこう思うけど、あなたはどう思う?』と意見を求めると、途端に面倒くさそうな表情を浮かべて、議論から逃げてしまうんだ。口では人生は難しいと言ってたのにね」
私は今の話を聞いて、自然とこれまでの義一との会話を思い出し、妙な寂寥たる感情に包まれて、「…はい」と短く答えるのがやっとだった。
「世の中だけではなく」
神谷さんは、私の短い相槌をそのままに、先を続けた。
「人というのは、そもそも、矛盾を孕んでいる不思議な生き物…こんな事、偉そうに言わなくても、誰もが知るところだよね?」
神谷さんは力ない笑顔だった。
「清濁併せ持つ生き物と言ってもいいのかも知れない。…でも自然の掟に照らし合わせてみれば、普通矛盾を抱えた生き物は、淘汰されていくのが摂理だよね?」
私は短く頷いた。
「でも、こうして我々は生存している」
神谷さんは、胸を撫で下ろしつつ言った。
「ということは、そうした矛盾を抱えつつも、どこか”芯”の様なものがどこかにあって、それがあっちこっち明後日の方向に向いているものを束ねているから、こうして存在することが出来るんじゃないかね?…ちょっと分かりづらいかな?」
と、力無げな笑顔そのままに聞いてきた。
私はゆっくり首を横に振りつつ
「…いえ、分かるし、その通りだと思います」
と、合わせた訳ではないが、自然と力無げな笑みで答えた。
しばらくお互いにそのままだったが、不意に神谷さんが照れ臭そうに頭を撫でつつ、話しかけてきた。
「いやぁ…本当に我ながら多弁症で困るよ。君みたいに、真剣な眼差しを向けてきつつ、ちゃんと一語一句漏らさずに聞いてくれる人は希なものだから、ついつい話してしまうんだ」
そう言われた時、前に義一と絵里にも同じ様な事を言われたのを思い出していた。
「だからまぁ無理やり纏めるとだね、世の中、社会の中の矛盾…それらの大きな要因である、これまた大きな矛盾を抱えている”人間”、その矛盾の事を”業”と呼んだ今も存命で尊敬する人がいて、私も同意なんだけれど、その業と上手く付き合っていかなければならない。…それは、目を背けて逃げる事ではなく、苦痛ながらもそれらを見つめて、四苦八苦しながらどうにか纏めて生きて行こうという姿勢。…たとえ徒労に終わろうともね。その苦行…無駄に高尚ぶって言えば『山岳を行く修行僧の様な歩みに、どうかご一緒して頂けませんか?どうか付き合ってくれませんか?』と世間に訴えかけているのが…」
神谷さんはここまで言うと、おもむろに雑誌を取り上げ、私に笑顔で表紙を見せてきながら、
「この雑誌、”orthodox”と言うわけさ!」
と力強く言った。私はすぐに反応出来なかったが、ふと、勇しく言い切った割りには、神谷さんは途端に苦笑交じりに言うのだった。
「…いや、全然纏められてないばかりか、ただの雑誌の宣伝になってしまったな」
「…ふふ」
その様子があまりにも、言い方悪いが、時代劇などで見る、お調子者のうっかり者にそっくりだったので、思わず吹き出してしまった。
それに合わせる様に、神谷さん、義一、ずっと黙って会話を聞いていた勲さんまでもがクスクスと笑うのだった。
ふと、他からも笑い声が聞こえてきたので、音のする方を見ると、なんと向かいに座っていたそれ以外の一同も、同様に笑みを零していたのだった。私はここで、初めて皆んなが私達の会話を聞いていた事に気付いたのだった。
「いやぁー、興味深い」
笑った後、第一声を上げたのは西川さんだった。
「興味深いって…」
早速神谷さんが、苦笑交じりに突っ込んだ。
「何度も話した様な内容だろう?何を今更、今日初めて聞いたように…」
「え?…あははは!それはそうだけどさ、ツネさん、私が言ったのは…」
「…え?」
不意に西川さんが、前触れも無く私に満面の笑みを向けてきたので、思わず声を上げてしまったが、それをまともに取り合わず話を続けた。
「彼女の事だよツネさん、琴音ちゃんの事。いやぁ、ここに集まる口煩いメンツの中に混じっても、恐縮する事なく、その親玉であるツネさんの話す内容に、しっかりと分かったフリをするのでもなく、しっかりと付いて行くんだからねぇー、いやー大したもんだ」
西川さんはそう言うと、腕を組み、ウンウンと頷いていた。
「…へ?あ、いや」
私は不意打ちに褒められたので、何か言おうと思ったが、何も言葉が浮かばず狼狽える他に無かった。
そんな私を尻目に、今度は待ちきれないと言わんばかりに、何故か少し興奮気味に美保子が西川さんに話しかけた。
「今だけじゃないんですよぉ?西川さんが来るまで、ずぅーーっと私や百合子さんとかと、所謂”芸談”に花咲かせていたんですけど、彼女は、それはもーう、この若さにして、しっかりとした芸に関する認識を持っているんですよ。西川さんにも聞いてもらいたかったなぁ」
「…そうね」
と、話を振られてないのに、百合子も私を静かに見つめてきつつ、ボソッと加勢した。
私一人が唖然としている中、西川さんのテンションは上がって行く一方だった。
「そうなのかぁー。…いやぁ、編集者が今日いたら、そのまま字に起こして貰うのになぁ」
西川さんは、心から残念だと言うのを精一杯表そうとでもする様に、大袈裟に肩を落として見せつつボヤいた。
「…編集?」
と、誰も聞こえないだろう音量でボソッと言うと、義一が私に、これまたボソッと話しかけてきた。
「あれ?言ってなかったかな?雑誌の中のコーナーで、この店での会話が載ってるって」
「あ、あぁ、それが今西川さんが言った事なのね?」
私が義一から話を聞いている間も、私本人の事をそちのけに、他の面々は私の事だとか、雑誌がどうのと盛り上がっていた。ふと目にチラッと時計の文字盤が入ってきた、九時四十五分を指していた。
そんな私の視線に気付いたのだろう、義一も私の左手首をチラッと見ると、ハッとした表情になり、その場ですくっと立ち上がると、少し声の音量を大きく言うのだった。
「盛り上がっている所すみませんが、僕と琴音ちゃんは、今日の所はこの辺で失礼します」
「えぇー」と各々が各々のやり方で不満げな声を上げたが、義一が、私がまだ中学入りたての未成年だから早めに帰さなくてはいけない、むしろ長居し過ぎたとの旨を言うと、一同が初対面の時の様な、意外と言いたげな調子で、私の事をジロジロ見てきた。私もまた、最初の頃の様に、若干恐縮したが、初めほどの苦痛は全く無かった。
義一が「帰る」と立ち上がって言った時、ずっと黙って静かに呑んでいたマスターは、すくっと立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。私が彼の背中を視線で追ってると、ママが笑顔で「今主人が、あなた達二人が帰るために、タクシーを呼んでいるところだから」と教えてくれた。
…ところで、この話の序盤から、単純な疑問を持ち続けてこられた方もいるかも知れない。それは、ここがバーで、当然皆んなお酒を飲んでいるのに、どうやって帰るのかという事だ。…そう、察しの通り、聡が自分の車を停めた駐車場は、この店のものだった。当然、先に停まっていた車は、全て今ここにいる人達のだった。これも後で聞いた話だが、百合子の車と、マサさんの車、そしてマスターとママ夫婦の車との事だった。神谷さんはここまで実の娘さんに、勲さんも家族の誰かに送り迎えをして貰っているとの話だ。遅れて来た西川さんも似た様なものだという。美保子は、話を聞いての通り、普段はアメリカにいるので、日本に来た時は、いつも百合子の所に泊めて貰っているらしい。
とまぁそんな細かい話はこれくらいにして、いや、今言うのも細かい話だけど、一応言っておいた方が良いだろう。当然百合子とマサさんは、お酒が入っているので運転出来ないが、所謂こういう時の為の”運転代行サービス”というのを使って、代わりに誰かに車を運転して貰って帰っているらしい。まぁ、まだ運転免許どころか、そもそも免許を取れる年齢に達していない私とは、縁のない話である。
タクシーが来るまで待つ間、誰が言うとも無しに、自然と皆して部屋を出て、”喫茶店”スペースで各々好きに座った。誰も何も言わなかったが、見送ってくれるとの事だった。その間面々は、まず義一にアレコレ挨拶した後、私にも挨拶をしにきてくれた。
まずマサさんが、ぶっきらぼうながら、「また来いよ」的な事を言ってくれたので、私も笑顔で返事した。社交辞令で無いことを、感じ取れたからだった。次に勲さんだ。例の”矛盾”の話に関して、”何故か”「悪いことをしたね」と謝ってきたので、私は慌てて気にしてない旨を伝えた。すると勲さんは、相変わらず目をギョロつかせていたが、優しいトーンで「また来てね」と言ってくれた。これにも私は笑顔で返事した。次は美保子と百合子だ。美保子がまず話しかけてきた。内容は今日の”芸談”に軽く触れ、そして、『今度私が帰国した時、良かったら一緒に演奏しましょう?』と言ってくれたので、私は心の底から楽しみだというのを示さんがために、とびきりの笑顔で返した。
次に百合子だ。百合子はすっかり初対面の時の、薄幸美人な雰囲気に身を包んでいたが、目元は軽く緩んでいた。
「今日はすっかり美保子さんに話を取られちゃったけど…」
と、すぐ隣にいる美保子を横目で見つつ言った。その瞬間、美保子が意地悪い笑顔で、肘で百合子の横腹を小突いた。百合子はチラッと抗議する様な表情を見せていたが、やはり口元はニヤケていた。
「次会う時は、私ともたくさんお喋りしましょう?…あなた、さっき聡君に聞いたら、小説だけじゃなく戯曲も読んでいるんだってね?例えばチェーホフだとか、イプセンだとか」
「あ、はい。一応は…」
何だか百合子が芝居掛かって見えたので、その迫力に少し尻込みしつつ返した。すると、途端に百合子は目を大きく見開かせながら言った。
「じゃあ今度は、私とそんな話をしましょ?中々周りに話が通じる人がいなくて、どうしてもこのお店関連の人としか話せないもんだから…」
最後の方を話す百合子も芝居掛かっていたが、妙に色っぽい反面、可愛らしさも覗かせていたので、何故だかそのアンマッチさに面白くなり、笑顔で了承したのだった。それからは二人から連絡先を求められたので、私は快く応じたのだった。先回りして軽く触れれば、美保子は日本に帰ってきたら必ず、百合子も月一程度に会うような間柄になる事になる。
さて、そして最後に訪れてくれたのは、神谷さんと西川さんだ。 二人ともすっかり気の抜けた、好々爺の笑みを湛えていた。まず西川さんが私に握手を求めてきた。 言われるがままに手を握ると、西川さんは強く握ってきつつ、優しいトーンで話しかけてきた。
「またいつでも気軽においで。いや、君の家は遠いから気軽にと言っても簡単では無いだろうけど、もし近くに寄ったらいつでもおいで?昼だって喫茶店をしているのだから、構いはしないよ?」
そう言い終えると、西川さんは、カウンターの中で何か整理をしているマスターとママの方を見た。二人とも、また前掛けを身に付けていた。
と、私と視線が合うと、ママは満面の笑みで大きく頷いていた。マスターも、一瞬手を止め私を見ると、相変わらず無表情だったが、軽く口角を持ち上げていた。そしてまた黙々と作業に戻るのだった。
「琴音ちゃん?」
話しかけてきたのは、神谷さんだった。初めて私を見た時の笑顔のまま続けた。
「今日は我々の集まりに来てくれて有難う。いやぁ、みんな口々に君が、またこの店に来ることが決まりみたいに断言していたから、もしかしたら君の内心では困っていたかも知れないけど…でも」
と神谷さんは、ふと周りを見渡して、一同の顔を見てから続けた。
「ここにいる皆んなは、社交辞令で言ってるわけでは無いことは分かって欲しい。本心から、また君と会って、今日した様な”健全な”会話なり議論をしたいのだから」
「そうそう。それに…」
と、今度は西川さんが、さっきの神谷さんと同じ様に面々を見渡してから、悪戯っ子の様な笑顔で言った。
「ここに集まる面々は、そもそも社交辞令なんか出来ない連中なんだから」
「…違えねぇ」
とマサさんも意地悪く笑いながら続くと、それをキッカケに一斉にみんなが笑うのだった。私も自然と笑みがこぼれた。義一はその間、軽く優しく私の腰に手を添えていた。
お店の前に車が止まった気配がしたかと思うと、一人の男が店内に入って来た。見るからにタクシーの運転手だった。
それからは、また一人一人と握手を交わし、義一が外まで出なくて良いと伝えて、手を振る面々が閉まるドアで見えなくなるまで、私も手を振り返していた。
そして義一と二人タクシーに乗り込むと、義一が行き先を運転手に伝え、運転手は地理に疎いと見えて、備え付けのカーナビに目的地を入れると、ゆっくりと車を発進させた。
ガイダンスに従いつつ、夜が更けてきた故に、来た時よりも一層寂れた世田谷の住宅地を、タクシーが走るのだった。
「どうだった?」
すっかり真っ暗な車内、すぐ近くの相手の顔も判別出来ないほどだったが、義一がこちらを向いている事くらいは分かった。
「何が?」
と私は返したが、当然何のことを聞かれているのか分かっていたので、すぐに答えたのだった。
「…ふふ、どうだったって聞かれてもなぁー…うん」
私は進行方向を向きつつ、大きく頷き、そして義一に向きながら言った。
「面白かったとしか、言いようがないよ」
「ふーん…面白かった…か。うん、それは良かった」
そう言う義一の姿は、影の塊としか認識出来なかったが、大きく頷いてるのは分かった。
普段から別にお気兼ねなくしているから、別に暗闇だからとする訳では無いけど、私は思いきし意地悪く笑いながら言った。
「話の内容もそうだけれど…何より、義一さんみたいな変わった人が、あんなに一つの場所に集まる場所があるのを知れたからねぇ」
「ふふ、あれだけじゃないよ?確かー…今あそこに集まって来る人は、総勢五十名くらいはいるはずだけどね」
「へぇー!五十人もいるの?そのー…変わっている人が」
相変わらず私がおどけて見せつつ言うと、義一は腕を組みつつ、
「…どっかの誰かさんを忘れてないですかね?」
と呆れ口調で言うので、
「ひっどーい!誰の事よー?」
と間延び気味に返した。ほんの数秒沈黙が流れたが、どちらからともなくクスクス笑い合うのだった。
それから私は、あれ程まで個性の強い異様な人達と一遍に会話したという事実、その感動が今になって沸々と蘇ってきて、その胸の内を義一に一方的に話したのだった。何せ、あの店の中での私は、初めてというのもあったが、次々に繰り出される議題について行くのがやっとで、”良い意味で”リラックスする事なく、緊張に包まれた濃密な時間を過ごしたからだった。義一は軽く相槌を打ってきながら、ウンウン頷いていた。暗くて見えなかったが、いつもの微笑みをくれていた事だろう。それくらいの事は見えずとも分かる。
そんな話をしている間、タクシーは聡が運転して来た道をそのままなぞる様に、世田谷の住宅街を抜け、いつの間にか都心の繁華街に差し掛かっていた。
私の感情の吐露もひと段落つき、暫しのブレイクタイム代わりに外の景色を眺めていたが、ふと、来た時とまた同じだったせいか、眺めているうちに、前々から聞きたかった事が蘇ってきた。
そして早速それをぶつけて見る事にした。
「…あっ、そういえば義一さん」
「ん?何だい?」
義一はドアの手すり部分に肘をついて、私と同じ様に流れて行く外の景色を眺めていたが、私が話しかけたので、こちらの方を向いた。お店の周りと違って、繁華街の中を通っているせいか、外から入り込んで来る、目映いばかりのネオンの明かりで車内は若干明るみを増し、義一の顔の表情が読み取れるほどになっていた。
「それはね…」
私は聞くのを躊躇った訳では無かったが、一応ワンクッションを置いてから、質問をしてみる事にした。
「…来る時も聞いたけど毎年の八月、義一さんが一週間とちょっと、留守というか何というか、私と会えない時期があるでしょ?それって…この集まり、いや、それだけじゃなく、あの雑誌が関係してるの?」
「…んー」
義一は困った様な、悪戯がバレて恥ずかしがっている子供の様な、何とも言えない表情をしていたが、困った分を薄めつつ答えた。
「…ま、そういう事になるね」
「…あの雑誌の表紙に義一さんの名前があったけど、そこに原稿を載せるんで、それで?」
「そう。もうすっかり、分かられちゃってるんだねぇ」
義一の顔には、もう困惑の影は消えていて、すっかり陽気な笑顔を見せていた。
「さっきの会話の中で、先生が説明して無かった気がしたから、今僕が説明するとね?オーソドックスは隔月刊誌なんだ。二ヶ月に一度のペースって事だね。週刊誌や月刊誌と違って、時間的に余裕があるから、普段からノンビリと原稿を書いてるんだけど、八月のだけは、先生からの要望で、僕に充てられる雑誌内のページ数が膨大になるもんで、必然的に原稿の量も増えて、少しの間を集中的に書き上げないと間に合わないから、自主的に缶詰になって外部との接触を避けた結果…」
義一は目を細める様に笑うと
「琴音ちゃんとも会えなくなってしまうって訳だったのさ」
と言った。
「なるほどねぇ…あっ、だから」
フッと昔の事を思い出したので、ついでに聞いてみた。
「いつだったか私が義一さんの家に行った時、英語で書かれた小難しそうな論文を読んでいたのね?」
「え?」
義一は何の事を聞かれているのか分かっていなかった様だが、不意に目を気持ち大きくして、大袈裟に驚いて見せつつ言った。
「…あー、あー、そうそう!たまにね、原稿を書くにあたって、先生からテーマを頂く事もあるんだけど、あの時も『これをまず読んでみてくれ。それで、書評をしてくれないか?』なんて無茶を言われたもんだから、仕方なくその論文を読み込んでいたって訳だよ」
そう言う義一の口調はため息混じりだったが、顔は満面の笑みだった。「書評までしているのね。…ねぇ、義一さんって何者なの?」
何度もあの”宝箱”の中でしている質問を、義一に上半身だけ近づけ、シートに両手をつき、ジト目を向けつつ、意地悪な口調で聞いた。
「えー…?うーん…確かに、僕は一体、何者なんだろう?」
と、義一はこれまたいつもの調子で、少し寂しげな表情を覗かせつつ、それを隠そうとしているみたいに、困り顔の混ざった笑顔で答えるのだった。まだこの時の私は、いま言った様な細かい義一の心理を、その表情から読み解くことは叶わなかった。ただ単純に、はぐらかされたとしか思わなかったのだった。
それはさておき、私はせっかくなので、もっと踏み込んだ事を聞いてみる事にした。
「ちょっと、踏み込んだ事聞いても良い?」
「…ふふ、何だい急に?そんな前置きされたら、ドキドキしちゃうね」
義一はちゃらけつつ言った。
それに合わせた訳では無いが、私も何でも無い風で聞いた。
「それはねー…あの店にいた人達、皆さんは神谷さんの事を”神谷さん”と呼んだり”神谷先生”と呼んだりしていたけど、義一さんは今喋った時もだけど、”先生”呼びで統一していたよね?それって…何でなのかな?おじさんが”先生”呼びなのは、元教師と教え子の関係だったんだから分かるんだけれど、義一さんは違うんでしょ?」
私はいつもの癖というか、義一にはどうしても甘えてしまって、畳み掛ける様に質問を並べてしまったが、その間も義一は笑みを消さなかった。
「…んー、琴音ちゃんは本当に良く周りの事を見ているねぇー。感心するよ」
とおどけて見せながら言うので、
「そんな見え透いたお世辞はいらないから、教えてよ」
と私は白けて見せつつ、言葉にも少しばかりの棘を含ませて返した。”いつもの”ってヤツだ。
義一はニヤケ面を向けてきながら答えた。
「そうそう、聡兄さんは先生が大学に籍を置いていた時の、実質最後の生徒だったんだ。一応は師弟関係と言えるね。…まぁ、こう言っちゃあ悪いけど、聡兄さんが先生から何か薫陶を得ているとは見えないんだけれどね?」
義一は子供っぽく笑った。
「で、僕だけど…うーん、確かに言われてみると、僕くらいしか”先生”呼びで統一してないかもねぇー。…うん、僕は先生の大学に通ってた訳じゃないし、仮に通っていたとしても、とっくに辞められていたから、聡兄さんにあの集まりに誘われてなかったら、今だに接点が無かったかも知れないよ。…うーん、答えになってるか分からないけど、僕自身は先生の事を勝手にこう思っているんだ」
そう言う義一は、不意に照れ臭そうに頭を掻きつつ言った。
「…僕の師匠だってね」
「…え?師匠?」
思わぬ言葉に、私は少しばかり面を食らってしまった。あのお店の中での、神谷さんに対する義一の接し方を見えば、尊敬の念を持っているだろう事は、容易に想像がついていたけれど、師匠だと心酔してるほどだとは思っても見なかったからだった。
義一は私の相槌にニコッと笑って返すと、進行方向を向きつつ話し始めた。
「…そう。いつだったか…君に話したかと思うけど、僕が高校生の頃、まだずっとその頃まで変わらずに、周りの大人達に対しての不信感から解放されずにいたんだ」
「…うん」
私は短く相槌を打ってる間、初めて宝箱を訪れた時の事を思い出していた。
「でまぁ、簡単に言うと、ある時、今の中学に新任したばかりの聡兄さんに突然誘われてね…ふふ、今回の君みたいにね?その時の僕も、なぜ素直に付いて行ったのか分からないんだけど、まぁ…大袈裟に言えば信用していたのかなぁ?それであのお店に連れて行かれて、先生と出会ったんだ」
義一は、ここでまた私に顔を向けて、穏やかな表情のまま続けた。
「これもまぁ…琴音ちゃんなら、容易に想像できると思うよ?何せ、今日の君がした様な事を僕もしたんだからね。つまり…初対面の、年の離れた人に対して、高校生の僕が質問攻めしたんだから」
「…なーんか、含みのある言い方ね?」
と、私はワザと膨れて見せながら返した。義一はケラケラと笑った。
「いやいや、何も裏なんか無いよ?ふふ…。でね、そしたら先生は、嫌な顔一つせずに真摯に答えてくれたんだ。それが僕には新鮮で、嬉しくなっちゃってねぇ、ついついそこから、今まで心の中に溜め込んできた自論を、ここぞとばかりに全力でぶつけてみたんだ」
「…なーんだ、それじゃ私と違うわね」
私は呆れ交じりの声質で言うと、そのすぐ後には意地悪く笑いつつ続けた。
「だって私は、ちゃーんと遠慮しながら会話していたもの」
「…アレで?」
と義一が呆れて見せたので
「何よー?」
と私が返した後、途端に二人でクスクスと笑い合うのだった。
「…でもね」
ひと段落ついた後、義一はまた穏やかな表情に戻り、先を続けた。
「そんないきなりの不躾な僕の、高校生という若輩の浅薄な自論にも、丁寧に的確に返してきてくれたんだ。その物の見方には、当時も驚いたよ。あまりにも多面的でね。それに多方面から一つの物を見てるんだけど、芯がちっともブレなかったんだ。これも前に言ったかもしれないけど、僕がそれまで見てきた大人達というのは、自分の発言に対して無責任で、前と言ってた事が丸っきり違っていても平気な顔をしている様なのばかりだった。でも先生は違った。…先生の知識の量、見解の広さにも目を見張ったけど、真っ先に惹かれたのは、その”ブレなさ”だったねぇ」
「へぇー」
私は今の話を聞いていて、それこそ真っ先に思ったのは、この話って義一のことではないのかという事だった。まさに、私が義一に関して抱いている、そのものだったからだ。
「…でも、その点では義一さんも同じだね?」
そう思っていたものだから、自然とこの様に口走ってしまった。
すると義一は一瞬目を大きくして驚いて見せたが、すぐに慌てつつ返した。
「え?…いやいやいやいや!僕なんかと先生を比べるのは、先生に失礼だよ。いや、そう言ってくれるのは有り難いけど…ね」
そう言った後、例の照れた時にする癖をしている義一を見ながら、言い方がおかしいかも知れないけど、尊敬している人に対して分を弁えているその姿が、とても微笑ましく、またその自然な謙虚さに感銘を受けるのだった。
義一はやっと落ち着くと、顔をまた前方に向けつつ話を続けた。
「僕はその初対面の日の後、聡兄さんに色々と先生の事を聞いたんだ。そしたら本を何冊も出していると言うんで、僕の父さんに頼んで買ってもらって、その全著作を読んでみる事にしたんだ。…正直、高校生の僕には大変に難しかったけれど、でもやはり僕の先生に対する印象が間違ってなかったことだけは確実に分かったんだ」
「それは何で?」
「それはねー…先生の処女作から、その当時の最新作までの間、世の中の見方に一切ブレが見られなかった事なんだ。つまり…何十年も前から同じ事を世間に訴え続けてきたということだね」
「何十年も…」
確かにパッと見では、義一と神谷さんがとても似通って見えていたが、何十年もの歳月を経ても、一切ブレないのは、そんじょそこらの”変わり者”ではないと思わされた話だった。
「今年も本を上梓されたから、正確に言えば…」
義一はまた話を続けた。その様はどこか誇らしげだ。
「えぇっと…あぁ、今年で丁度四十年か…最初のが確か、先生が三十四歳の時だったから」
義一は指を折り曲げてからボソッと言った。私は私で、頭の中で単純な足し算をした。そうか…神谷さんは今、七十四歳なのか。
「まぁ、それはさておき」
義一は一人で気を取り直してから、少し陽気な調子で言った。
「琴音ちゃんが奇しくも形容してくれたけど、それから僕は、先生の様な思考の術を身に付けたくて、直接本人に言わないまでに、勝手に私淑しているという訳だよ。だから先生呼びなわけ」
「なるほどねー…」
私はそうリアクションを取ってる間、あのお店の中で感じた、神谷さんに対する印象が間違いでは無かったことが確認出来て、心持ちがスッキリしていた。
「でも、類は友を呼ぶというのかなぁ」
「え?」
私がボソッとそんな事を言ったので、義一は表情を柔らかに、しかし怪訝気味に顔を向けてきつつ聞いた。
私も顔を合わせると、少し意地悪な笑みを零しつつ返した。
「だって、私は今日来ていた人しか知らないけど、どの人も自分の専門分野以外にも明るかったじゃない?ほら!”類は友を呼ぶ”よ」
「…ふふ、なるほどねぇ」
義一は腕を組みつつ、ウンウン頷いていたが、ふとまた私に顔を向けると、お返しのつもりか、意地悪くニヤケつつ言った。
「その”類”には、君も入っているんじゃないかなぁ?」
「…ふふ、そうかもね」
ここで普段のノリなら、不機嫌になって見せながら、生意気な返事をするところだったが、この時はそんな気分に何故かなれなかった。自分でも驚くほど、素直に返事をしたのだった。義一も意外だったのだろう。私が義一と神谷さんが似ていると言った時と同じくらいに目を見開いていたが、その後は何も言わず、珍しく普段よりも声を若干上げて笑うのだった。私も思わずクスクスと笑い返すのだった。
タクシーはいつの間にか繁華街を抜けていて、川に架かる橋を渡っているところだった。土手には照明が無いせいで、どこまでが川岸で、どこからが川か分からない程に、暗闇に包まれていた。笑い合った後は、お互いに示し合わせたわけでもないのに、そんな見慣れた風景を、それぞれの近くの窓から黙って眺めていた。
もうあと数分で私の家に着く。
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